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エージェント・ルサンチマン

作者: 衣吹

 エプレメイ財団のキビラ支部はモグラ塚だった。地中に存在するからである。地上部分は多国籍料理の店を装っていて(カモフラージュとはいっても、ちゃんと一般の客も訪れるし、飲食店専門の従業員もいる)、スタッフは食事のメニューおよび時間帯に事欠かない。エプレメイのスタッフになるには、特定の宗教及び思想を持たないこと、複眼思考が求められるのだが、無宗教であることを誓ったとしても、習慣化された食のタブーを改めるのは難しいこともあり、司令部のスタッフらにもキビラ支部の飲食店は概ね好評である。

「本当は動物の世話に慣れてるマデリンに頼みたいんだけど、あの子は犬を飼ってるし、それにカナリアでしょう。負担を増やすのは気が引けるじゃない?」

「それで俺にお鉢が回ってきたってわけか」

 スタッフ食堂で1人、遅めの朝食を頬張っていたドニスは、ボサボサの金髪に、ようやく覚醒したばかりの碧眼を何度がまばたきさせて、目の前に座る年上の女性に、レタスをくわえたまま問いかけた。

「あの子の具合が良くない時はあなたがフィルを見てるそうね。エラはファミリーじゃなくて資産だけど」

 若者はレタスを飲み込んだ。

「資産?」

「そう。エプレメイのね。ヒーローラッツの二番煎じよ」

 従事するのは諜報活動だけどね、とスミレは付け加える。

「そいつは知らなかった。お墨付きをもらって以来、ラボには近づかないようにしてるんでね」

 自ら志願したとはいえ、当時のあの過酷な訓練を思い起こすと、ドニスは今更ながらうんざりさせられる。人格を矯正されたような錯覚――だよな……気さえするのである。

「熟練者の君なら知ってるでしょ? 動物にもHSPがいることは」

「あのネズミもそうだっていうのか?」

「熟練者になったら資産ではなくなるわ。人間と違ってね」

「人間と違って、か」

 熟練者になれば、センシティブとしての能力はほとんど失われてしまう。ドニスは自分がそのいい例であることを知っている。ただ、動物の場合は用済みになるというわけか。

 スミレが意味ありげに小さく笑った。

「そうなったらわたしが引き取るだけよ。ご心配なく」

「それを聞いて安心した」

 スミレもマデリンと同じカナリアで、共感能力が高く、相手の意識にもぐりこむことができる。ただ、彼女はどのチームにも属さず、ほとんど単独で任務を遂行している一匹狼であった。1対1で話す分には、人あたりは決して悪くない。だが集団行動が苦手らしく、イベントやパーティーには苦痛を覚えると言う。相棒と呼べるのは今、話題に挙がっているエラというネズミと、強いて言えば何度か観測者[スポッター]として組んだことのあるマデリンかもしれない。

「それとひとつ訂正。エラはネズミじゃいわ。デグーよ。糖分の代謝が得意じゃないから食事は新鮮な水と牧草でよろしくね」

「デグー? 牧草?」

 一瞥した記憶しかないが、あれはどう見ても世界中にごまんといる、取り立てて目立つ特徴のない、ごくありふれた茶色のネズミだった。どのあたりがデグーと呼ばれるゆえんなのだろう? ドニスは小首を傾げながら、ゆで卵にパクつく。

「マデリンに訊けば喜んで調べてくれるわ」

 一瞬、トーストにバターを塗りつける若者の手が止まった。

「結局、あいつを巻き込むのかよ」

「だから余計に君に頼むんじゃないの。そうすれば絶対おざなりにしないでしょう?」

 年の功である。まったく、抜け目がないったらありゃしねえ。ドニスは内心悪態をついた。眠気は完全に吹っ飛んだ。

「わかった。引き受けるよ」

「ありがとー! 久しぶりの休暇だわぁ」

 スミレは後顧の憂いが晴れて満面の笑みである。目の前でこんなふうに歓喜されれば、誰だって仕方ないと苦笑するほかない。

 不思議な女性である。30代の半ばは過ぎているはずなのに、無邪気でかわいらしく、その面持ちにも所作にもまるで違和感がない。何というか……シニヨンがよく似合うクラシカルな女優に見える。

「行き先は日本だったか?」

「ええ! 1度行ってみたかったの」

 彼女の母親は日本人だという。父親は現地トカラ共和国の人間である。父親の先祖をたどると、実にさまざまな人種の血を引いているらしく、出自が判然としないと言って笑っていた。確かに初めて会った時、西洋人なのか東洋人なのか、非常に曖昧な印象を抱いた覚えがドニスにもあった。それが上層部から重宝がられているという噂も耳にしている。

