おまけ2 暴君は発明家を捕まえたい
言えない……存在自体忘れていたなんて言えやしない…………。
古来より芸術、特に絵画においてギリシャ神話は非常にポピュラーな題材ですが、中でも美しい少年の悲劇に人間の傲慢さとテクノロジー過信への批判を内包した『イカロスの墜落』は多くの芸術家によって描かれてきました。
古典絵画では髭(そして時にはハゲ)のマッチョダンディーな親父ダイダロスと、むっちりした白皙の美少年イカロスとの対比が妙にエロティック。そういえばダイダロスは大工でしたから、それなりに鍛えられた肉体を持っていても不思議ではありません。
古代ギリシャにおいては男性の鍛え上げられた肉体こそ至上の美であり、それを見せびらかすために陸上競技はほぼ裸で行われていたと言われています。絵画もその価値観に倣うため、二人ともだいたい全裸に近い格好で描かれます。いくら暖かい国とはいえ、裸で空飛んだら流石に寒いと思うんですけど。
空を飛ぶのに必須の翼はきちんとベルトで腕に装着している巨大な物もあれば、学芸会で天使の役をする人のように背中に背負うだけの「どうやってパタパタするの?」と聞きたくなる翼、背負うを通り越して背中から直に生えて人間辞めちゃってる翼、「それぜってー飛べねぇだろ」と突っ込みたくなるような小さな小さな翼もあります。
状況も、今まさに飛び立たんとする二人、並んで飛ぶ二人、イカロスが墜ちる瞬間など様々。中には海ポチャしたイカロスの脚が海面からスケキヨ状態、それも画面の隅っこに小さく描かれているだけ……なんて作品も。
哀れにも墜ちたイカロスの遺体はダイダロスによって引き揚げられ、近くの島に葬られました。墜ちた海はイカロスにちなんでイカリア海、埋葬した島はイカリア島と呼ばれるようになりました。場所はエーゲ海の北の端、トルコに近い位置にあります。
そのイカリア島は現在、地中海式食事法とスローライフにより島民の健康寿命が非常に長い事から『死ぬ事を忘れた島』と呼ばれ、世界的に注目されています。
夭逝したイカロスの名を冠した島は皮肉な事に、世界屈指のご長寿アイランドになったのです。
さてその後、ダイダロスは失意を胸に逃飛行ならぬ逃避行を続け、長い旅路の果てにイタリア半島の「長靴」の爪先にある巨大な島、シチリア島へと辿り着きました。映画『ゴッドファーザー』の舞台として有名ですね。
最終的にシチリア島南部のカミコスと呼ばれる地に腰を落ち着け、カミコスの王コカロスに匿われながら様々な発明をして暮らしました。
一方その頃、クレタ島ではダイダロスにまんまと逃げられたミノス王が激怒しておりました。
ダイダロスが考案した軍船のマストと帆はクレタ海軍の機動力を高めましたし、姫のための舞踏場も建設しました。パーシパエの一件では見事な雌牛の模型を造り上げました。その結果ミノタウロスが産まれてしまいましたが、今度は巨大な迷宮を建造しました。アリアドネに攻略法を教えた件は罪に問わない訳にいきませんが、むざむざ逃がすにはあまりに惜しい人材だったのです。
迫害した天才に逃げられて後から悔しがる流れはなろうのテンプレート「もう遅い」ですっかりお馴染みですね。遥か昔から権力者のやる事は代わり映えしないようです。
ミノス王がどれほど怒ろうが嘆こうが、ダイダロスはもうクレタには居ません。
しかし。
ミノス王は諦めませんでした。
ダイダロスを見つけて連れ戻すために、後になんと王自ら国を出て各地を巡り始めたのです。そして行く先々でダイダロスにしか解けなさそうな難問を出しました。
海軍国家クレタの王だけあってメインは船旅でしょうが、現代とは掛かる時間が違いすぎます。ダイダロスを追うために相当な月日を掛けているはずです。その情熱たるや推して知るべし。
