#106 ちっぽけな果て
「次の街はどこかな~」
たぬまりは魔女の箒に乗って、空を滑るように進んでいた。グランフォルテを離れてから、もうどれほど経ったか分からない。地図に載っていない道を選び、街道を外れて、ただひたすらに空を進む。目的地はない。ただ、行けるところまで行ってみたい。それだけだった。
最初に広がっていたのは、どこまでも続く野原だった。風に揺れる草が波のように広がり、ところどころに咲く花が色とりどりの絨毯を織っていた。黄色、白、紫、そして見たことのない青い花も混じっている。小さな動物たちが草の間を駆け抜け、鳥たちが空を舞っていた。陽射しは柔らかく、空気は澄んでいて、箒の速度を落として漂うにはちょうどいい。
やがて地形は緩やかに起伏を増し、山岳地帯へと変わっていった。岩肌が露出した斜面、針葉樹が密集する谷間、そして遠くに見える雪をかぶった峰々。箒は高度を上げ、山の稜線をなぞるように飛ぶ。冷たい風が頬を撫で、たぬまりは首元を押さえた。山の影が長く伸び、谷底には霧が溜まっている。時折、岩の隙間から湯気が立ち上り、温泉らしき湯煙が見えた。
山を越えると、今度は川が現れた。蛇行しながら流れるその水は、太陽の光を反射して銀色に輝いていた。川沿いには小さな滝がいくつもあり、水音が風に乗って耳に届く。川の中には魚影がちらつき、岸辺には水を飲みに来た獣の姿も見えた。たぬまりは箒を低くして、川の流れに沿ってしばらく進んだ。
さらに進むと、湖が広がっていた。鏡のように静かな水面が、空と雲を映し出している。湖の中央には小さな島が浮かび、そこには古びた祠のようなものが見えた。たぬまりは少し迷ったが、今回は通り過ぎることにした。目的もなく、ただ進む。
湖を越えると、海が見えてきた。水平線が広がり、波が白く砕けている。潮風が吹き、塩の匂いが鼻をくすぐった。箒はそのまま海の上を進む。下には時折、群れをなす魚の影や、浮かぶクラゲのようなマモノの姿が見えた。空は広く、雲は少なく、風は穏やかだった。
しかし、街らしい街はどこにも見当たらなかった。港もなく、灯台もなく、ただ自然だけが広がっていた。たぬまりは少し眉をひそめた。
「……街道も、もう見えないな」
地上を見下ろすと、舗装された道はいつの間にか消えていた。代わりに、濃い緑が地面を覆っている。深い森だった。
その森は、ただの林ではなかった。木々は高く、幹は太く、枝葉は空を覆い隠すほどに広がっている。葉の色は濃く、ところどころに紫や青みがかったものも混じっていた。森の中には霧が漂い、地面は見えなかった。鳥の声も、虫の音も、どこか遠くから聞こえてくるような、夢の中のような響きだった。
箒で森の上を進むと、時折、木の間に建物のようなものが見えた。だが、それはすぐに霧に紛れて消えてしまう。幻かもしれないし、本当に誰かが住んでいるのかもしれない。たぬまりは深入りせず、ただ上空を滑るように通り過ぎた。
森を抜けると、再び海が広がった。今度は本当に、何もなかった。空と海だけが果てしなく続いている。太陽は高く、雲は少なく、風は穏やかだった。
「……さすがに飽きてきたな」
たぬまりは、箒の上で背伸びをした。風景が変わらないと、時間の感覚が曖昧になる。どれだけ進んでも、水平線は遠ざかるばかりだった。
それでも、たぬまりは進んだ。どこかに何かがあると信じて。あるいは、何もないことを確かめるために。
日が傾き、空が赤く染まり始めた。海は夕焼けを映し、金と朱のグラデーションが波間に揺れていた。たぬまりは箒の上で軽く目を閉じ、風の音に耳を澄ませた。
夜が来た。星が瞬き、月が昇る。たぬまりは箒の上で毛布をかぶり、眠りについた。空の上で夜を越すのは初めてではなかったが、やはり少し心細い。
朝。太陽の光で目を覚ましたたぬまりは、箒の上で伸びをした。体は少しこわばっていたが、空気は清々しかった。
「……まだ、何もないな」
それでも、進む。どこかに辿り着くまで。
そして、昼を過ぎた頃だった。遠くに、ぽつんと浮かぶ小島が見えた。近づいてみると、島は岩と草に覆われていて、建物らしきものは何もなかった。ただ、中央に一本の石柱が立っているだけだった。
「……なんだ、あれ」
たぬまりは、箒を降りて島に着地した。足元はざらついた岩で、ところどころに苔が生えている。風が吹き、草が揺れた。
石柱は、思ったよりも大きかった。人の背丈の二倍ほどあり、表面には何かの文字が刻まれていた。だが、風化が進んでいて、判読は難しい。
たぬまりは、石柱の前に立ち、しばらくそれを見上げていた。何もない島。何もない海。何もない空。
それでも、ここには何かがある気がした。