「そういや、エージェント・パウンドが言ってたな」

「何を?」

 くくく……とドニスが思い出し笑いをする。

「あの人相とガタイだろ? ジャパニーズヤクザにスカウトされたらしいぜ。『俺を弾よけにしようとしやがって』って、すっげー怒ってた。マジ笑える」

 スミレもプッと吹き出した。

 その時、片腕に布地を垂らしたチーフ・グレシャムが、太鼓腹をいつものように派手に揺らして急ぎ足で通り過ぎるのが見えた。

「おはようございます!」

 チーフ・グレシャムは、人を信用するのに時間を要するスミレが気さくに声をかける数少ない人物の1人である。彼女は実にほがらかに声をかけたのだが、相手の方は途端にバツが悪そうな顔をして立ち止まった。「……おはよう」明らかに渋々といった態である。

 彼が手にしているのはスーツのズボンだった。なぜか観念したようにテーブルを囲んでいる2人に近づいてくる。

「今朝はゆっくり朝飯を食うヒマがなくてさ」

「はあ……?」

 話の展開が読めず、聞き手側としては曖昧な返事になる。

 チーフはほとんど食べ終わっているドニスのプレートを覗き込み、浮かない顔で続けた。

「とにかく時間がなくて、玉子は後で食おうと思ってポケットにほうり込んだのさ」

 情けない様子で腕に下げているズボンをちょいと掲げてみせた。

「で、そのことをすっかり忘れて、勢いよく車のシートに座り込んでね……」

 刹那、ポケットの中で、ぐしゃ、と不吉な音がしたという。

 ドニスもスミレも腹をかかえて笑った。


 スミレは暑さも寒さも苦手で、とりわけ四季のある土地が一番嫌いだった。季節の変わり目には必ずといっていいほど体調を崩し、衣替えという作業にひどく面倒を覚える性分でもある。デリケート肌で、冷え性で、この地球上に自分の安住の地はないような気さえしている。ここは砂漠がすぐ近くにある乾燥地帯で、真水の入手が困難で、1日の気温差がひどく激しい土地であり――要するに気分はすこぶるよろしくない。

 チェックイン後に市場へ向かう。売買にのぼせた声があちらこちらで飛び交っている。近在の農業従事者たちが牛を引きながら足早に歩いていた。牛車にはあふれんばかりの青物、穀類が積み込まれていて、また別の牛車は籠に入れられた家禽を乗せていた。酒の入った壺を運んでいる馬車もいる。店の軒先では安楽椅子に腰かけてコーヒーを飲んでいる者、火鉢であぶられた串刺し肉の購入に並ぶ者、市の売買の成り行きを面白半分に眺めやる者など、乾いた通りは人畜で入り乱れている。厩のような臭いや人の汗の臭い、異様な臭気にあふれていて、スミレは何度も息を詰まらせそうになっていた。彼女はニオイに非常に敏感で、その証拠に職場ではフレーバリスト、あるいはパヒューマーなどと囁かれることもあったのである。

 雑貨屋で地図を買った。支払いはもちろん現金だ。宿泊代も含めて、ATMから引き出したものを直接使うことはしない。今日のために、追跡されないよう、あらかじめ方々を経由させている。武器も手に入れなければならない。面倒だが大事なことである。

 ホテルへとんぼ返りする。目的地を確認した。情報機器の使用はできるだけ控えるに越したことはない。道中の監視カメラにも細心の注意を払った。普段から彼女が信を置いているのは自分の勘とエラだけだ。

 日焼け止めを塗り直して、頭をスカーフで覆い、黒のサングラスをかけると、ショルダーバッグ片手に再び街へ繰り出す。タブレットを入念に覗きながら、大仰に周囲を見渡してみせる。現地の言葉をたどたどしく話し、人気の観光スポットを訊ね回った。この街はまるで古代都市のようだった。ドームや円筒形の塔、シンプルな直方体の昔ながらの建物ばかりが並ぶ。民家にいたっては自分の生家の日干しレンガの家とそっくりだった。博物館などの公共施設は西洋と中央アジアとの折衷した建物で、高層ビルとまではいかないがそれなりに背が高い。裁判所がそうでないことを祈りながら、スミレはひとけのない路地に入った。

 振り返った矢先に相手に回し蹴りを食らわせる。ダメージが足りない場合は、間髪を容れず首筋にナイフをあてた。

 彼女はこれを続けて3回繰り返す羽目になった。

「ちょろすぎて涙が出てくるわね」

 4度目ともなると、さすがに嫌気がさしてきた。今日はもう次で最後にしようと思ったら、5度目にヒットした。これまでと同じようにお安いチンピラ連中に変わりはなかったが、そこそこの売人とつながりがあって、調達に成功した。

「銃がほしいの」

 金は払う、と今度は流暢な言葉を操った。

 売人の取り巻きの1人が、不埒な真似をしようとしたので、彼女は日頃の訓練の成果を発揮して存分に思い知らせてやった。おかげで少し割り引いてもらえた。その後、男が売人からどんな制裁を受けたのかはもちろん知らない。ただ、尾行などという愚かな真似はしないように釘をさしておいた。手に入れたのはレミントン製の狙撃銃――世界中の軍や警察が使用している代物だった。うん、悪くない。

