#2
『海谷駅』と書かれた駅名が見えた瞬間、僕は足を止めて数回ほど深呼吸を繰り返す。走ったせいで乱れた髪を手櫛で直すと、小さく咳ばらいをしてから改札に向かって歩いて行く。早朝の時間帯は朝練習に向かう生徒のほかはスーツを着た会社員だけで、僕は彼らに混じってICカードを改札に通すと普段乗る番線に向かって階段を上ってゆく。灰色の僅かに汚れた階段にローファーの踵がかつんと鳴ったのが解った。
星花女子学園前駅へ向かうために3番線のホームに降りると、そのままちょうど良いタイミングで滑り込んできた電車に乗り込む。空席に腰掛ければ足元の暖房はもうついていなくて、そんな些細なことに「そうか、春が来たんだな」と考えてしまう。海谷市もこれから向かう星花女子学園がある空の宮市もどちらも温暖な気候だから、春にはもう桜は散っている。……最も、桜が咲いているだけで浮かれるほど綺麗な心の持ち主でもないのだけれど。
海谷駅から星花女子学園前駅に向かうまでの間、僕は何となく携帯の中に入れているラジオアプリを起動する。そこから流れてくる誰かの声に意識を向けると、そのままゆっくりと目を伏せる。途端に微睡んでゆく自分の意識に、そう言えば昨日の夜はあまり眠れなかったななんてぼんやりと考えた。眠れようが眠れまいが、朝は平等にやってくる。祖父母の家で行っている家事だって、僕があの家にいるために必要なことなのだから仕方がない。そんなことを考えていれば、ふと頭の中に今朝の祖母の何か言いたげな表情が浮かんで、それを振り払うようにラジオの音量を上げてから小さくため息をついた。
正門をくぐると、春特有の柔い花の香りが鼻腔を擽った。星花女子学園が位置する空の宮市はもともと温暖な地域で、四月のこの時期にはもうほとんど桜の花は散ってしまっている。だからきっとこれは星花の園芸部が育てている花の香りなんだろうと思いながら横目で園芸部の花壇を見れば、そこには色とりどりの花が咲き誇っていた。華やかなそれにほんの少し気分が浮き足立つような気持ちで頬を緩めると、自宅から持ってきた始業式までの流れが書かれた紙を取り出す。始業式前には一度自分が一年生の時期に所属していたクラスへ向かって、そこで出席確認を終えてから新しい自分のクラスへ荷物を持って移動する。階段をあがって僕が以前所属していた高等部一年三組へ向かいながら「今年のクラス担任は誰なんだろう」なんて、何処か落ち着かない気持ちで一年三組の教室のドアノブに手を伸ばした────のだが。
「ん?」
教室の引き戸をひけば、ガチガチと言う固い音がした。まだ早い時間帯だから教室の鍵は開いていないのかと思い出して、しばらく考えた末に仕方がないと内心溜息を吐きながら一階の職員室の方へ教室の鍵を借りに足を向ける。リノリウムの床に上履きの底が擦れて、きゅっと言う耳障りな短い音をたてた。
(……早く来すぎたかな。明日からは少し時間を調節しよう)
溜め息をつきたい気持ちを堪えながら階段を降りて職員室のドアをノックしようとした瞬間、殆ど同時ともいえるタイミングで扉が開く。突然の出来事に少し面食らえば、ドアを開けた女性────昨年度の高等部一年一組の担任をしていた、社会科担当の愛瀬先生と目が合って。動揺を呑み込んだ僕とは対照的に、彼女はその澄んだ焦げ茶色の瞳を驚いたように見開くと「わっ!」と言う声をあげる。彼女の動作に比例するように、腰ほどまである長く艶やかな茶髪が微かに揺れた。
「び、びっくりした! どうしたの、佐伯さん」「……すみません。一年三組の教室の鍵を借りにきました。勉強したかったんですが、教室が開いてなくて」
そう言ってほんの少し困ったように笑えば、愛瀬先生は「ちょっと待ってね」と言って職員室の壁に掛かっている無数の鍵の中のひとつを持ってきてくれてから「はい、どうぞ。佐伯さん、いつも早いんでしょ? 三組の先生が褒めてたよ」と言って微笑んで。その言葉に曖昧に笑うと「ありがとうございます」と返す。
「先生を取りに行かせてしまってすみません」「いえいえ、気にしないで」
愛瀬先生から受け取った鍵を手に取れば、カチャリと言う冷たい鍵の感触が掌に伝わった。[一年三組]と書かれたプラスチックの札を指先で軽く弄ぶと、「ありがとうございます、失礼しました」と言って一礼してから教室へ向かうために踵を返した。
