成都の川が赤く見えた青年の誓い
挿絵の画像を作成する際には、「AIイラストくん」と「Ainova AI」と「Gemini AI」を使用させて頂きました。
四川省省都、成都。
我が中華王朝の南西部に位置する古都の中心部を流れる錦江のほとりにおいて滞りなく執り行われた慰霊祭は、我が国は勿論であるが台湾島の中華民国や日本といった友好国に於いても民達の耳目を集めたらしい。
まあ、それも無理からぬ事じゃろうな。
何しろ我が中華王朝の愛新覚羅王室の肝煎りで開催された慰霊祭で鎮魂されたのは、直近の事故や災害の犠牲者ではないのじゃから。
今を去る事、おおよそ四百年余り。
李自成と共に農民反乱軍を率いた張献忠は、四川へ入蜀して大順を建国し自らを「大西皇帝」と称して国家運営を始めたのじゃ。
もしも善政を敷く事が出来たならば、張献忠は劉邦や劉備と同じく蜀の人々から永く慕われたじゃろう。
されど、そうはならなかった。
満州族の清が誇る騎馬隊の猛攻と大順国内で相次ぐ反乱により天下人の夢を断念した張献忠は、自国である大順が他の者の手に落ちるのを嫌がるあまり、それに先んじて自ら滅ぼす事に決めてしまったのじゃ。
こうして四川に殺戮の嵐が吹き荒れ、流れた血は成都の川を赤く染めてしまう程であったとか。
それ故に明末に張献忠の行った虐殺は、「屠蜀」という土地に因んだ呼び名だけではなくて「屠川」とも呼ばれておるな。
妾こと愛新覚羅翠蘭第一王女と父上である劉玄武王配殿下が参列した慰霊祭は、この張献忠による「屠川」の犠牲者を弔うために執り行われたのじゃ。
今から四百年以上昔の明末に起きた虐殺の犠牲者を弔うという、些か風変わりで異例な慰霊祭。
この四川省での公務を終えて北京の紫禁城へ帰城した妾は、父上にこう尋ねられたのじゃ。
「翠蘭第一王女、貴女にお聞きしたい事があります。貴女の目には、成都はどのように写りましたか?」
普段と変わらぬ穏やかな口調ではあったが、それは何とも抽象的で奇妙な問い掛けじゃった。
「はあ、父上…どのようにとは、如何に?私には至って平穏な歴史ある街並みに見えましたが…」
「ああ、これはしたり。私の聞き方が不適切でしたね、翠蘭第一王女。それでは率直にお聞きしましょう。慰霊祭は錦江のほとりで執り行いましたね。その時、貴女の目に錦江は普通の川に見えましたか?水面に何か違和感を抱く事は御座いませんでしたか?」
率直という言葉とは裏腹に、父上の問い掛けはますます奇妙な物になっていた。
公務の際に父上は、何か奇妙な物を御覧になってしまったのか。
或いは単なる公務のお疲れか。
お聞きしたい事は色々あった。
とは言え、今この瞬間に質問されているのは妾なのじゃからな。
「いいえ、父上。私には至って清浄な普通の川にしか見えませんでした。」
「そうでしたか、翠蘭第一王女。ああ、良かった。それなら本当に良かった…」
豪奢な漢服の胸を撫で下ろしながら漏らした溜め息は、心からの安堵に満ちた物じゃった。
「翠蘭第一王女、貴女には随分と御心配と御手数をかけてしまいましたね。御手数ついでに、この父の昔話に少しだけお付き合い頂きたいのです。」
「それは父上が今上女王陛下との婚姻を結ばれる以前のお話であり、尚且つ先の御質問とも関連性を有した御話で御座いますのね。」
妾の問い掛けに軽く頷かれ、父上は遠い目をしながら切り出されたのじゃ。
それは何とも奇妙で、尚且つ物悲しい話じゃったよ。
それはまだ、父上がシンガポールの華僑社会に属する一介の青年紳士に過ぎなかった頃の事。
建国間もない中華王朝に観光客として降り立った若き日の父上は、旅先である四川省成都で奇妙な現象に遭遇してしまったのじゃ。
「な…何だ、これは?」
観光客の行き交う成都の喧騒には似つかわしくない、何とも陰々滅々たるうめき声。
数千数万もの人々が、死に瀕して助けを求めている。
しかしながら、それらしき人間は一人もいない。
この不可解極まりない現象を解き明かそうと視線を動かした若き日の父は、次の瞬間に心底から後悔したのじゃ。
「うっ…!?」
何と眼下に広がる錦江の流れが、赤黒く染まっていたのじゃからな。
その有り様たるや、正しく大量の鮮血を流したかのようじゃったよ。
「うっ…うわあっ!」
もう矢も盾もたまらず、錦江のほとりから逃げるしかなかったそうじゃ。