 本当は爆弾を使うほうが簡単だ。でもそれでは無関係の人々をきっと巻き込んでしまう。

 その後は炎天下のもと、裁判所へ通う日々が続いた。具体的な日時まで知り得るにはタブレットでは不充分だった。エプレメイのシステムで事前におおよそのスケジュールは把握していたが、詳細を掴むためには地道に足を運ぶしかなかった。

 裁判所を訪れるたびに、周辺の建物も入念に調べ上げる。この土地でスミレが唯一、歓迎したのは摩天楼がほとんど見受けられないことだった。さえぎるものはわずかである。後は人の出入りが極力少なく、逃走ルートが確保できる舞台を選べばいい。自分の腕なら600メートルは固いはずだった。問題は当日の天候と風の影響だ。

 あの男だけを殺れればいい。だから入手したのは狙撃銃のみである。パルクールで逃げ切るつもりだが、念のため身分証明となるものは穴を掘って地中に埋めた。

 その日は快晴だった。

 妊婦傷害事件、開廷時刻九時四五分。


 キビラ支部はオープンオフィスである。パーティションで仕切られた休憩コーナーやミーティングルーム等の小さなスペースも存在するが、衝立は天井まで届く高さではないため、オフィス内の喧噪は基本、ダダ漏れ状態だ。個人差のある照明や室温の管理にいたっては、水面下で静かな攻防が年中、繰り広げられている。近年の調査ではオープンオフィスは充分なプライバシーが確保されないことで、ストレスを高め、仕事へのモチベーションの低下が指摘されている。スタッフ(とりわけカナリアや内向型の人間)からは改善の声が上がっているが、モグラ塚を増築するのは容易ではない。支部には居住ルームもあり、地上には飲食店も鎮座している。利便性を考えて、いっそ首都チャドータに移転すべきではないか、という声も無きにしも非ずだ。

 実用一本槍のスタッフルームはデスクはもちろんのこと、パソコンやプリンターといった機器類で埋め尽くされている。セルジュは顔をしかめながら報告書の仕上げに苦戦していた。彼はハイテク機器にめっぽう弱いのである。

 相変わらずパソコンに悪戦苦闘しながら報告書を作成していた時である。ドニスがひどく慌てた様子で詰所に飛び込んできた。

 髪を振り乱していても並外れた容貌の持ち主はサマになるんだなぁと妙に感心しながら、セルジュはキーを打つ手を止めた。「どうした?」と友人に声をかける。ドニスは息を切らしていた。

「ネズミを見なかったか!?」

「ネズミ?」

 両の手のひらを上へ向け、わけがわからないというセルジュのしぐさに、ドニスは頭を抱えた。

「違った。何だっけ? ええっと……あっ、そうだ! デグーだ、デグー!!」

 合点がいったらしく、セルジュは今度は手のひらに拳をパチンと打ちつけた。

「ああ、スミレの?」

「そいつがいなくなっちまったんだ!」

 セルジュは一応、辺りを見回してみる。

「見てねえと思うぜ」

「ほんのついさっきまで一心不乱に車を漕いでたのに――」

「車?」

「回し車さ」

 焦燥に駆られつつもドニスは律義に答えた。

「ああ、ランナーズハイになるヤツな。それでケージの中にいたのが、いつの間にか消え失せてたっていうのか?」

 途端にドニスの歯切れが悪くなった。

「気づいたらケージの扉が開いてたんだ……」

「そりゃ、いなくなるだろうよ」

 セルジュが無情に言い放つと、「確かに閉めたと思ったのに」とドニスは強硬に主張した。

 力説されてもなぁ、とセルジュは後ろ頭をかく。

「わかった、俺も探してやるよ。でもその前にこの報告書を――」

 その矢先だった。

 パソコンの液晶画面が急に真っ暗になり、何も映さなくなった。

「えっ? おいっ、ウソだろ……」

「わー、なんじゃこりゃあっ!?」

 ほとんど間を置かず叫んだのはセルジュの斜め向かいに座しているダリボ・パウンドである。ややあって、他にも戸惑う声が上がり、どうやら詰所中のパソコン――電子機器が突然ダウンしたようだった。

 そのうちに部屋の外でも慌ただしい足音が響き始め、通路を人が激しく行き交う様子が窺えた。

「停電じゃないからシステムが落ちたんだな」

 この騒ぎで逆に冷静さを取り戻したドニスがつぶやく。

 盛大なため息をつきながら、セルジュが大儀そうに立ち上がった。

「ちくしょー、ハイテク相手じゃ俺は完全にお手上げだぜ。こうなりゃ、さっそくネズミ探しでもすっか。ん?」

 セルジュがドニスを訝しげに見たのにはわけがある。

 先刻まで息巻いていたドニスが途方に暮れたような顔をしていた。

「おーい、聞いてんのかー? なんでお前までフリーズしてんだよう? ネスミ探しに行こーぜ? あっ、デグーだったな」

「ネズミって……線、かじるよな」

 ドニスのどこか力の抜けた声にセルジュも固まった。

 2人同時に床を見やる。詰所にはケーブルがあちらこちらで這っている。

 なにやら嫌な予感しかしない。

 珍しく頭の回転が鈍い友人に代わってセルジュが提案する。

「マデリンに頼もうぜ。あいつなら――」

「それがだめなんだ。頭痛がするって朝から寝込んでんだよ」

 セルジュが「そいつは気の毒に」と言いつつも、がくっと肩を落とした。

 彼女が頭痛持ちであることはセルジュも知っている。治れば嘘のようにケロッとしているのだが、特に偏頭痛に見舞われると、部屋に引きこもり、回復するまで、ほとんど音信不通になる。