既に老齢に差し掛かった国王が、これまた老人に近い発明家に執着し、どこまでも追いかける。ラブと呼ぶにはあまりにも絵面がしょっぱい。
ミノス王自ら旅に出たのではなく「解いた者には賞金を与える」として難問を諸国へ布告した説もありますが、放浪説の方が断然面白いのでそっちを採用します。
では、ミノスはどんな「難問」を出したのでしょう。
それはこのようなお題でした。
「トリトンの貝に糸を通すには、どうすれば良いか」
トリトンの貝とは、ほら貝のような大きな巻き貝です。貝の先端に小さな穴を開けると、中の螺旋状の空間を通って貝の口までが道になりますので、そこに糸を通せ、という課題です。ただ単に貝の口から糸を差し入れるだけでは、どんどん狭くなる螺旋の途中で止まってしまい先端までは届きません。
ミノスは貝を携え各地でこの問題を出し、そして誰も答えられませんでした。
交通手段が徒歩か馬か帆船しかないような時代に、クレタからシチリアまで各主要都市に寄りながら向かったら相当な日数が掛かります。その間、誰一人として正解しなかったというのも情けない話です。
さて、遂にシチリア島のカミコスまでやって来たミノスは、コカロス王に同じお題をぶつけました。
このちょっと態度のデカい旅の爺さんがまさか元クレタ王だとは思わなかったコカロス王は、
「暫し待たれよ。解けそうな者を連れて来よう」
とダイダロスを呼びました。
呼び出されたダイダロスは、老いても流石は天才。
淀みなくこう答えました。
「蟻と蜂蜜を用意してもらえますかな」
そして蟻の体に細い糸を結び、巻き貝の口から入れました。巻き貝の先端に蜂蜜を塗ると、その匂いに釣られて蟻は貝の中をてくてく通って先端まで来て、穴から這い出しました。
蟻の体から糸をほどけば、糸の通った巻き貝の出来上がりです。
「やはりダイダロスではないか!」
「げっ、ミノス王……!」
「よし、クレタへ帰るぞ。お前は我が国の罪人だ、逃亡は許さん」
問答無用でダイダロスを引き摺っていこうとするミノスを止めたのはコカロス王でした。
「いやいや、そなたも長旅で疲れておるだろう。少し休まれては如何かな」
そしてミノスのために部屋を用意し、風呂を勧めました。
ミノスも疲れているのは確かですし、せっかくなのでありがたく風呂を頂戴する事にしました。
ミノスが湯に入り旅の汚れを落としていると、コカロス王の娘達がわらわらとやってきました。
「湯浴みのお手伝いに参りました」
元王様だけあって世話される事に慣れているミノスは、特に気にせず娘達に入浴の補助を任せました。
すると、次の瞬間。
コカロス王の娘達は、なんと煮え立つ熱湯をミノスに浴びせかけたのです。
ミノスの絶叫を無視し、鬼の形相で熱湯をどんどん浴びせまくるお姫様軍団。
逃げようにも周囲を囲まれ、湯船は潜って逃れられるほど深くもなく。
やがてミノスは湯船の中で倒れ、動かなくなりました。
これは天才ダイダロスを渡したくなかったコカロス王の策略と言われています。あるいはダイダロス本人が熱湯を掛けたとも伝えられていますが、いずれにせよ凄まじい苦痛を伴う死である事は間違いありません。
かくして、ミノタウロスの生け贄として数多くの命を奪ったミノスにも、遂に己の命でその罪を贖う時が訪れたのでした。
ダイダロスよりミノスの方が神話のエピソードは豊富です。美しき王女エウロペを牡牛に化けたゼウスが誘拐し妊娠させのが十二星座「牡牛座」の物語で、その結果産まれたのがミノスとその弟達。エウロペは「ヨーロッパ」の語源と言われています。