#1
────はるか、光、おいで。今日からはじいちゃんたちと一緒に暮らそうな
両親の離婚が認められた日の朝に、申し訳なさそうな、それでいて少し怒ったような表情でそう言った祖父の言葉を今でもよく覚えている。その日は笑ってしまうほど空が綺麗な日で、遠くでは鳥がきゅーっと可愛らしい声を上げながら飛んでいる。それを横目に祖父の車に姉とともに前日にまとめたボストンバックを積みながら、自宅だったもののクリーム色の外壁を見て「もうここに帰ってくることは無いんだな」とぼんやりと感じていた。感傷的な気持ちだったと言うよりは、両親の再婚の邪魔にならないように自分たちが祖父母宅へ引き取られるのだと言う笑ってしまうほど悲劇的な出来事に、あまり実感がわかなかっただけなのかもしれない。
後部座席に乗ると、隣に座った姉がまるで家族の存在を確かめるように手を握ってきて、その手を握り返しながら窓から吹き込んでくる柔い春の風を感じていた。車のバックミラーには、両親に何かを言う祖父の後ろ姿が見えている。二人は祖父の言葉を僅かに俯きながら聞いていて、やがて祖父は伝え終わったのか運転席のドアを開けるとそのまま乗り込んでキーを回す。僕が昔、修学旅行のお土産であげた間抜けな顔をしたキーホルダーが車の振動で揺れるのを見ていれば、やがて車はゆっくりと発信してゆく。両親の、僕たちが祖父の車に乗ったのを見届けるともう義務は果たしたと言わんばかりにさっさと自宅に戻っていったことは、祖父にも隣で泣く姉にも言えなかった。もっとも、祖父は酷く怒っていたし、姉は僕の肩に顔を埋めて泣いていたから、二人を見る余裕なんてなかったけれど。
当時の僕たちが住んでいたS県空の宮市から祖父母の自宅がある隣の海谷市まで向かう途中、車内に流れていたのは地方のローカルラジオと姉がすすり泣く声、そして僕と姉が繋いだ互いの手のひらの熱だけだった。
────いかないでと言えば何かが変わっただろうかなんて思ってから、すぐにそんなことに意味はないなと思い直す。最初から壊れてしまっていたものを、直して、だまして、見ないふりをして続けてきた関係の終着点がこの有様だ。姉には悪いけれど、もともと家族として何かが決定的に欠落していた僕たちが、たとえどれほど話し合いを重ねたところで空いた穴を完全に埋められるとも思わなかった。
薄い紙一枚と印鑑でその日から完全に赤の他人になった僕たち家族は、当然のことながらその後に僕たちの両親が祖父母の家を訪ねてくることも、姉の結婚式に姿を見せることも無かった。……だから僕の中の[家族]と言うものの記憶は、あの日のあの瞬間で止まっている。両親の離婚と再婚が成立しても、姉が新しい家族を作っても、祖父母が僕の新しい家族になっても、それが何か大きく変化をすることもない。どれだけ後から正当な理由を付けたって両親がいなくなった事実は変わらないし、星花に入学前に提出した住所変更の手続きがもとの家に戻ることもないのだから。けれど、朝食を作って、昼食を友人達や時には一人で摂って、夕食を祖父母とともに食べて、勉強をして、時々祖父母宅から海を見に散歩をする生活に何一つ不満は無い。僕はごく平凡な人生を愛して、満たされている────そんな小さな事実だけが、知らない町に僕を繋ぎとめていた。
携帯電話の低いバイブレーションが静かな室内に響いていた。布団の中から無造作に手を伸ばしながら枕元に置いていた携帯電話をとると、画面を横にスライドしてアラームを止める。早朝特有の柔い薄黄色の光が窓から差し込んで、白いレースのカーテンの輪郭をまろやかに浮かび上がらせていた。
携帯の画面は六時を示していた。ゆっくりと布団から起きあがると、微かに痛む頭を抑えるようにして起き上がる。昨晩枕元で読んでいた小説を本棚へ戻しながら横目でカレンダーを見れば、赤いペンで始業式と書かれた自分の文字が映って。それを横目で見ながら、思わずため息を吐く。深い青色の掛け布団を払ってベッドを出る。足の裏に少し冷たい畳の感触を感じながら部屋を出る直前にふと視線を向ければ、そこには姉が置いていった鏡台があって。そこに映る自分の青いインナーカラーを隠すように乱暴に髪を直すと、そのまま八つ当たりのように部屋の襖を少しだけ乱暴に閉めた。
