この期に及んで恋にならなくていいなんて
煤の匂いが鼻につく。見渡す限りの焼け野原に、私とアキは立っていた。
「全部無くなっちゃったね」
薄汚れた頬を拭いもせず、彼女は私に微笑む。
「つまりこれでもう、君は泣かなくてもいいわけだ」
長い睫毛と綺麗な黒髪、涼やかな顔立ちに深い青色をした目が印象的である。けれどそんなアキの首には、敵陣殲滅兵器であることを示す戦闘アンドロイド番号が印字されていた。
「せっかくだから、少し歩いてみないかい?」
機械的な音声にあわせて、手が差し伸べられる。私は頷き、血の通わない冷たい彼女の手に自分の手を重ねた。
この凄惨たる光景は、アキ達アンドロイドが作り出したものである。どこかの国と国が起こした戦争は、少しずつ私達の日常を侵食し、ある朝とうとう牙を剥いた。人型兵器が飛び交う空を眺めていた人々の開きっぱなしの口目掛けて、次々と爆弾が飛び込んだ。
そして平和に慣れた人たちは、ほんの一握りの人を残してあっという間に焼け野原の一部分に変えられてしまったのである。
「ハル」
アキが地面を指差している。そこに埋まっていたのは、安っぽいおもちゃの指輪。彼女はしゃがみ込むと、パラパラと土を払った。
「ねぇ見て、ガラス玉がついている。向こう側が透けて見えて、とても綺麗だ。君、こういうものは好きかい?」
そうだね、と答えると、アキはどこか無機質な顔に存外人間らしい笑みを広げてみせた。
アキは、三ヶ月ほど前に落ちてきた他国製のアンドロイドである。調べてみると情報統制機能と言語機能、通信機能が故障していたので、試しにと弄ってみたのである。結果、彼女は私に忠実なアンドロイドへと生まれ変わった。
彼女はとても美しかった。そばに置いているだけで、孤独な私の心が慰められるほどに。
「ハルが嫌った世界にも、少しは美しいものが存在していた」
アキはまだ、何かを探している。ボロボロになった服の端が瓦礫に引っかかるのを、煩わしそうにしていた。
「でも、やっぱり汚いものだらけだったんだろう。でなきゃ、こんなことになった世界に浄化を感じられるはずがない」
人の骨が地面から出ているのが見つけて、アキに見えない場所でそっと土をかけてやる。わざわざ彼女に気づかせる必要は無い。
……噂に聞いたことがある。ある国では、アンドロイドは一体の人間から造られるのだと。人間を戦場に行かせるよりも遥かに頑丈で従順、統制の取れた兵となるので重宝されているのだと。
果たして、アキはどっちなのだろう。人だったのか、元々アンドロイドとして造られたのか。記憶が残っているのか、私の手で偶発的に生まれた人格が喋っているだけなのか。
「ずっと、ハルと二人だけで生きていけたらと思っていた」
また何か見つけたのだろう。アキは近くにあった石を使って地面を掘っていた。
「この世界は、ハルも私も傷つける。だから私は、とりあえず全部壊してみることにしたんだよ」
目的のものが手に入ったアキは、薄雲のかかる太陽にそれを掲げていた。それもまた、不恰好に潰れたおもちゃの指輪だった。
「ハル」
アキが私の名を呼ぶ。自分にとっては嫌いな名でも、彼女が口にすればまるで光の粒を纏ったかのようだ。
そばに行くと、アキはうやうやしく私の手を取った。
「君の心臓が鼓動をやめる時も、肺が健やかに呼吸を続ける時も。私は、君のそばで君が愛せる世界を作ると誓おう」
私の左手の薬指に、そっと指輪を通された。隅っこが欠けた、青いガラス玉の指輪。
「さあ、次は君の番だ。一体何を誓ってくれる?」
薄緑色のガラス玉のついた指輪を、渡された。私はぎこちなく笑みを浮かべて、アキの左手を持ち上げる。
たどたどしく並べた誓いの言葉に、アキはくすぐったそうに笑ってくれた。それからぶかぶかの指輪がはまった指を、宝物であるかのように目を細めて見ていた。
――愛おしかった。荒れ果てた世界で、彼女は最も美しく神聖な存在だった。こんなに綺麗なものがあるなど、アキを知るまで想像すらできなかったのに。
「行こう、世界の果てまで」
アキが私の手を引く。髪の一本一本が太陽の光に透けて、天使と見紛うばかりに輝いている。
――ああ、十分だ。もうとっくに私は十分なのだ。アキがいるだけで。アキが笑うだけで。アキが手を伸ばしてくれるだけで。
これ以上、望むべくもないのだ。
「ハル」
光の粒が落ちる。海よりも深い青が私を映す。
私はもう、とっくに世界を愛している。
手に手をとって、私たちは終末を走っていく。唯一許された誓いだけを、左手の薬指に宿して。