動き出した聖教国
「こんなの聞いてないわ…」
王都のラピス侯爵邸。
長い金色の髪と翡翠色の瞳を持つ整った顔立ちの幼い娘は、夜の誰もいない広い寝室のベッドに座り呟いた。
親しい者は彼女をユティアと愛称で呼ぶ。
日本で死亡した枢木叶実はファルツォーネとの転生契約により異世界イデアに転生した。
転生から五年、エルグランド王国ラピス侯爵家本邸。
一人娘のユースティア・ラピスとして生まれ変わり、親バカな両親に愛され、第二の人生を歩んでいた。
赤子に生まれ、全ての世話をされるという羞恥の生活も体験して。
『姫は堂々としていればいい』
少し低い声が頭の中に響くと同時に、二メートルを越す赤い狼が出現した。
過去を振り返るように思案に暮れるユティアに金の目を眇めると絨毯に伏せる。
『我は姫に従おう。思うように生きよ』
「グレン…」
生まれた時から頭の中に響く声があった。その声に従い契約を結んだのが三年前。
赤い狼はこの世界に存在する神獣の一体で、ユティアと共に在ることを望んだ。
契約時に紅蓮と名付け、誰にもバレないように侯爵領で普通の令嬢として過ごしていた。
二週間までは。
「全部ファル様が悪いのよ。神子とか聞いてない…」
イデア創造時に神が降臨した土地、聖シルヴァリア教国。
この世界で唯一の宗教である聖教の教皇と今代の聖女が事の発端だった。
教会上層部に“神託が降りた”“神子が降臨した”と告げたのだ。
神託の地、エルグランド王国の統括責任者である大司教が急遽調査を指示され―――ユティアの存在が確認された。
「まさか洗礼の儀でバレるなんて…」
『神々の祝福だ、見るものが見れば仕方のないことだ』
この世界では全ての人が五歳になると教会で洗礼の儀を受ける。
ユティアも五歳の誕生日に両親に連れられて自領の教会へ赴いた。
手順通り神々の像の前で跪き祈りを捧げると創造神ファルツォーネの像が輝き、ユティアを光が包み込んだ。
これを見た両親は驚き、教会は上へ下への大騒ぎ。
調査のため地方に赴いていた大司教が急遽呼ばれる事態となった。
「グレンのおかげで聖教国での幽閉生活は回避できたけど」
教会にバレた日の夜、両親と屋敷の使用人にグレンを紹介し、神子という称号を持つことを打ち明けた。
普段から五歳児らしからぬ発言や行動が多かったこともあり、驚きはあれど割合とあっさり受け入れられた。
二日後、大司教と教会騎士が侯爵邸を訪れた。
大司教曰く、聖シルヴァリア教国で丁重に御身を保護したいと。
娘を溺愛している両親が難色を示し、ユティア自身も拒否を示した。
しかし聖教国側としては“神の代行者”、“現人神”の意味を持つ神子をたいした護衛もなく置いておくことはできないと大司教も食い下がった。
安全を確保したいが神子の意思も無視できない大司教と、拒否の姿勢を崩さないラピス侯爵家の面々。
話し合いが膠着状態なったとき、突如としてグレンが部屋に顕現した。
大司教達は初めて目の当たりにした神獣の赤狼に平伏し、ただただ恐縮するばかり。
グレンの“神子の意思を尊重せよ”との一言に異論などなく、手を組むとしきりに祈りを捧げて慌しく帰って行った。
一週間後、聖教国から王都の教会へ相談役として派遣されたとアステル枢機卿本人がラピス侯爵領まで挨拶に訪れた。
更に二日後、父ヘイルムートとユティアに国王から至急の登城命令が届けられた。
急ぎ馬車を駆り一日半。
王都のラピス侯爵邸に到着し、明日登城するばかりという状態だ。
「私にも登城命令なんて…お父様の言うように国王様にもバレたと考えるべきよね」
『枢機卿が着任時点で挨拶には赴いているだろうからな』
「何かあればグレン、あなたの力を借りるかもしれないわ」
神子とバレた以上、もう普通の生活はできないかもしれない。
それでもできることなら自由に生きたいとユティアは願った。
『我の力で姫の役に立つならば使うといい。さぁ明日もあるのだ、もう休め』
「ありがとう、グレン。おやすみなさい」
ベッドに入ると早々に眠りに就いた。
それを見届け、グレンも室内から消えた。