やくそく・・・
「初雪ちゃん、今日は早いのね」
清佳はそう言って嬉しそうに、紅茶の入ったカップを手にして笑った。
初雪はその日、勤めている私立中学校が半休のおかげでいつもより早く清佳に会いに行くことが出来たのだ。
もう見慣れてしまったその家の構造に、今では安心感さえ持ち始めている。
緑と別れても、緑の叔母である清佳のたっての願いで彼女に会う事は続けていた。今ではどんなことでも相談に来てしまうほどの仲である。年の離れた友人と言うべきか、それとももう一人の母と言うべきか――。
取り敢えず、週に一度か二度のペースで清佳と会うことになっている。
「はい。学校が半休で、クラス担任ではない私は早めに帰ることが出来たんです」
と、初雪は良い香りのする紅茶をすすりながら答えた。
「そう。……そう言えばもう、五年になるのね」
「そう言えば」の後に「緑がいなくなって」と入るのがわかっていた初雪は、何も答えずカップを眺めていた。
「どちらにしろ、そろそろ帰って来なくちゃいけない時期なのよね」
と、清佳はクスクス笑った。
「どうしてですか?」
初雪は不思議に思って首をかしげながら尋ねた。
「パスポートの期限が切れるのよ。うちの人、パスポートの期限が五年の約束ならって言って、海外を自由に飛び回るのを許したの。五年後には必ず帰って来られるように――顔を見せるようにって――」
「……そんな思惑があったんですね」
と、初雪は半ば感心しながらも笑った。
「伯父さん、結構放任主義の人なんだと思ってました」
清佳は初雪のその言葉にまた笑った。
「あの人、ホントは心配でたまらないのよ。本当の親でなくても、緑を大切に育てて来たの。実の父親と同じ気持ちで、子を思っているのよ」
「それは清佳さんも、でしょう?」
初雪は羨ましそうにほほ笑んだ。
「えぇ。緑はどう思っているのかわからないけれどね」
「彼も、きっと本当の屋と同じようにお二人の事を思っていますよ。現に、週に一度はきちんと連絡してくれるんでしょう?」
「今は携帯という便利なものがあるものね」
緑は普段、週に一度のペースでメールや電話をきちんと家に入れていた。どんなに遅い時間になってもそれだけは忘れなかった。
「初雪ちゃんは緑の事もうどうも思っていないの?」
その質問に初雪は言葉を失った。
「あの子、向こうで恋愛しているようには見えないのだけど……。初雪ちゃんの方はこの五年で色々あったでしょう?」
清佳は心配そうに初雪の顔を覗き込んだ。
「……私は、もうそういうものだと理解していますから」
「だめよ、そんなんじゃ」
と、清佳は語尾を強めながら反論する。
初雪は緑がいなくなって、他の男の人に目を向けようと色々努力してきた。確かに気の合う男性は幾人かいた。けれど、いざ付き合ってみると、合わなかったというのが現実だった。どうしても、付き合っている間にこれが緑ならばなどと考えてしまう。愛そうとしても、愛せなかったのだ。
「本当に愛せる人を見つけるのって、大変なんですよね。私、彼に待たないって言ってあったのに、結局結果は同じになっちゃって――」
「初雪ちゃん、人は愛せる人を見つけるのではなくて、愛する人を見つけるものなのよ?恋は、意図して出来るものじゃないんだから」