不思議な事に、錦江のほとりから距離を置いた頃には奇妙なうめき声も収まっていた。
それでどうにか人心地つこうと、一軒の茶館へ足を踏み入れたそうじゃ。
「いらっしゃいませ、観光客の方ですか?まあ!どうなさったのです、その真っ青な御顔は?まるで血の気が失せたキョンシーみたいに…」
出迎えてくれた店員の怪訝そうな声で、ようやく人の世へ戻ってきたように感じられたそうじゃよ。
「血の気?ああ!これは、その…」
その言葉に促されるように、若き日の父上は自身の異常な体験を包み隠さずに説明したのじゃ。
何万人ものうめき声に血に染まる川の水、その全てをな。
「それは恐らく、この四川省で張献忠が起こした明末の『屠蜀』の犠牲者達の声なのでしょうね。」
話を最後まで聞き終えると、年若い店員はそう静かに言いながら冷水のお代わりを提供したのじゃ。
混じり気の無い透き通った冷水が、若き日の父上には事更に身にしみたそうな。
「お祖父さんの昔話で聞いたのですが、この錦江も当時は血で赤く染まったと伝えられています。何しろ数百万の人々が苦痛に苛まれながら命を落としたのですから、その無念の声が時を超えて聞こえる事があるのかも知れませんね。」
店員の声に、若き日の父上は何も返事が出来なかった。
恐らくは背筋が凍る思いだったろうな。
母親から「遼来々」と言われて夜泣きをたしなめられた幼子でも、ここまでひどくはあるまい。
だが、そんな父上の脳裏を一つの疑問が過ったのじゃ。
「しかし張献忠の虐殺で、四川の生え抜きの人はほとんどいなくなったと聞きました。今ここにいるのは、清朝の移民政策で移り住んできた人々だと…」
だから、今いる人々に訴えかけても何もならないのではないか。
ましてや自分は、シンガポールから来た旅行者なのに…
若き日の父上は、言外にそんな意味を含ませていらっしゃったらしい。
「恐れながら申し上げますと…」
すると年若い店員は、小さく微笑を浮かべたのじゃ。
「だからこそ、お客様には聞こえたのかも知れませんね。もしかしたら、お客様の遠い御先祖様に、四川に縁のある方がいらっしゃるのかも知れませんよ。」
遠い過去を見つめているかのような眼差しは、張献忠によって血で汚れる前の錦江でも見ていたのかも知れんな。
「なっ…!」
だがその一言こそが、若き日の父上がその日に受けた最大級の衝撃だったのじゃよ。
何しろ父上の一族である劉氏は、雌雄一対の剣を代々受け継ぐ劉備玄徳の末裔なのじゃからな。
「そうか、だから私は…」
愕然としながらも、若き日の父上は全てを理解されたのじゃ。
どうして数ある中国大陸の名所の中で、敢えて成都を目指されたのか。
どうして自分にだけ、うめき声や血の色に染まる川面を知覚出来たのかをな。
「きっと張献忠によって殺された明末の成都の民達は、自分達の悲しみを理解して欲しかったのでしょう。蜀漢皇族の末裔にして四川の同胞である、この私こと劉玄武に。」
穏やかでありながらも、決して揺るぎの無い声色じゃった。
若き日に成都で遭遇した怪異に纏わる恐怖心。
恐らく父上は、それを一種の誓いという形で昇華されていたのじゃろうな。
すなわち、「いつの日か必ず、慰霊と鎮魂の儀式を行う」と。
そして中華王朝の王配として式典を執り行える立場となられた今、その約束を果たされたという事か。
「左様で御座いましたか、父上。その御話をお聞きして、私も理解致しました。父上は錦江の水面が赤く染まっているか否かを確かめられる為に、私に問われたのですね。」
そんな妾の問い掛けに、父上は静かに頷かれたのじゃよ。
「その通りですよ、翠蘭第一王女。私の目には正常な川の色に見えたのですが、見間違いという可能性も御座いますからね。しかし貴女の目にも正常に写ったならば、きっと成都の人々の魂も救われたのでしょう。」
「私の…はい、父上。それは然りで御座いますね。」
母上である今上女王陛下から愛新覚羅の姓と満州族の誇りとを継いだ妾ではあるが、その血筋の半分が劉氏であるのもまた事実。
妾もまた、劉備玄徳の血統の一人なのじゃ。
その妾の目にも錦江の川面が正常に見えたならば、きっと明末に亡くなられた成都の人々の魂も救われたに違いない。
大清帝国を興したヌルハチの子孫として、蜀漢皇族の劉氏の末裔として。
そして何より、中華王朝の次期天子である愛新覚羅翠蘭第一王女として。
これからも万民の為に、妾も出来る限りの事を行わねばな。