英雄の妻子とその末路
皆さん基本的に直情的。
遥かエーゲ海の彼方から船に揺られて、クレタの姫パイドラがやってきました。
清楚で美しい花嫁にテセウスは内心ほっくほく。花嫁の姉をポイ捨てした過去は脳内から綺麗サッパリ消去されているようです。
そして迎えた婚礼の日。
事件は起こりました。
アマゾネス達を率いて武装したアンティオペが、結婚式の真っ只中に乗り込んできたのです。
多少歳を取ったとはいえ元・アマゾネス最強クラスの女戦士。いつの間にか呼び寄せた故郷の仲間を従え、怒りに燃える彼女はさながら復讐の女神の如き強さで、不実な夫と新妻の命を狙いました。
しかしテセウスもまた剛力無双と名高い武将。アンティオペは最後には敗れ、テセウスによって殺されてしまいました。
なんと哀れなアンティオペ。どう考えても全面的にテセウスが悪いでしょう。
こんな時こそ結婚の女神ヘラの出番だと思うんですが、残念ながらヘラは夫ゼウスの浮気相手やその子供への嫌がらせに忙しくて、手を差し伸べてくれなかったようです。
さて、初手からとんでもないミソが付いたテセウスとパイドラの結婚ですが、暫くは平穏に暮らしていました。
しかし男児を二人産んだ後から、妻パイドラの様子がだんだんおかしくなってきました。彼女はよりによって自分を殺そうとした前妻の遺児、義理の息子ヒッポリュトスに恋をしてしまったのです。
両親から武勇と美貌を受け継いだヒッポリュトスは、逞しくも爽やかな美青年になりました。しかしその性質は極めて潔癖にして偏屈。狩猟をこよなく愛する彼は狩りを司る処女神アルテミスを熱烈に崇拝し、暇さえあればアルテミスに付き従って山に籠り狩りに明け暮れ、女性には全く興味を示しません。
それどころか、女性や性愛を嫌悪している節さえあります。簡単に言うと童貞を拗らせまくった残念イケメンです。
そんな難あり物件にうっかり惚れてしまったパイドラ。
一説によれば、ヒッポリュトスがアルテミスに傾倒するあまり愛と美の女神アプロディーテを軽視したため、怒ったアプロディーテが彼を罰するためにパイドラに恋心を吹き込んだとも言われています。……もしかして処女厨だったのかしらヒッポリュトス。
そもそも政略結婚で嫁いできただけの、まだ十分に若いパイドラ。彼女が良く言えば男盛り、ぶっちゃけオッサンのテセウスよりも、年下の美青年に心惹かれるのは何の不思議もありません。。
ただしそれは道ならぬ不義の恋。パイドラは人知れず苦悩しました。
やがて、とうとう義理の息子への想いを堪え切れなくなったパイドラは、テセウス不在の時を狙ってヒッポリュトスを部屋へ招き、愛の告白をしました。
あるいは苦しむパイドラを見るに見かねた彼女の乳母が勝手に伝えたとも言われます。そうやって第三者が要らないお節介を焼くとたいてい物事は拗れます。やめとけ。
美しい義母から愛を乞われたヒッポリュトス。これがムーンやノクターンなら遠慮なく若い欲望をぶつける所ですが、潔癖なヒッポリュトスは激怒してパイドラを口汚く罵り、更にヒートアップして女性そのものまで酷く批判して、怒りのあまり足音荒く出ていってしまいました。不貞希望者のパイドラ本人はともかく、女叩きが入る辺りが実に拗らせ童貞っぽいです。
一方、秘めた想いをズタズタにされたパイドラは、ヒッポリュトスへの愛をそのまま憎しみへと変換しました。
……なんというか、惚れたのなら相手をよく見ていたと思うんですけど、筋金入りの女嫌いに告白したらこういう結果になると想像できなかったんでしょうか。お花畑が過ぎやしませんか。
しかし事態は深刻です。このまま放置していれば、テセウスが戻った時にヒッポリュトスは必ず告げ口するでしょう。「義理の息子を誘惑する姦婦」の汚名と共に。
それだけはなんとしても阻止したいパイドラは、己の名誉を守り尚且つヒッポリュトスを陥れる最後の手段を取りました。
まず着ている服をビリビリに破り、髪を乱し、寝具や室内を荒しました。そして
「部屋に押し入ったヒッポリュトスに辱しめを受けました。貞操を守れず貴方に合わせる顔がありません」
と嘘っぱち100%の遺書をしたためて、なんと自殺してしまったのです。
命と引き換えに、科学捜査の無い時代における女の最強カードを切ったパイドラ。潔いのか病んでいたのか……。
この「人妻から言い寄られてキッパリ拒否したら、相手に恨まれて冤罪(主に狂言強姦)で陥れられた」というエピソードが、ギリシャ神話には幾つもあります。
青年は若さと潔癖さからつい怒りを女性にぶつけてしまうのでしょうが、恥をかかされた女の恨みは強烈です。相手を地雷化させないためにも、全否定せず一定の理解を示した上で、彼女の夫の存在を強調しつつ「貴女には永遠の憧れでいてほしい」とかなんとか甘い台詞の一つでも吐いて、丸く収めるスキルをイケメンには獲得していただきたいと思います。
やがて外出から戻ったテセウスは変わり果てたパイドラを抱き締めて嘆き悲しみ、遺書を読んで怒り狂い、ヒッポリュトスを激しく呪いました。テセウスにとってパイドラはあくまでも貞淑な妻。まさか義理の息子に言い寄り、あまつさえ讒言をするなど想像もしなかったのです。
騙されたテセウスがヒッポリュトスを呪う声を、ポセイドンが聞き届けました。神様なんだからなんでもお見通し、とは限らないようです。
その頃、何も知らないヒッポリュトスは海辺を戦車で走っていました。この時代の戦車とは、軍馬に牽かせて走る戦闘用馬車の事です。
すると突然、海からポセイドンの遣わした怪物が現れ戦車の走行を邪魔しました。呪いの発動です。
これに驚いた馬が暴れ、戦車は横転。ヒッポリュトスは暴走した馬に踏み殺されたとも、手綱に脚が絡まり瀕死の状態でテセウスの元まで引き摺られ、真実を告げて息絶えたとも言われています。
ヒッポリュトスからすれば「義母に言い寄られたから断っただけなのに、汚名を着せられて父から呪い殺された」という非常に理不尽な話です。「これだから女は面倒なんだ」と罵られてもグウの音も出ません。
こうして、テセウスはアテナイの王として揺るがぬ地位を築きながらも、家族をほとんど失ってしまいました。しかも前妻は自ら手に掛け、騙されたとはいえ息子を呪いで死なせたのも自分です。
今にして思えば、テセウスから早々に捨てられたアリアドネは幸運だったかもしれません。彼と縁を結んだ前妻もその息子も後妻も、みな不幸な死を遂げました。パイドラが遺した幼い息子二人を抱え、テセウスは途方に暮れました。
英雄として栄華を手にしたかと思いきや、後悔に苛まれる日々。
そのせいでしょうか。晩年のテセウスは、児童書等で語られる青少年期の英雄っぷりからは考えられないような愚行に走ります。
イケメンにすげなくされて復讐する女がいれば、美女に袖にされてネチネチ嫌がらせする男ももちろん居ます。太陽神アポロンも似たような事をしてます。
※パイドラの子供に関して重大なミスがありましたので訂正しました。テセウスのうっかりを笑えません。