清佳は優しくほほ笑んでくれた。そんな清佳を見ていると、初雪は思わず泣きたくなってくる。
「でも……」
「大丈夫よ。きちんと、自分に合った人がいるはずだから。焦らなくていいの」
と、そう言って清佳は初雪の隣に回り込んでくると、優しく肩を抱き寄せた。
「大丈夫」
初雪は声を出さずにそのまま泣いた。なぜか、この頃無性に泣きたくある時が多かった……。
淋しいのかもしれない。自分の周りの友達は、次々に結婚している。紗奈も去年、二年間付き合っていた人とようやく結婚した。何かとトラブルはあったようだが、円満に解決できてよかったと、今では笑い話にしているくらい、幸せそうだった。
少しして、初雪は気持ちが落ち着くと、立ち上がった。
隣でずっと支えてくれていた清佳は、驚いたような顔で初雪を見ている。
「今日はそろそろおいとまさせて貰いますね」
少し泣いたことで、化粧が落ちたかもしれないが、そんな些細なことはどうでもよかった。ただ、このまま清佳に甘えるわけにはいかない。
「そう。もういいの?」
「はい。ありがとうございました」
弱音を吐かせていただいて、とも言おうと思ったが、そんな事清佳はすでに分かっていると思い、結局それ以上は何も言わずにリビングを後にした。
そんな初雪に、清佳は玄関先まで着いて来てくれた。
「じゃあまた来週きます」
「えぇ。待ってるわ」
と、清佳と笑い合って、初雪がドアノブに手をかけようとした瞬間、玄関のドアが勢いよく開いた。
初雪は思わず身を引いてその場から一歩下がる。そして、ドアを開け放したその人物を見て思わず呆けてしまった。
「ただいま」
家に入って来た緑は、初雪に目もくれずに清佳に向かって微笑んだ。
「あら……今日帰ってくる予定だったかしら?」
清佳は首をかしげて不思議そうに尋ねる。
「いや、慌てて帰って来たんだ。会いたい人がいるから――」
と、そこまで言ったところで、ようやく緑は清佳の隣に初雪がいることに気づいた。
「え……」
見つめ合ったまま、長い沈黙が二人を取り巻く。
「もう、久しぶりの再開なのに、一言もないの?あなた達」
清佳は呆れたように腕を組んでため息を吐いている。
「どうしてここに――?」
初雪が久しぶりに見る緑は、初雪を見て珍しく慌てていた。
緑は相変わらず、真っ黒な黒髪を綺麗に切りそろえて、その端正な顔を引き立てていた。背はまた少し伸びた様で、焼けたのか昔より肌黒くなっていた。白いワイシャツから伸びる腕はたくましく、少し引き締まった印象を与える。けれどもその細身な体格は全く変わっていなかった。
「た、たまたま遊びに来てたの……。それじゃあ、私はこれで」
初雪はそう言うと、逃げるようにその場を立ち去った。
ろくちゃんが目の前に居た――。
歩いている間も、そのことが頭から離れなかった。自分よりも格段に大きくなっていた緑に、とても圧倒されてしまったのだ。
私の事、今度はきちんと覚えててくれたんだ……。
初雪は感動で涙があふれて来るのを止められなかった。一人で歩きながらボロボロと涙を流す。その雫が、いくつも足元に零れ落ちて行く。
「雪!」
そう呼ぶ声が聞こえてくるのに気づいたのは、どのくらいしてからだろうか。初雪は聞き覚えのある声に振り向いた。
いま、雪って――?
