#51 本当の名前
時計塔の前に立つと、たぬまりは思わず見上げた。 高くそびえる塔の先端には、大きな鐘が吊るされている。けれど、音は鳴らない。街に入ってからずっと、鐘は沈黙したままだった。
「ミミ、ここが気になるの?」
黒猫は、たぬまりの足元でくるりと回り、塔の扉の前にちょこんと座った。金色の瞳が、扉の奥をじっと見つめている。
「……じゃあ、行ってみようか」
扉は重そうだったが、押すと意外にもすんなりと開いた。中は薄暗く、螺旋階段が上へと続いている。壁には古い絵画や、魔法陣のような模様が刻まれていた。
「なんか……ちょっと怖いけど、ワクワクするね」
たぬまりはミミを抱き上げ、階段を一歩ずつ登っていった。 途中、窓から街の景色が見えた。パンプキン通りのランタンが灯り、仮装した住人たちが楽しげに歩いている。遠くから音楽が聞こえてきて、たぬまりは少しだけ安心した。
「この街、ほんとに不思議だなぁ」
階段を登り切ると、鐘のある部屋にたどり着いた。 部屋の中央には、古びた机と椅子があり、壁には魔法の記録らしき文字がびっしりと刻まれていた。窓辺には、埃をかぶった本が積まれている。
ミミは、机の上にぴょんと飛び乗った。 そして、一冊の本の前でぴたりと止まった。
「……これ?」
たぬまりが本を開くと、ページの端に小さく書かれた名前が目に入った。
“ミルフェリア・ノクティルカ”
「……ミルフェリア?」
ミミが、ふにゃっと鳴いた。 その声は、どこか懐かしくて、でも少し切なかった。
「あなたの本当の名前……ミルフェリア・ノクティルカ。街の名前と同じだ」
たぬまりは、そっと猫の背を撫でた。ミミ——いや、ミルフェリアは目を細め、静かに喉を鳴らした。
「この塔、あなたの主が使ってた場所だったのかな」
机の引き出しを開けると、古い手紙が出てきた。 そこには、柔らかい筆跡でこう書かれていた。
“ミルフェリアへ。 もし私がいなくなっても、君はきっと誰かに出会う。 その人が君の名前を呼んでくれたら、君はまた歩き出せる。 だから、忘れてもいい。思い出すために、旅をしてもいい。 ——ルミエル”
たぬまりは、手紙をそっと閉じた。 ミルフェリアは、窓辺に歩いていき、街を見下ろした。ランタンの灯りが、彼女の瞳に映っていた。
「……思い出せたんだね」
鐘の部屋に、静かな風が吹き抜けた。 そして、誰も触れていないのに、鐘がひとつ、鳴った。
街の音楽が止まり、住人たちが空を見上げる。 パンプキン通りに、柔らかな鐘の音が響いた。
「ミルフェリア……」
たぬまりが名前を呼ぶと、猫は振り返り、ふにゃっと鳴いた。 その声は、確かに“ありがとう”と聞こえた。