 ドニスは動けないマデリンに水や食べ物を運んでいたに違いない。その分、デグーに気が回らないところがあったのだろう。

「つまり、俺たちだけで誰よりも先に見つけにゃならんってことか」

 セルジュはチラッとダリボ・パウンド氏の様子を盗み見た。父親ほど歳の離れた御仁はパソコンに向かって憎まれ口を浴びせている。更には靴の底が抜けそうなくらい地団駄まで踏み出した。ドニスもセルジュの視線を追い、次いで互いに顔を見合わせた。

「特にあの人には知られたくねえな」

「同感だ」

 パウンド氏は正義感が強く、お人よしで、面倒見もいいのだが、いささか気の短いところがあり、好き嫌いが激しい性分だった。一方でチーフ・グレシャムは椅子に座ったままピクリとも動かない。2人に背を向けて座しているため、その表情は窺えないが、午睡をむさぼっていることはもはや明白であった。ちなみに特に珍しいことでもない。

「んで相棒、作戦は?」

 セルジュの問いにドニスは困惑顔を隠す余裕もないまま答えた。

「ネズミ捕り器は使えないよな。スミレに半殺しにされちまう。そもそもそんな陳腐な罠に引っかかるとも思えんしな。利口なネズミなんだ。勘がよくて、うちの資産なんだと」

 セルジュの脳裏にふとバンクシーのネズミがよぎった。

「その、賢いネズミがケーブルをかじるのか? 有象無象の奴ら同様に?」

 セルジュの素朴な疑問に、ドニスは思案するように顎に手を当てた。

「確かに。資産なら人間のルールを仕込まれていてもおかしくねえよな」

 スミレはあのネズミ――エラをとてもかわいがっている。四六時中、ケージに閉じ込めっぱなしだったとは考えにくい。そして彼女の部屋にもコードや電源ケーブルはあるだろう。コードカバーを使っていた可能性も充分ありうるが。

 それは希望的観測だったが、いかんせんタイミングが悪すぎた。


 チーフ・グレシャムは確かに途中までは転寝をしていたが、彼もセルジュと等しくハイテクには疎いタチだった。自分の出番はないと早々に決め込んで、ポケットからモバイルを取り出すと、暇つぶしにめぼしいニュースはないかとチェックし始めた。

「ダリボ、ちょっといいか?」

 もはやすっかりふてくされてチョコバーをかじっていた元・相棒を、チーフ・グレシャムは詰所の端へさりげなく手招いた。手もとのモバイルを提示する。ダリボはコーディー・グレシャムが指でトントンと叩いた液晶画面に映るニュース記事を声に出して読み上げた。

「今日の正午過ぎ、トカラ共和国の首都チャドータの裁判所前で狙撃事件が発生。裁判中の被告人ヤシル・リアーズが頭に銃弾を受けて死亡。犯人は逃走中――なんや、これ?」

「俺らが若かりし頃、2人で、とっ捕まえた奴だ」

 ダリボにはまるで記憶がなかった。

「へえー。そうやったかいな。んなもん、いちいち覚えとらんがな。世間にゃ悪党が吐いて捨てるほどおるんでな」

「思い出してくれよ。まずいことにならなきゃいいんだが、ヤシル・リアーズは――」


 さかのぼることおよそ25年前。

 コーディー・グレシャムは立て膝の体勢で人知れずあえいでいた。不覚にも足がしびれて感覚がないのである。学生時代は陸上部で短距離走の選手だったのが、最近ではメタボ腹の予兆に懸念を抱いている。彼の向かいには門口を挟んでダリボ・パウンドがいた。コーディーは次第に痛みを覚えだした腰をさすりながら改めて前方の民家に目を凝らす。

 トカラ共和国の南部はオアシスと乾燥地域である。事件は生活インフラがまだ不充分な村の1つで起こった。エプレメイの所在地キビラには水や電気がふんだんにある。現場は泥土壁の平屋で到底、裕福そうではない。

 装備は2人ともサブマシンガン、小型ライフルを携行していた。ダリボが声に出さずにコーディーに何か訴えてくる。読唇術は身につけていないが、「早くしてくれ」と言っているに相違ない。彼はいつでも一飛びに攻め入る気合い充分なのである。

 合図はまだか。もう少し距離を置いたところでブレンダンが双眼鏡で民家の中を偵察しているはずだった。ダリボはもちろんのこと、コーディーも実はあまり気の長いほうではない。