初雪の事を「雪」と呼ぶのは、初雪と約束を交わした昔の緑だけだ……。
振り向いた先で、緑が息を切らせながら走ってくるのが見えた。
初雪はもう、逃げるようなことはしなかった。今まで散々逃げて来たのだ。今日くらい、素直に待っていたかった。
「雪……」
目の前に来た緑は、そう言うといきなり初雪を抱きしめた。
「ろくちゃん、雪って……」
「うん」
緑はそれ以上何も言わない。ただ、ひたすら強く初雪を抱きしめていた。
「ろくちゃん――?」
「雪、約束破ってごめん。今度こそ、迎えに来た」
その言葉を聞いた瞬間、初雪はまた涙を止められなくなって、声をあげて泣いた。周りを気にする余裕なんてなかった。ただ、緑がその場に居てくれる。それだけでもう他のことなんてどうでもよかった。
「ずっと、雪は自分にとってどういう人物なんだろうって考えてた。でも、考えても何も思い出せなくて、ただ苛立つだけで……。本当は、逃げたんだ。俺にとっての雪を知るのが、怖かっただけなのかも知れない。でも、思い出せた。雪は、俺にとって掛け替えのない人なんだって、気づく事が出来た。後はもう、ただ会いたくて戻って来た」
「でも、忘れてた間は私の事なんて好きになるどころか、気にしてもくれなかったじゃない!」
初雪は泣き叫びながら初雪は緑の胸板を叩いた。
「好きだったよ。認めたくなかったんだ。たった二度しか会ってない女の人に恋愛感情を抱くなんて、自分じゃ信じられなかった。だから、誤魔化したんだ」
「でも……」
「それとも、雪はもう他に好きな人が出来た?」
「バカな事言わないで!」
初雪はもう一度思い切り緑の胸を叩いた。
「待たないって言われた時、俺はしょうがないって思った。でも、心のどこかで雪の事信じてたんだと思う。残酷なんだ。俺は、雪が他の人を作れないことをわかってて、それでも突き放したんだから」
「突き放したの――?」
目を真っ赤にした初雪に見つめられて、緑は心臓が高鳴るのを感じた。初雪のその真剣なまなざしを見ていると、嘘なんて言えなくなる。
「突き……放したんだと思う。雪の思いを、知っていたんだから」
「私は、もっとひどいよ」
初雪はそう言って俯くと、また頬を濡らした。
緑には初雪の言っている意味が良く分からなかった。
「私は、ろくちゃん以外の人と一緒に居た時期もあった。五年間、何もなかったわけじゃない」
初雪は俯いたまま顔を上げようとはしなかった。
「俺は、雪が好きだ。他に誰がいても、奪い返すつもりで帰って来た」
緑のその言葉に、初雪は思わず顔を上げた。すると、真剣な表情の緑と目が合う。
「もう、忘れたりしない。ずっと一緒に居る。傷つくのが怖くて離れたりなんてしない。だから、俺のものになってくれ。出来れば、これからずっと……」
「それは、プロポーズ?」
「聞き返すな」
初雪が緑の顔を覗き込もうとすると、それを隠すように緑はもう一度初雪を抱きしめた。
「昔からの約束だから。三つのうち一つは約束できなかったけど、後の二つは、これからもずっと守っていく」
「私だけを好きでいてくれる?」
そう、初雪は訪ねた。
「うん」
緑は初めて約束をしたあの日を思い出しながら答えた。
「私をお嫁さんにしてくれる?」
「うん」
「もう二度と、私の事を忘れないでね?」
「うん」
「じゃあ、約束」
と、二人はまた、指きりをした。あの時と同じ気持ちで、今度こそ、約束を守るために――。
「ろくちゃんが好きだよ。これからもずっと、好きだよ……」
初雪はそう言って緑を抱きしめる腕に力を入れた。
そんな初雪が、緑はとても愛しかった。五年前から少しも変わっていない彼女を、愛していた。
「俺も……好きだ」
二人は照れながらも笑い合った。お互いに、お互いを信じて――。
季節はもうすぐ夏。じりじりと暑い空気が、二人を包み込む。
近くでは気の早い蝉が鳴きはじめていた。
日が落ちるその時間に、お互いに気恥かしさを残したまま、手をつないで初雪の家へと帰って行った。
これからの二人の未来を、共に思い描きながら――。
あれから二十二年。
気づけば二十七歳で――ようやく、約束の意味を知った。
たくさん回り道をして、泣いて叫んだ。
あの時間は無駄ではなかったんだと、今なら言える。
心から、相手を信じようと思えるから。
今度こそ、忘れずに過ごしていきたい。
『愛してる……』
ようやくこれにて完結となります!
一時本気でどうしようかと思う時期もありましたが、ここまで来ることができました・・・
この後は、『きっかけは、あなた』のほうへと力を入れていきたいと思いますので、よろしければそちらもご覧ください(*^_^*)
最後とはなりますが、ここまで付き合ってくださった皆々様、本当にありがとうございました<(_ _)>




