プロローグ
ヒカリは、二十五歳の誕生日を迎えた。その夜、実家で両親に祝われて、幸せな気分に浸るはずだった。今年も恋人はできなかった、と自嘲しながら。
テーブルに並べられた料理が、色彩鮮やかとは冗談でも言えない。唐揚げや手羽先、ローストビーフやステーキなど、肉類で埋め尽くされている。まるで、肉のブッフェだ。
「ありがとう、母さん!」
仕事から帰ったヒカリの疲労は、吹っ飛んだ。スマートフォンを取り出し、豪勢な食卓を撮影する。それを終えると、今にも涎が出そうな、少しばかり下品な笑みを浮かべながら席に着いた。ヒカリは、肉に気をとられている。だから、気付かなかったのだろう。両親の異変に。
二人が席に着くと、待ちきれないヒカリは手を合わせた。
「いただきます!」
「待って、ヒカリ」
制止の声に、顔を上げた。その時になって、初めて分かる。両親の表情が、暗い。そんな顔して、実はプレゼントを渡すための演技だろうか。いや、娘の誕生日に、そんなことをするような親じゃない。
「お前に、言わなきゃいけないことがある」
「何、お見合い?」
こんな雰囲気を、冗談で壊そうと試みた。だが、
「ヒカリ、ちゃんと聞いてほしいの」
そう言われては、口を閉じるしかない。手を下ろし、向かい側の父親を見つめる。
「実は、本当の家族じゃないんだ」
思考が停止した。日本語を話しているのに、ヒカリにはその意味を理解できなかった。
「い、いやだな。きつい冗談言わないでよ」
「嘘じゃないの。ヒカリが大人になったら言おうって、パパと決めていたの」
二人の真剣で、どこか悲しげな表情。その様子が、真実味を帯びている。自分が血の繋がった子供ではないと、考えたことはなかった。
「幼いお前は、路上で寝ていたんだ。警察に届けたが、親は見つからなくてな……。その頃、俺たちも子供を欲しいと願っていたが、恵まれなかった。そこでママと話し合って、ヒカリを引き取ることに決めたんだ」
ヒカリには、そんな記憶がなかった。路上に放置された挙句、親が見つからなかったというなら、本当の親はよほど自分を捨てたかったに違いない。それに、義理の両親が子供に恵まれていたら、自分は此処にいなかっただろう。そう考えると、涙腺が緩む。
「これは、幼い頃のヒカリが持っていたものよ」
母親が懐から取り出したのは、小さな本と銀色のネックレスだった。それを受け取るが、やはりヒカリには覚えがない。
「本当に、私が持ってたの?」
母親が頷くと、ヒカリは本の表紙を開けた。表紙の裏に、赤い花弁が押し潰されている。
「ごめんね。生花だったから、長年持たせるために押し花にしたの」
そっと表紙を閉じると、視線を銀色のネックレスに移した。太陽と花をあしらった形で、その中央に赤い宝石が埋め込まれている。小指の爪ほどの大きさだ。じっくり見たものの、やはり身に覚えがない。ヒカリは、その二つを持って立ち上がると、下唇を噛みしめた。涙を堪えるように目を見開いたまま、口角を上げる。
「教えてくれてありがとね。じゃあ、お風呂一番乗りしてくる」
「ヒカリ。血は繋がっていないが、俺たち三人は――」
ヒカリはリビングの扉を後ろ手で閉め、二階の自室に駆け込んだ。勢いよくベッドに飛び込むと、顔を枕に押し付ける。枕は、涙で濡れていく。
(気づかなかった。家族じゃないなんて……)
疎外感、喪失感、空虚感……負の感情が無限に溢れ出る。信じていた人に裏切られるなんて、何度も味わったはずなのに、やはり慣れないものだと改めて思い知った。
中学時代は、好きになった先輩がいた。ある日、先輩が熱中症で倒れたので、横抱きにして保健室まで全力疾走したことがある。その結果、先輩は助かったので礼を言われた。今度、お昼ご飯を奢るという約束も交わしたので、淡い期待を抱いていた。その矢先、嫌な噂を耳にする。
それは、女子が一回り大きい男子をお姫様抱っこして走っていたという内容。その本人であったヒカリは、力持ちなことから『ゴリラ女』というあだ名をつけられ、皆に馬鹿にされる。それだけでなく、先輩もヒカリを避けるようになり、約束は果たされずに終わった。
そのとき、ヒカリは初めて、自分が力持ちであることを知る。しかし、こんな自分でも好きになってくれる人はどこかにいる、と信じ続けて行動してきた。その結果、高校・大学・会社でも『ゴリラ女』と陰で呼ばれ続けている。友達ができたと思えばダシに使われることなんて、何度もあった。男女が仲良くなるための悪口の対象としてなら、ワールドカップ優勝並に活躍しているだろう。
とにかく、不名誉なあだ名のせいで、誰も恋愛対象として見てくれない。そのため、恋人ができたことはない。また、平日は会社・土日は家でゲームという生活を送る日々に、出会いの場は皆無。だが、『ゴリラ女』だって、恋人を作りたいのだ。
嫌なことを思い出したヒカリは、思い切り頭を振った。そして、眉間に皺が寄るくらい、強く目を瞑る。すべて嘘だったらいいのに、と願いながら。