 インカムから待ちに待ったブレンダンの声がした。

「確認した。中にいるのは3人だ。加害者が1人、人質が2人。両親と娘――この家の住人で間違いないな」

 無理心中ではなさそうだ。

 この地域は男尊女卑の傾向が著しく強い。女は男の所有物で、折檻は珍しくないという。騒動を聞きつけた村人が低い生垣に沿って群がっていた。群衆は男ばかりである。女性の姿は1人もない。

 コーディーは肩で吐息を漏らした。

 現場に到着してオフロード車から降りた矢先だった。ギャラリー相手にダリボが両腕を問答無用に振るって野次馬に吠え立てたのだ。「おらおら、テメエら、見世物じゃねーぞ。行った行った。とっとと失せろ! なんや、オッサン、文句あるんか。勝負すんなら、かかってこんかい!」

 気持ちはわかる。乱闘にならなかったのが不思議なくらいだ。おそらくダリボのいかつい人相と、それよりは多少劣るが、ブレンダンの迫力ある容貌が、近寄りがたい印象を与えたためだろう。ブレンダンもまた、双眼鏡以外にこれ見よがしに散弾銃を所持していたのだから。

 土地柄、警察はほとんどアテにならず、通報を寄こしたのは地元地域の女性で、男衆の目を盗んだ命がけの行動であった。先日もこの近辺で女性が夫から火傷を負わされたという。全身に灯油を浴び、火をつけられ、大やけどを負ったらしい。ほかにも10歳くらいの少女が父親の決めた縁談――児童婚を拒んだがために、殴る蹴るの暴力を受けたという話も耳にした。

 人種、性別、身分、病人――世界には偏見が蔓延している。

 コーディーとダリボは互いに「行くぞ」と目配せし合った。二人は腰をかがめたまま、一斉に音もなく走り出す。コーディーはしびれた足を引きずりながら奇跡の疾駆を遂げ、ダリボに遅れることなくターゲットの民家の壁に到達した。

 扉のすぐ左側にある窓の下で待機する。家の中からは太く罵る声、物が壊れる音がした。ダリボも扉を挟んだ右側に陣取っている。彼の上方にも同じように窓が設けられている。

 ただし、コーディーの方に比べるとかなり小さくて上にある。彼は腰を浮かして慎重に二枚戸の片方に手を伸べた。隙間から中を伺うと、素早く身をかがめて今、見たものを思い出す。ブレンダンの報告どおりで、しかも予想以上に切迫していた。

 コーディーが自身を指さした。ダリボが黙って頷く。コーディーは懐から閃光弾を取り、頭上の窓から放り込んだ。

 屋内から女性の悲鳴がとどろくと同時に、まばゆい光がほとばしる。ダリボが扉を蹴破った。コーディーも後に続く。

 男が目を抑えながら何事か喚き散らしていた。人の気配を察したらしい。勢いナイフを振り回し始めた。

「誰だっ!? 近寄るな! ブッ殺すぞ!」

 男は四方八方、がむしゃらに刃を振るった。目をやられているため、こちらがサブマシンガンを構えていることに気づいていないのだろう。

「武器を捨てろ」とコーディーが叫ぶ。

 一方、ダリボは機関銃をおもむろに下ろした。「危ない」というコーディーの制止を無視して男に近づいていく。

 ダリボは身をかがめて容易に相手の間合いに入り込んだ。右の拳を相手の顎に力いっぱい炸裂させて吹っ飛ばす。

 男は派手にのけ反り、手足を伸ばして後ろに昏倒した。急所に命中したらしい。微動だにしない。男の手からこぼれたナイフをコーディーはすかさず蹴り飛ばしながら「大丈夫か?」と、手首をぶらぶらと振っているダリボに声をかけた。

「気絶しとるだけや。血が出とんのは――ほれ、歯が抜けたからやな」

 コーディーは唖然とした。

「男のことじゃなくて、あんたのことだよ」と、ため息まじりに述べる。

「ああ」と、ダリボは合点がいったらしく思わずニヤリとした。「そらそやな。気絶しとる野郎に訊くとは酔狂なやっちゃ、と思った」

 コーディーはあきれたという顔をして、もう何も言わなかった。

 離れたところに人質となっていた母子の姿があった。互いにかばうように抱き合い、震えながら座り込んでいる。母親の方は殴られたようで顔がひどく腫れていた。2人が安否を訊ねると、娘がしゃくりあげつつも、「大丈夫」とうなずいた。


「そんなこともあったかいな。で、それがどうしたよ?」

「あんたがあの時、殴り倒した男がヤシル・リアーズだ」

「はーん。そやったんかー。でもそんな奴、自業自得やろ。悪党が死んだところで俺は痛くもかゆくもないで」

「俺だってそうだ」

「ほな、いったい何なんや?」

 チーフ・グレシャムが慎重に言葉を紡ぐ。

「俺らがあの時、助けた娘は……」

 ダリボは息を呑んだ。ようやく思い至ったのである。

 さいわい2人の会話はシステムダウンの騒動で掻き消されていた。


 不要な注目は引きたくないが、相手は小動物である。ドニスは腰をかがめながら、時には四つん這いになりながら、デグーの捜索にあたっていた。一筋縄ではいかないだろうな、と背筋を正すたびに小さなため息をついていた彼は、廊下の前方から歩いてくるマデリンを見つけて仰天した。

