おまけ3 彼はただの暴君ではない
ギリシャ神話や古代ギリシャは深掘りすると沼にはまります。掘れども掘れども底は見えません。
うっかりミノス王を彫り始めたら、ほんの表層部を軽くカリカリしただけなのにエライ事になりました。
古代ギリシャには「天国と地獄」という概念はありません。
死後の世界すなわち冥界と地獄はほぼイコールで、特に罪深い者は個別に罰を与えられるかタルタロスと呼ばれる最深部の奈落へ落とされ、逆に特別善い行いをした者や神々に愛された英雄などはエンシュリオンと呼ばれる美しい島へ移り住みました。
死後、冥界へ渡ったミノスは冥王ハデスの部下になり、二人の弟と共に地獄で審判の役割を担う事になりました。死亡した王様が山ほどいる中でこれは破格の厚遇です。
ミノタウロスとテセウスにまつわる神話ではクズや鬼畜っぷりが目立つので意外に思われるかもしれませんが、実はミノスは有能な統治者としての顔も持っています。
元々兄弟で分割統治するはずだったエーゲ海最大の島クレタを、ミノスは唯一人で完全に支配しました。ミノスの指揮するクレタ海軍は圧倒的な強さを誇り、エーゲ海の覇権を握っていました。確かに敗戦国アテナイから見ればミノスは暴君ですが、その振る舞いは敵を捩じ伏せ従わせるだけの武力と権力とに裏打ちされています。
そもそも、アテナイとクレタの戦争はアテナイ側の落ち度が発端でした。
その昔、アテナイでは「パンアテナイア祭」と呼ばれる大きな祭典が催されていました。
幾日も掛けて行われるこの祭は毎年の小祭と4年に一度の大祭があり、守護神である女神アテナへ聖衣を奉献し、神への供儀で捧げられた大量の家畜の肉は市民に振る舞われ、演奏隊は賑やかに曲を奏で、騎馬隊や戦車隊による華々しいパレードもあります。国を挙げての大フィスティバルです。
そして祭典の目玉となるのがスポーツで、花形の戦車(戦闘馬車)競争の他、レスリングや円盤投げなど幾種もの陸上競技が行われました。
主に全裸で。
なので女性は競技への参加はもちろん観戦すら認められなかったようです。筋骨隆々とした逞しい全裸男性で埋め尽くされる女人禁制の競技場、お好きな方にはたまらない事でしょう。
(なんだかんだでガッチガチの男性社会だった古代ギリシャ。女性達も一歩引いた所から控え目に祭りを楽しんだという意見がある一方で、女性はパレード見学すら許されず家に引きこもっていたという説もあります。ただし娼婦の皆さんにとってはここ一番の稼ぎ時だったようです。)
なお、大会優勝者には賞品として大量の高級オリーブオイルが贈られました。これは女神アテナが人々にオリーブの木を贈った神話のエピソードに由来します。
このパンアテナイア祭だけでなく、古代ギリシャではオリンピックの起源となったオリンピア大祭を筆頭に、ギリシャ四大大会と呼ばれる競技大会が開かれるなどスポーツがとても盛んでした。各地の大会に腕に覚えのある男性が遥か遠方からも集い、その技術と鍛え上げられた肉体とを披露しました。
現在でも一流スポーツ選手は世界各地に遠征して大会に出場しますね。同じ事が古代ギリシャ時代には既に行われていたとは驚きです。
さて、ミノス王の息子アンドロゲオスは王子にして素晴らしいアスリートでもあり、数々の大会で優れた成績を残していました。そんな彼はある時、クレタ島からはるばる遠征してパンアテナイア大祭に参加し、見事に優勝しました。
そこまでは良かったのですが、余所者に勝利を掻っ浚われた地元アテナイの選手達に妬まれ、なんと殺されてしまったのです。
あるいはアンドロゲオスが競技を通して親しくなった相手がアテナイ王アイゲウス(テセウスの父。あの海へダイブしちゃった王様です)の政敵であったため、彼らを操ってミノス王がアテナイの内乱を目論んでいるのではないかと恐れたアイゲウスが、策を弄して殺したという説もあります。また優勝した腕を見込んで、アイゲウスが暴れ牛退治をお願いした結果死んだとも伝えられています。
いずれにせよアテナイの地で他国の王子が横死した訳です。
この事態にミノス王が黙っているはずがありません。
自慢の息子がスポーツ大会に出場しただけなのに何故殺されなければならないのか。
ブチ切れたミノスは大群を率いてアテナイへと進軍を開始しました。アンドロゲオスの弔い合戦です。
海を渡ったクレタ軍は、アテナイの西、アイゲウスの弟ニーソスが治める都市国家メガラをまず攻め落としにかかりました。しかし戦力では明らかにこちらが優勢のはずなのに、なかなかメガラは墜ちません。
実はニーソス王には秘密がありました。ほぼ白髪になってしまっている髪の内、一房だけが鮮やかな緋色をしており、この髪がある限り彼の治世は安泰で王座は脅かされないという神託があったのです。
けれども意外な所から伏兵が現れました。ニーソス王の娘にしてメガラの王女、スキュラです。
スキュラ姫は暇さえあれば城の塔へ上り、クレタの軍勢を眺めていました。何ヵ月も続く戦闘の中、彼女が熱い視線を送っていたのは、なんとミノス王。
見事な采配で軍を指揮し、時には自らも武器を手に雄々しく戦う王の貫禄ある姿に、スキュラはすっかり恋をしてしまったのです。
まあ世の中には「老け専」という言葉が存在しているくらいですし、オッサン好きな若い娘さんも一定数いますので、時にはこういう事もありましょう。ただし若い子にモテるオッサンというのは総じて才能やバイタリティがあり、自信に満ち溢れています。財力や容姿は必須ではありませんが自信と余裕は大事です。
何はさておき、ミノスへの恋心を募らせるスキュラ。
とはいえ二人は敵同士。このままでは愛しい彼とは決して結ばれません。戦況は膠着状態が続いており、クレタ軍が諦めて撤退する可能性もあります。そうなったら二度とミノスの姿を見る事は叶わないでしょう。
叶わぬ恋に悶々とするあまり、スキュラの思考がどんどん危険な方向へ進んでいきます。残念ながら止めてくれる人はいません。
やがて、彼女は闇に一筋の光明を見出だします。
「―――もしこの城が墜ちれば、そしてそれが私の手柄であったなら、ミノス王は私を認めて、共に連れていって下さる……?」
この時点でまだミノスとスキュラはまともに会話すら交わした事がありませんでした。完全にスキュラの片思いです。
ミノスからすれば「この城には王女がいる」という情報を知っているだけです。塔にいるのを遠目に見掛けて「もしかしてあれが王女かな?」程度の存在。個人として認識すらろくにされていない状態での、この一方的な拗らせっぷりはどうでしょう。
スキュラ王女、メンヘラ気質のわりとヤバめのお姫様だったようです。
ギリシャ神話は各エピソードが複雑に絡み合い、果てしなく広がっていきます。どこまで拾うか、何を切り捨てるか、悩ましい所です。
そしてアテナ、聖衣ときてうっかり「クロス」と読んでしまった方はおそらく私と近い世代でしょう。