一年三組の教室の鍵穴に鍵を差し込んで回せば、ガチャリと言う重い音がすると同時にドアが開く。引き戸をゆっくりと開けながら鍵を教卓の上に置くと、一年三組の時の自分の定位置になっていた教室の窓際の一番後ろの席に座って参考書とノートを取り出して勉強を始める。静かな室内にシャープペンシルがノートを引っ掻く音が微かに響いていた。
中等部の頃から早朝に教室で勉強をしていると言うことは、今ではもうほとんどの先生の間で知られていることだった。優等生に見られたいわけではなくて、ただ単純に自分のプライドの高さと、成績が落ちたことで両親に祖父母との穏やかな生活に口を出されるのも癪に障るからだけど。
僕は小さく溜め息をつきながらある程度まで勉強をすすめると、休憩のためにシャープペンシルを机の上に投げ出して伸びをする。昨晩あまり良く眠れなかったせいかそのまま自然と欠伸が出て、こんな間抜けな顔は誰にも見られたくないなんて思った。後ろに体重を掛けると、自然と椅子に座った自分の身体はだらしなくずり落ちる瞬間のような格好になって。灰色の学校指定のネクタイが、きゅっと自分の喉を絞めるような息苦しい感覚が不快で、そして同じくらいどうしてか安心した。
真上を向いた自分の視界に飛び込んできた蛍光灯の光が眩しくて思わず目をすがめればほんの少しだけ喉がひきつったような感覚がして、それが少し不愉快で半身を起こしてから椅子に座り直すと小さく溜め息を吐いた。
(……結局、僕は星花で何がしたいんだろう)
望まれるままに生活をしてきたはずなのに、時折どうしようもなく虚しくなってしまう。他人の勝手な理想をなぞって生きてゆく方が間違えなくてずっと楽なのに、たまに自分が吐き出す言葉の全てが薄っぺらく空っぽな気もする。それでもここにいるためには王子様を演じることしか出来なくて、同時にここには『ただの佐伯光』は必要ないんだとも思う。きゅっと瞼を閉じた瞬間、不意に机の上に置いておいた携帯電話が低く唸り声をあげた。そう言えば電源を切っていなかったと慌てて体勢を起こせば、それはどうやらメッセージアプリからの通知のようで『天文部』と書かれたグループ名が表示されるのを見て、携帯電話をサイレントモードに直してからメッセージをタップして開けば、天文部部長から今日の新入生勧誘の流れについてが記載されたメッセージが送られていた。
『今日の午後の新入生勧誘について:各クラスの顔合わせ終了後、天文部の部室に集合してください。お昼を食べながら、チラシ配りの場所と新入生歓迎会について割り振りをします。遅刻厳禁でお願いします』
簡潔なそのメッセージに了承した旨を伝えると、携帯の電源を今度は完全に切ってから再び勉強に戻る。
ざわざわと騒がしくなり出した廊下の様子に壁に掛かった時計を見れば、時刻は殆どの生徒が登校してくる時間帯で。「もうそんな時間か」と思いながら急いで耳に掛けていた髪を直してノートと問題集を机のなかにしまうと、殆ど同じタイミングで教室の戸がガラリと開いて、数人のクラスメイトが入ってくる。
「おはよ、光の君」
そのうちの一人にとんとんと肩を叩かれて振り向いて「おはよう」と返せば、彼女は柔く微笑んだまま「クラス替えしたら寂しくなっちゃうねぇ」と続ける。
「そうだね。一年三組、楽しかったから」「ねー! このまま二年生になれたら良いのに」
少し残念そうな顔でそう言う彼女に「はは、そうだね」と適当に返していれば、廊下の方からわっと大きな声が聞こえてきて。それに瞬きをしながら「な、なに?」と言えば、目の前の彼女は「一年一組でしょ」と言って苦笑した。
「ね、あたし達67期生って[キセキの世代]って言われてるんだって、知ってる?」「はは、なにそれ? 漫画みたいだ」
突拍子もない言葉に思わず苦笑すれば、「めぐみん先生が言い始めたらしいけどね」と彼女も苦笑して。「まぁでも、67期生全体って言うよりは一年一組だけの呼び方って言った方が近い気もするなぁ」と言う彼女に曖昧に笑えば、彼女はくすりと笑いながら「光の君も今年は愛瀬先生だったりして」と言う彼女に対して「まさか」と返す。
「まさか」「どーかなぁ? まさかのまさか────ってこともあるかもよ?」「はは、もしもそうだったら面白いね────っと」