「おはよう、光」
スウェットの上からエプロンを着けて朝食を作っていると、不意に背後から柔らかな声が聞こえてきた。その声に微笑みながら「おはよう、おばあちゃん」と言えば、白地に青い花柄のパジャマを着た祖母は「朝はみんな忙しいんだから、無理しなくて良いんだよ」と言って笑う。
「気を遣ってるわけじゃないよ。作るの好きだから」「そうかい? それなら良いんだけどね」
祖母はそう言うとゆっくりと椅子に腰掛けて、僕はその様子を横目に見ながら、祖母の好きな梅昆布茶を淹れる。少し前まで近隣の工場で働いていた祖母は、自分がもう高齢になってきていることと少し前に病気をしたことから退職をして、今は散歩をしたり近隣のコミュニティセンターで同世代の友人たちと会話をしたりしながら穏やかに過ごしている。一緒にこの家で暮らしていた姉は数年前に結婚して家を出て、今は空の宮市北部に位置する夕月市で義兄と二人で静かに暮らしている。姉の部屋だった場所は今ではもう物置になって、僕が時々窓を開けて換気をする以外では、彼女の部屋に立ち入る人もいなかった。
「おばあちゃん、今朝は魚にしようと思ってたんだけど食べられそう? 一応、お茶漬けも用意したよ」「あぁ、ありがとうね。今朝はあまり食欲が無いから、お茶漬けを貰おうかな」
お茶をダイニングテーブルに置きながらそう尋ねれば、祖母はお茶を啜りながらそう言って。僕はそれに「解った」と答えると、手早くお茶漬けを作ってゆく。「すまないね」と言う祖母に「好きでやってることだから気にしないでよ」と言えば、祖母は曖昧に微笑んだまま静かにお茶を啜っていた。
────時計がわりにつけていた朝の情報番組が午前六時を告げていた。それを横目に見ながら「おじいちゃん、今朝は随分遅いね」と言えば、祖母はころころと鈴が鳴るような軽やかな笑い声を上げながら、「おじいちゃん、昨日は友達のお孫さんが中学生になったからってお酒を飲んでいたみたいでね。多分、まだ寝てるんじゃないかねぇ」と続ける。若い頃の祖父は酒豪だったようで、よく友人たちと酒を飲んでは朝帰りを繰り返して、祖母に怒られていたと言う話は僕たちの間では定番の笑い話だった。……定番のと言うよりは、それくらいしか笑い話になるようなものが無かったのだけれど。
「そう。それじゃあ、今朝は朝ごはんはいらないかな」「どうかねぇ。……ごめんよ、折角準備してくれたのにねぇ」
僕はお茶漬けを冷蔵庫にしまいながら、「気にしないでよ」と言って。そろそろ朝の支度をしようとエプロンを外すと、ダイニングテーブルの椅子の背凭れに引っ掛けて洗面所に向かう。その途中にふと祖母が「光」と僕の名前を呼んで、それに目線だけを向ければ、祖母は少しだけ申し訳なさそうな表情で「ごめんね」と言っていて、それが少しだけ不思議だった。
自室に戻るとスウェットを脱いで、星花女子学園の制服に袖を通してゆく。白いワイシャツに灰色のネクタイを結ぶ様子を鏡越しに見つめながら、「王子様みたいだ」なんてぼんやりと呟いて。そんな自分の考えを鼻で笑いながら、「こんなのが王子様なら、皆の人生はとんだ茶番劇だよな」なんて頭の中で呟く。そんな自分自身を打ち消すようにネクタイをきゅっと締めてから、青いインナーカラーを隠すように丁寧に髪を梳いて、学園指定の鞄を肩に掛けるとイヤホンを持って自室を出た。
「────じゃ、行ってきます」「あぁ、行ってらっしゃい。気を付けてね」
