#103 夜逃げ
夜の帳がすっかり降りた頃、たぬまりはそっと宿を抜け出した。
ふかふかのベッドと、刺繍入りの毛布の誘惑を断ち切るのに、思ったよりも時間がかかった。
けれど、このままでは本当にダメ人間になってしまう。
わんわんパラダイスは、甘くて優しくて、あまりにも居心地が良すぎた。
宿の扉を静かに閉め、石畳の通りを抜けて城門へ向かう。
深夜のモルテールは静かだった。
昼間の賑わいが嘘のように、通りには誰もいない。
けれど、どこかの家の窓からは、まだ灯りが漏れていて、犬族たちの穏やかな暮らしが続いていることを感じさせた。
門の前に立つと、やはり門番の犬族たちがいた。
二匹とも、たぬまりの姿を見てすぐに気づいたようだった。
片方が耳をぴくりと動かし、もう片方が小さく笑った。
「……やっぱり、出るんですね」
「今のうちに行くしかないもんな。良ければまた来てください」
「お気をつけて」
たぬまりは、少しだけ申し訳なさそうに頭を下げた。
彼らはそれ以上何も言わず、門を開けてくれた。
冷たい夜風が、外の世界から吹き込んでくる。
門を抜けると、そこは広大な平原だった。
街道が一本、まっすぐに続いている。
両脇には草が風に揺れ、遠くには低い丘が連なっていた。
空は雲ひとつなく、満天の星が広がっている。
「……綺麗だな」
たぬまりは、しばらく歩いた。
足音が草を踏む音と混ざり、夜の静けさに溶けていく。
空を見上げると、星々が瞬いていた。
まるで、手を伸ばせば届きそうなほど近くに感じる。
「そうだ、箒があるじゃん」
たぬまりは、魔女の箒を呼び出した。
黒い柄に紫の房がついた、あの頼れる乗り物。
ふわりと浮かび、たぬまりを乗せて空へと舞い上がる。
高度が上がるにつれて、地上の街道が細い線になっていく。
草原は夜の闇に沈み、代わりに空が広がっていく。
星の海に包まれるような感覚。
風が頬を撫で、髪が揺れる。
たぬまりは、手を伸ばして星を掴む。
届くはずもない星を触るのは相変わらず不思議な感覚だ。
思わず笑みがこぼれる。
「大陸が変わっても星は変わらないね」
箒は滑るように進む。
下には、夜の大地が広がっている。
ところどころに小さな集落の灯りが見え、川が月明かりを反射して銀色に光っていた。
森は黒い影のように広がり、風が木々を揺らす音が、かすかに耳に届く。
遠くの丘の上には、風車がゆっくりと回っていた。
その羽根が月を横切るたび、影が地面に落ちては消えていく。
草原の中には、夜行性のマモノがちらほらと姿を見せていたが、箒の高度までは届かない。
たぬまりは、彼らを見下ろしながら、静かに通り過ぎていく。
途中、小さな湖が見えた。
水面は鏡のように空を映し、星が湖の中にも浮かんでいるようだった。
湖畔には、野営しているらしき旅人の焚き火が見えた。
その火は小さく、けれど確かに温かさを感じさせた。
「次の街まで、どのくらいだろう」
たぬまりは、マップを開いて確認する。
フェルナティア大陸の地図は、まだほとんどが未踏のままだ。
次の街の名前すら分からない。
けれど、それがいい。
どこに辿り着くのか分からない旅は、いつだって面白い。
箒は、夜の空を滑るように進んでいく。
星を弄び、風を切り、たぬまりは次の出会いを探していた。




