愚かなトキ
俺は、彼女がどんなに大切な人だったのかという事を、まったくわかっていなかった。
心はあんなにも彼女に会ってそれを示していたのに――。
俺はそんな初めての感情に戸惑うばかりで、何も出来なかったんだ。
ただ、彼女を傷つけただけだった……。
あの時の彼女の顔を、俺は一生忘れる事はない――。
はっきり言って緑は、恋愛というものがなんなのか、まったくわからなかった。人は恋をすると心が真っ先に反応するものだとみんなは言うが、そんな感情に陥ったこともなかったので意味がわからなかった。
だから、どんなに自分に好意もった女の子が近付いてきても、少しも嬉しくもなかったし、むしろ面倒くさかったのだ。
けれどそうやって適当にあしらって来た結果、一人の女の不況を買い、自分は今まさに怒られている。
「あなた、自分がしてる事わかってるの?断るにしても、もう少し優しくしてあげたっていいでしょう」
優花は先ほどから昨日呼び出したにも関わらず来なかったことと、緑の断り方について改めてお昼休みに呼び出した中庭で延々と話している。
昨日ほど寒くないその日は、日が照っていて外に出ると少し嬉しくなるような天気だった。けれどもそんな空気にも、優花の話にも、緑は興味なかった。
「聞いてるの?あなた、どういうつもりなの。心がないんじゃないの?」
優花は勢いよく言いはしたが、流石に言いすぎたかと思って少し身を引いた。
けれど緑は何の感情もない顔をしていた。緑としては、さっさとここから解放してほしかったのだ。
昨日の事もあり、今そんな事を考えている余裕なんてなかった。
「ない」
緑は早く戻りたい一心で、真剣にそう請け合った。けれども優花は、緑のその答えに目を見開いて口をポカンと開けたまま言葉もなく驚いていた。
緑はそれを話しが終わったのだと解釈し、その場を立ち去ろうとした。背を向けて歩き出すと、優花の笑い声が聞こえたので、緑は思わず振り向いてしまった。
「あ、あなた、面白いわね。ずっと気取ってるだけなんだと思ってたわ」
と、そう言ってまだお腹を抱えて笑っている。
けれども緑は本当に自分に心があるとは思っていなかった。たいてい何があってもあまり驚くようなことはなく、冷静に事を進める事が出来た。
昨日、あの子にだけだったのだ。こんなにも心を乱されてしまったのは――。
緑はまたも昨日の事を考えながら、教室に戻った。
次の日の学校で、緑は妙に視線を感じていた。どうやら優花が緑に興味を持ったようで、好きあらば観察しているみたいだった。あんなにも自分を毛嫌いしていたことを思うと、とても不気味な気がしたが、確かに彼女は美人で、緑は男なのだから、そんな人に見つめられれば悪い気はしない。けれどもその日の放課後、優花はもっと驚くようなことを緑に話してきた。
「……もっかい言ってくれる?」
緑は思わず聞き返す。
「だから、私と付き合ってほしいの」
優花は何のためらいもなくそう言ってこの間と同じ中庭で緑と話している。今まさに自分は告白をしているわけではなく、世間話をしているのだというような口調だった。緑は思わず眉間にしわを寄せて優花の顔を覗き込んだ。
「何を企んでる?」
「何も企んでなんかないわ。ただ、あなたが好きなだけ。それだけじゃダメ?」
「ダメも何も、お前がそんな事言いだすなんて信じらんねえ」
と、緑は首を横に振った。
「あら、そう?わたしだって、人を好きになるのよ?それに、私と付き合ったほうが、お互いに楽なのよ。今まで何度も告白されて疲れたでしょう。私と付き合えば、自然と近付いて来る女は減るし、あなたの知らない感情を私が教えてあげる」
優花はそう言ってほほ笑んだ。
そこに嘘がない事は、緑でもわかった。けれども、彼女も緊張しているようで、どんなに虚勢を張っていても彼女は女で、手が震えているのが遠目からわかった。緑はもうわけがわからなくなっていた。
この間会った女の子の事は気になるが、もう会うこともないだろう。悩み続けているよりも、いっそ優花と付き合ってしまったほうが楽なのかも知れない。
緑は重いため息をつくと、優花の方に向き直った。
「俺でよかったら、お付き合いさせてもらいますよ」
と、少しはにかんだように笑う。
けれどもその笑顔が仮面であることを、優花は知っていた。
「あら、本心を隠すのが本当に上手なのね。もう少し戸惑っている姿を見ていたかったんだけれど」
と、優花はそう言って楽しそうに緑と腕を組んだ。
「まあ、いいわ。了承してくれただけで、私は舞い上がりそうなほど嬉しいんだもの」
優花はほほ笑んで、前を見据えた。
二人はこの後どうなるのか?
感のいい優花でさえ、想像もしていない結末になる。
だから、俺なんかでって言ったんだ。
俺だって、あの時はあんなことになるなんて全くわからなかった。
心では、ずっと求めていたのかも知れない。
優花にでさえもそれは、わからなかったけど……。
あの頃の俺が、一番愚かだった。