「どうしたんだよ!? 寝てなくていいのか?」

「薬がやっと効いてきたの」

「でも安静にしていたほうが――」

「そう思ったんだけど、困ってるんじゃないかと思って」

「困る?」

 ドニスは首を傾げた。

 そのしぐさが妙にかわいらしくて、マデリンはくすっと笑った。もちろん口には出さない。「男がかわいいって言われてもなぁ」と以前、ひどく困惑されたからである。

「目が覚めたら頭のすぐ横にエラがいたの」

「げっ」

 ウッソだろ、とドニスは声にならない声を上げた。へなへなとその場にしゃがみ込む。今度はマデリンが驚いて「大丈夫!?」と膝をついた。

「ああ、なんともねーよ」彼はマデリンの両肩に手を置いた。顔色を盗み見るつもりが盛大に失敗した。目の前で無邪気に微笑まれる。やばい。かわいい。どうしよう。頼むから至近距離はマジで勘弁。めまいがしそうだった。

「あー、部屋まで送るよ。ネズミもいるしな」

「うん」

 2人そろって立ち上がり、ドニスは無理やり思考を切り替えた。

 脱走した後、マデリンの部屋に直行したなら問題ないが、まさかサーバー室経由とかじゃないよな?

 ドニスはさっそく耳もとを軽く指先でたたき、インカムをオンにする。

「セルジュ、聞こえるか? 見つかったぜ、ありがとよ。とりあえず俺の部屋で落ち合おうぜ」

「ワイヤレスを使ってるの?」

 マデリンが不思議そうに問いかける。

「まあな……」

「なんだか悪いことしているみたいね」

 ドニスはぎくりとした。

 無駄に鋭いのがカナリアと呼ばれる能力者たちの特徴である。

 ドニスもかつてはそうだった。カナリアとして、別のチームのスポッターを務めていた。あるとき志願して被験者同然のリハビリと認知療法を経て、「熟練者」という印可を付与されたのである。熟練者とは、能力のオン・オフの切り替えが可能な者というのが一応の定義で、以後、彼はカナリアからオフェンスという立場に切り替わった。ただ、ドニスの実感として、オンからオフは達成したものの、その逆は不可能になってしまったといっていい。熟練者が彼の他にまだ例がないのがその証拠ではあるまいか?

「なんだかとても落ち着かない感じ」

 マデリンがつぶやく。やはり顔色がすぐれない。ただでさえ朝から具合が悪いのだ。ドニスにはよくわかっていた。

 エプレメイでは感覚器が非常に秀でた者をカナリアと呼ぶ。彼らは他人の感情あるいはその場の雰囲気を察知して、それを自身の思考より速く、優先して取り込んでしまう。それがポジティブな思念であれば何の問題もないのだが、他人の怒り、悲しみ、不安、事故や事件現場となると、その刺激に過剰に反応して、心身に多大な影響を受ける。カナリアには無関心という概念がないのだ。中には神経が疲弊しきって、通常の社会生活が送れない者もいる。

 ドニスは今でも、ふと考えさせられる時がある。なぜ、自分はそこまで強く志願したのだろう? センシティブ特有の生きづらさを克服し、社会で認められる理想の人になりたかったからか? それが今は取り戻せないと覚って、急にあの能力が惜しくなったのか?

「システムがダウンしたらしい。これ以上、共感するのはまずい。早く部屋に戻って休め。デグーのこと、すまなかった」

「その顔で謝られたらイチコロね」

 マデリンが苦笑する。

「茶化すなよ」

 ドニスは誰もが目を奪われるような面差しで困惑気味に微笑んだ。

 マデリンが視ているのは相手の心の有り様である。見てくれではない。かつて同じ能力を有していたドニスにはよくわかっていた。だからこそ信用できる。彼女を気にかけるのは、始めのうちこそ同情だったが、それはいつしか別の感情にとって代わられた。

「ごめんね。わたしのことに気をとられたせいでエラを――」

「それは俺の問題だ。おまえは関係ないよ」

 そこははっきりさせておく。純然たる事実だからだ。

「……ドニス」

「ん?」

「やっぱりあなたには本当のことを――」

「何だよ?」

「システムを落としたのはわたしなの」

 ドニスは一瞬、「えっ!?」と小さく声を上げ、マデリンの年齢よりもあどけない顔立ちをまじまじと見つめた。思わず周囲を見回し、自分たちの会話が誰にも聞かれていないことを確かめる。マデリンは叱られた子供のような顔をして肩をすくめている。

 カナリアは先天的に帯電体質者[スライダー]である。精密機械を壊すのはおそらく造作ないだろう。マデリンが使おうとするとコピー機はしばしば動かなくなるし、家電製品の寿命が他人と比べて圧倒的に短かった。パソコンが誤作動を起こすことも珍しくない。意図せずそれが可能なら、本気を出せば――自明の理だ。