玄関まで見送りに来てくれた祖母に「ありがとう」と返してから玄関のドアの取っ手を押すと、酷く眩しい太陽の光に目を細める。雲一つない青空を見て「そう言えば今日は一日中晴天だって言ってたっけ」なんてぼんやりと思い出した。洗濯物を干してくれば良かったなぁと思いながら、イヤホンジャックにイヤホンを差し込むとラジオアプリを立ち上げてお気に入りの番組を聞く。軽快な音楽とともに流れてくるトークを聞きながら歩き出せば、潮の香りが温かな春風に乗って鼻腔を擽った。海に面した地域である海谷市では漁業が盛んで、海辺にはよく漁船が停まっている。空の宮市から海谷市に引っ越してきた当初はなかなか祖父母宅や近所の人々に馴染むことが出来なくて、こっそり家を抜け出しては海を眺めていた。あの頃、心配したように真っ先に僕を見つけてくれたのは姉で、「勝手にいなくなったら駄目でしょ!」と怒られたことを覚えている。それでも僕を真っ先に見つけて叱ってくれる姉に、僕が心酔するのは時間の問題で。見返りの無い終わらない家族愛を彼女に求めていたのだと気付いたのは、それから少し後の事だった。……まぁ結局、終わらない家族愛なんてものは端から存在してはいないのだけれど。
潮風で微かに乱れる髪を抑えながら時計を見れば、出席確認までには十分な時間があって。少し迷った末に少しくらいなら構わないだろうと海辺の方へ向かって歩を進める。太陽の光を受けて海面が煌めいて、それが少しだけ眩しくて目を細めた。
石の階段を降りて砂浜に入ると、ローファーの踵が砂の中に沈んでいく。歩きにくいなと思いながら靴下や靴を脱いで歩くのも面倒で、生まれたばかりのようにおぼつかない足取りでふらふらと砂浜を歩いて行く。海の近い地域では、潮風が周辺の家々にあまり良い影響を及ぼさないことが多いそうだけれど、僕は昔から穏やかに波が押し寄せては戻ってゆく様子を見るのが好きだった。
(────今日から二年生って言ってもあんまり実感わかないな。……何か新しいことがある訳でもないし)
イヤホンを通じて流れてくるトークに耳を澄ませながら波の動きを見ていれば、海面に太陽の光が反射して輝く。そんな様子を眺めながら、「僕とは正反対だな」なんて思った。
私立星花女子学園中等部に入学してから今年で五年が経っていた。あっという間に高等部に上がって、あっという間に二年生になって。唯一の肉親である姉はその五年の間に結婚して、新しい家族を作って隣の夕月市に引っ越していった。目まぐるしいほど環境も季節も移り変わっていくのに、僕だけがずっとどこにも行けないままこの海谷市で平穏な毎日を過ごしている。何か特別な出来事が起こるわけでも毎日が煌びやかに見えることもなく、ただただ平穏で静かな海の中を漂っている。終着点も始点も見えないまま僕だけが取りこのされてゆくんだろう。きっと、これからも。
「────ね、あそこにいるの、光の君じゃない?」「ほんとだ! ね、声かけてみる?」「えーっ!」
ふと後ろの方から聞こえた声に視線を向ければ、そこに立っていたのは僕の通う星花女子学園の後輩の姿で。僕は内心「げ」と思いながらも、意識的に笑顔を彼女達へ向けるとひらひらと手を振る。歓声を上げながら彼女たちが去ってゆく様子を見送りながら、僕は静かに溜息をついた。
イヤホンから流れる番組は、いつの間にかパーソナリティの声から番組終了を告げる音楽に切り替わっていた。僕は内心 聞き逃してしまったことに舌打ちをしたい気持ちを抑えながら、イヤホンをしまうと制服のポケットに携帯を入れて立ち上がる。立ち上がった表紙にスカートから砂がはらはらと零れた。
(……学校に着いたら一年生の復習をして今学期からの授業に備えないと、今年もトップクラスの成績を守れなくなる。成績の急降下で呼び出されたりしたらおじいちゃんたちにも姉さんにも迷惑がかかるし、「佐伯さんは家庭の事情が複雑だから」なんて絶対に思われたくない。……それに、)
「……僕は星花にいるために、王子様でいないといけないんだ」
僕は浅い呼吸を何度か繰り返すと、星花女子学園に向かって歩いて行く。温かな春の日差しは身体中に浸透するように温かくて、それが少し目障りだった。