#37 ちいさな一日
夢見亭の午後は、星の光が柔らかく差し込んでいた。
浮上神殿ルールリエ店の開店準備も落ち着き、常連たちが本店に戻ってきていた。
たぬまりは水のソファに腰を沈め、紅茶を啜りながら、窓の外に漂う星の欠片をぼんやり眺めていた。
「今日は、のんびりできそう……」
そう思った矢先、厨房からツバキの声が響いた。
「できたぞー!」
ツバキは、鬼人の美しいお姉さん。
艶やかな黒髪を後ろでまとめ、額からはしなやかな角が二本、優雅に伸びている。
その彼女が、角を揺らしながら大皿を掲げて現れた。皿の上には、虹色に輝く不思議な料理。新食材「星の芽」を使った創作メニューらしい。
「見た目はちょっとアレだけど、味は保証する」
こまちは「わあ、面白そう!」と目を輝かせた。
彼女は黒髪ボブカットの人間の女の子で、今日の髪飾りは星型のピン。
毎日違う小物を身につけていて、夢見亭のオシャレ番長だ。
店長は「匂いは悪くないな」と鼻をひくつかせていた。
彼はシベリアン・ハスキーのような犬人で、二足歩行の大人サイズ。
毛むくじゃらで、見た目はほぼ犬。でも、グラスを磨く手つきは妙に器用だった。
たぬまりはソファから動かず、紅茶を啜ったまま首を振った。
「私は遠慮しとく。なんか……嫌な予感するし」
数分後、たぬまりがカップを置いたとき、目の前には信じられない光景が広がっていた。
ツバキの角はちいさくなり、こまちの髪はふわふわの赤ちゃんヘアに。
店長に至っては、毛むくじゃらのまま、サイズだけが子犬ほどになっていた。
三人とも、赤ちゃんになっていた。
ツバキは、ちいさな角をぴょこぴょこ動かしながら、床をはいはいしていた。
こまちは、ふにゃっとした笑顔でたぬまりのスカートを握っている。
店長は、ちいさな前足でたぬまりの膝に乗り、くぅんと鳴いた。
「えっ、えっ、待って、どうしよう……」
たぬまりは、三人を順番に抱き上げてみた。
ツバキは意外と重く、こまちは軽くて柔らかく、店長は毛がもふもふしていて温かかった。
腕の中で、彼らは無邪気に笑っていた。
「とりあえず……お世話するしかないか」
おむつ替え(ゲーム内アイテムで自動処理)、ミルク(星のミルクという謎の飲料)、昼寝の誘導、泣き声の対応。
たぬまりは、汗だくになりながらも、三人を抱えて奮闘した。
「よしよし、ツバキちゃんはお昼寝しようね」
「こまちちゃん、帽子は食べ物じゃないよ」
「店長、そこは噛んじゃダメ!」
最初の数時間は、なんとか乗り切った。
ソファに座り、三人を膝に乗せていた。
ツバキは腕の中でスヤスヤ眠り、こまちは指を握って遊び、店長はしっぽをふりふりしていた。
「……なんとかやれてるかも」
そう思った瞬間、店の常連たちが赤ちゃんたちを見つけ、次々に集まってきた。
人魚スタッフがツバキを抱き上げ、こまちはオシャレな髪飾りをつけられ、店長は子どもたちに囲まれてお腹を撫でられていた。
たぬまりは、ぽつんとソファに座っていた。
誰も泣かない。誰も困っていない。みんな、楽しそうに赤ちゃんたちと遊んでいる。
「……あれ?私、いらない?」
胸が、きゅっと締め付けられた。
星の巫女として、神殿を浮上させたあの日よりも、ずっと寂しかった。
そのときだった。
ツバキが、よちよちと歩いてきて、たぬまりの頭をぽんぽんと撫でた。
こまちは、たぬまりの背中を優しくぽんぽんしてくれた。
店長は、ちいさな前足でたぬまりの手を握った。
その仕草は、たぬまりが彼らにしてあげたことだった。
涙が、こぼれそうになった。
「……やっぱり、私が責任もってお世話する!」
たぬまりは、三人を連れて神殿の庭で遊んだ。
星の光が差し込み、芝生がきらきらと揺れている。
ツバキは角を光らせながら転がり、こまちは花を摘んで笑い、店長は星の欠片をくわえて走り回っていた。
たぬまりは、三人の後ろを追いかけながら、何度も転び、何度も笑った。
夕方には、みんなで星の展示室を見て、星の名前をつけて遊んだ。
こまちは「これ、こまち星!」と叫び、ツバキは「つばき星は赤!」と主張し、店長は「わん!」と吠えていた。
夜、夢見亭のソファに四人が並んで眠っていた。
たぬまりは、三人を腕に抱えながら、静かに寝息を立てていた。
ツバキは頬をすり寄せ、こまちは指を握り、店長はしっぽをたぬまりの腕に巻きつけていた。
朝。
たぬまりが目を覚ますと、腕の中には元の姿に戻った三人がいた。
ツバキは、いつもより柔らかい笑顔で髪を撫でてくれた。
こまちは、そっと手を握ってくれた。
店長は、背中をぽんぽんと優しく叩いてくれた。
「……なんだよ、いつもそんなことしないだろ」
たぬまりは、涙がこぼれそうになるのを笑ってごまかした。
今日の夢見亭はいつもより少しだけ、優しい日。
赤ちゃんになる話からしか取れない栄養があるのです