「何かワケがあるだろ?」

「怒らないの?」

「おまえは理由もなくそんなことしない」

 ドニスの目元が優しげに笑う。

 その笑みに勇気づけられたのか、実はね、とマデリンは続けた。

「本当はエラがするはずだったの。彼女は自分でケージを開けられるのよ」

 ドニスの顔が無意識に強張った。

 今日はなにやら心臓に悪いことばかりが起こる。

「……そいつは初耳だな。ついでに訊くが、エラはごく普通のネズミみたいにケーブルをかじったりするのか?」

「いいえ。それはタブーとして教えられているわ。フィルの時にわたしも言われたから。でないと動物は出入りさせてもらえないの」

 ドニスは肩を落とした。

 熱心に回し車を漕いでいたのはカモフラージュかよっ!

「でも、意図的に教えれば別よ。スミレさんは、そのつもりだった。でも本来、してはいけないことを実行するように指示されたから、エラは少し戸惑っていて……」

「スミレが?」

 なぜ、自分の休暇中にシステムを落とす必要がある? しかも相棒の、資産のエラを使ってまで……。

「わたしが勝手に気を回したの。エラが落ち着かなくて、やっぱりスミレさんがいないから調子が悪いのかなと思って……それで扁桃体を介して探っちゃったの。だからスミレさんに頼まれたわけじゃないのよ」

 扁桃体とは脳内の大脳辺縁系の一部で、感情脳ともいわれている神経細胞の集まりだ。もちろん動物にも有る。刺激に敏感で微妙なニュアンスを感じ取る――カナリアであれば誰でも知っている知識だ。

 とはいえ、ドニスには何が何やらさっぱりだった。

「こんなことをしてスミレにいったい何のメリットがあるんだ?」

「検索履歴を消そうとしたのよ」

 ここでようやくドニスが真剣な表情になった。

「知られたくない何かを調べていた?」

「お父さんの行方を」

「スミレの父親?」

 ドニスはまたしてもわけがわからなくなった。

「服役していたの。捕まえたのはチーフとダリボさんよ。でも刑期を終えて、再婚して、また同じことを繰り返した――」

 ドニスはマデリンのひどく沈んだ様子に不吉な予感を覚えた。

「酸をかけたのよ。ひどい暴力を振るって、おなかに赤ちゃんもいるのに」

 ドニスは瞠目した。アシッドアタックか!

 相変わらず急ぎ足で廊下を通り過ぎていくシステム要員と思しきスタッフたちは、マデリンとドニスとのやりとりにはまるで興味がないらしく、ありがたいことに目もくれない。

「彼女は忘れてもいいと思っていたのよ。お父さんが心の底から悔い改めてくれれば。でも、再婚した人が同じ目に遭っているのを知って、居ても立っても居られなくなったのよ」

「なんてこった……」

 ドニスは呆然とした。

「それで、おまえは手を貸したのか」

「復讐と正義は違う――わかってはいるのよ」

 ドニスは複雑な表情でマデリンを見つめた。

「確かにひどい話だ。気持ちはわかる。でも、前にも言ったよな? 他人の期待に応えてもいいが、背いてもいいだぞ」

「覚えてるわ。そのことは」

「つまり、よく考えた末の行動なんだな?」

 マデリンはうなずいた。

「彼女にとって残りの人生、恨みを抱いて過ごすより、罪悪感のほうがまだマシなように思えたの。でも、今の彼女にはそれもないかもしれないわ。エラも戸惑ってたし。なによりわたしはスミレさんが好きなのよ」

「おまえ、嫌いな人間っていないだろ?」

 ドニスが苦笑する。

「そんなことないわ。あなたのことは――」

「待て待て待てっ」

 ドニスは慌てて遮った。マデリンは思わず口を噤む。

「俺が先だ」

「先って……」

「優先権は俺にある!」

「なにそれ?」

 マデリンはきょとんとした。瞬きを繰り返す。

「だってそうだろ? とにかくそうなんだっ」

 ドニスは必死だった。先を越されてたまるかよ!

「つまり、だな。俺の方が先だった。訓練中にお前を見つけて、それで――」

 その間もスタッフたちが慌ただしく廊下を行き来している。

「場所を変えよう」

 ドニスはいったん肩の力を抜いた。

 マデリンの部屋へ――そうすれば2人っきりになれる。


 コーディーとダリボは特に行動を起こすような真似はしなかったが、警察の捜査状況だけはツテを通じて把握していた。間違っても上層部の手を借りて、政治的駆け引きでも行われれば、余計な貸しを作り、今後、無理難題をふっかけられないとも限らない。もとより2人はスミレを罪人として突き出すつもりは毛頭なく、人一倍正義感の強いダリボでさえ、その信念を曲げたぐらいだった。