にやにやと笑う彼女とそんなことを話していれば、やがて教室の戸が開いて一年三組のクラス担任が入ってくる。クラス委員の号令のもと朝礼を終えると、始業式の連絡事項と新しいクラス替えの紙が配布される。確認後に荷物をもって移動するようにと言う担任の話を聞きながら用紙を確認すれば、
「────げ」
用紙を確認してから思わず口をついてでた言葉を咳払いで誤魔化しながら、用紙に書かれた自分のクラスとクラスメイトを確認して。その名前を上から順に見ていけば、そこに書かれたほとんどの名前が先程話題に上がっていたあまりにもキャラクターが濃すぎる人々────星花女子学園高等部旧一年一組に在籍していた人が多くて。「光の君、二年二組じゃん! 離れちゃったなー」と言う先程の彼女のどうでも良い言葉を聞き流しながら、心のなかで思わず呟いた。
(……無事に一年間が終われば良いけど)
これからの一年間を想像して痛みだした頭を振り払うように溜め息を吐きながら、配布されたプリントを薄い青色のクリアファイルの中へとしまった。
「光の君、クラスは離れちゃったけど、絶対また遊ぼうね!」「お昼誘いに行くから!」「うん、ありがとう」
今まで一緒に過ごしていた友人たちとそんなことを言い合いながら、二年二組の教室へと向かう。その途中、「お、光の君じゃん。どこ?」という言葉に「二年二組だよ」と当たり障りない会話をしながら二年二組の教室の戸を開くと、黒板に貼られた席順を確認してから指定された席に着いて、ほっと息を吐いた────瞬間だった。
「わはは! 泉見さんも同じクラスだったなんて驚いたな!」
教室を揺さぶるのではないかと言うほどの大声に思わずびくりと肩が跳ねるのがわかった。なんだよ、と思いながら声のしたほうに視線を向ければ、そこには二人の生徒が立っていて。特に背が高い方のおかっぱの少女が「ヒーロー君、相変わらず声がでかいよねェ」と少し嗜めるような声色で呆れたように呟いた。
視線の先にいたのは、旧一年一組に在籍していた[ヒーロー]と言う愛称で親しまれている塩瀬 日色と、生来の女性好きのせいで風紀委員のブラックリスト入りに片足を突っ込んでいると専らの噂になっている泉見 棗の二人だった。明るく熱血な印象を受ける塩瀬と、どこか人を食ったような底の見えない泉見とではどちらもタイプが異なるものの、程よく表面上は仲良くしてはいるようで。一年生の時も、用事があって時々一年一組に向かっていたときに二人が話していた姿を何度か見かけてはいた。ただし、仲が良い────と言うよりは、お互いに事務的なことは話す程度の仲であるのだろう。その証拠に、先程も一言二言話したら、すぐにお互いに自分の席へと戻って行ってしまった。……いや、泉見棗の方はと言えば昨年度から付き合い始めた自分の彼女の席へと向かって行って、「もうすぐ先生が来るから、大人しく座ってろよ」と冷たくあしらわれたようだったが。
僕はその様子を少しの間遠目で眺めてから、そのまま窓の外へと視線を動かす。星花女子学園が位置する空の宮市は温暖な気候のため、四月には既に桜が散ってしまう。そのため入学式には毎年、柔い若葉の下で記念写真を撮る生徒が多く、何とも季節感の無い写真が撮れるのが毎年の恒例だった。そんなことを話せば、僕の姉は電話口でげらげらと笑っていたのだけれど。
(新入生ね。天文部はどれくらい希望者がいるんだろう)
勧誘しに行くの面倒臭いなと考えながら窓の外を見ていれば、やがてガラガラと教室の戸が開いて今年の学級担任の先生が入ってくる。腰ほどまである長く艶やかな茶髪を微かに揺らしながら入ってきた彼女の姿に、その日二回目の「げ」と言う声が口をついた。
彼女はその艶やかな髪を揺らしながら端正な文字で黒板に名前を書くと、手に着いたチョークの粉を払ってからこちらを向く。大人びた肢体とは対照的に酷くあどけない顔をした瞳が、柔らかく僕たちを見つめていた。
「おはようございます、今年の二年二組の担任になりました、社会科担当の愛瀬めぐみです。去年の一年一組にいた人はもう知ってるかな? 今年一年、よろしくお願いします」
(愛瀬先生……ってことは────)
「────入ってきたときから思ってたけど、やっぱり今年は二年二組が[当たり]のクラスなんだね」
ぼそりと誰かが呟いたそんな言葉が、やけにはっきりと聞こえたような気がして。僕は今年一年の高校生活を想像して、ぎりと胃が痛むような気がした