 監視カメラにそれらしい姿は確認されていない。薬莢も見つからず、そもそも彼女の出入国記録には何の問題もなかった。システムの使用履歴を調べるには2人には難易度が高すぎたし、おそらくはクラッシュが原因なのだろうが、専門家ですら首を傾げる滑稽な事態も生じていた。例えばセルジュの報告書がダリボの個人ファイルに飛んでいたり(失われていなかったことに彼は狂喜した)、エプレメイ所有の水素燃料電池自動車と他社のレンタカーの使用記録がところどころ入れ代わっていたりという具合である。第一、ダウンした原因はいまだにわからずじまいだった。ただ、腑に落ちないながらも、ウィルスやサイバーテロでないことだけは確認されたので、騒ぎはもはや沈静化しつつあるといってよかった。


 ドニスはエラを連れてチャドータ空港に赴いた。連れ出すのにチーフの許可をもらい、絶対に車から出ないように言い聞かせる。マデリンが言ったのだ。エラは知能が高い、口頭で充分に伝わる、と(もちろんその事実は他のスタッフには伏せられている)。確かにその通りだった。エラは世話のかからないデグーで、ドニスにしてみればケージの必要性も感じられなかった。どうやら覚られぬよう、ラボの人間の前では意図的に間抜けな振りをしているというのだから、彼は舌を巻くと同時に、数日前の自分を思い出して、苦い笑いを漏らした(ちなみに夜中にフロアをカシャカシャ掘るような音がしたので、無意識に「静かにしろよ……」とつぶやいたら見事に音が止んだ)。果たして、他の資産と呼ばれる動物たちも同じ芸当をやってのけるのだろうか? 生き物は嫌いじゃない。今度、フィルにも試してみよう。

 目的の便の表示に明かりが灯った。定刻どおりだ。しばらくしてゲートから人並みが流れ出てきて、ドニスは目を凝らした。搭乗者名簿は確認済だ。ダリボが教えてくれた。さりげなく帰国の話題を振ったら、口をすべらせたのである。同時に、隣でチーフが苦虫を噛み潰したような顔をしたことにも気づいた。2人は間違いなく動向を探っている。エラの元気がないのを理由に迎えを申し出ると、チーフの表情がやわらいだ(どちらもわかりやすい大人たちである)。ドニスの提案はコーディーにとっても都合がよかったはずだ。もちろんエラに変わりはない。厄介なことに瓶の蓋を開けることを覚えてしまうぐらいには。

 ドニスは大半の乗客をやり過ごした。

「そこのブルネットの綺麗なお姉さん!」

 到着フロアで声をかける。迎えを頼んだ覚えはないから、素で驚いているのがなにやら妙におかしかった。

「やあ、近くで見るとますますチャーミングだ。デートに誘ってもいい?」

「それ、まさかとは思うけど、ハニトラの台詞?」

 ドニスはふき出した。

「それこそ、まさか! セルジュは大げさなんだよ。俺がやってるのは、ただのナンパさ。注意を引いたり逸らしたり……エプレメイは諜報機関じゃないし、俺たちはインテリジェンスオフィサーってわけでもないだろ」

「でも失敗したことないんじゃないの?」

「日本人は手強い」

 スミレは笑った。

「そうかもね。でもそれからどうするの? ほんとにデートしちゃうわけ?」

 ドニスはたちまち渋面になった。

「笑えねえジョークだな。電話を入れてもらうのさ。それでどうしてもはずせない用事をほのめかすような会話をして、眉尻を下げてアデュー」

「ひどい男ね」

 スミレが呆れたように言う。仕事だからしょうがないだろ、とドニスは肩を竦めてみせる。

「それより休暇は……日本はどうだった?」

「楽しかったわ。オーバーツーリズムみたいだったけど」

「あんたも加担してきたんだろ?」

 ドニスがいたずらっぽく笑う。

「とんでもない! むしろ被害者だったくらいよ。舞妓に化けたら写真撮られまくり。本物と間違えられたのね」

「それ、まずいんじゃねーの?」

「白塗りだから平気よ。カラコンもしてたしね」

「なるほど」

 うっかりしていたが、彼女は人一倍用心深い性質だったことを思い出した。

「そうそう、日持ちするおいしいものをたくさん買ってきたんだけど、持ちきれなくて空輸にしたの。もうちょっと待ってね」

 スミレの表情からは危惧も居心地の悪さも一切感じられない。むしろ上機嫌にすら見えて、ドニスは自分の方が何かとんでもない見当違いをしているのではないかと錯覚しそうになった。これが演技ならたいしたもんだ、俺より確実に嘘がうまい――彼はその千両役者ぶりに心のうちで褒めたたえた。彼女の手荷物を引き受けながら、エラが車で待っていることを伝える。

「連れてきてくれたの!? やだっ、すっごく嬉しい!」

 それは本心から出た言葉だった。スミレは今にも駆け出したい衝動をどうにかこらえて、いつもの歩調を保つ。そして内心、したり顔でつぶやいた。

 まだまだね、ぼうや。

 カナリアは基本的に内向型の人間だが、外向型の要素がまったくゼロというわけではない。それに、たとえ内向型でも、気を許している人たちの前では、積極的に振る舞える器用さも持ち合わせているのだ。マデリンがそのいい例じゃないの。

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