離れていくトキ
少し長めです。
最後にちょっとだけ、緑視点(ーー;)
ようやく会えたと思ったのに……。
彼の過去ときちんと正面から向き合おうと思った矢先に、緑は初雪の前からまたいなくなろうとしている。
「いろんな国って……」
「詳しくはまだ決めてない」
「どのくらい――?」
「わからない。ただ、五年は戻って来ないと思う」
「五年……」
初雪はその月日の長さを思って気が遠くなるのを感じた。
ただでさえ緑を四年間も待ち続けた。しかも四年後に出会った緑は、自分を全く覚えていなかったのだ。それからまた五年――。緑を忘れられない自分がいた。最初は彼を思って、他の人になんて目映りさえしなかった。でも、だんだんそれだけじゃなくなって、彼だけが心に住みついて離れなくなったのだ。それなのに、ようやく会えた彼はまたも自分から離れて行こうとしている。
これ以上待つことは、初雪には出来そうになかった。その苦しみや辛さを……悲しさを、身をもって知っているから。心で、体で、味わって来たのだから――。
「……自分を取り戻すためには、そこまでしなくちゃいけないの?まだ、これ以上私を放っておくつもりなの?」
初雪は緑から少しずつ離れながら、泣きそうになるのをぐっと堪え、潤んだ瞳で彼を正面から見つめた。
「私は、もう限界なの。これ以上、あなたを待つことなんて出来ない。これ以上は無理なの……もう、待てない」
初雪のその訴えが、緑の心に重く響いた。
記憶にない人なのに、こんなにも緑の心は目の前の女の人の悲しみの表情に揺り動かされてしまう。
もちろん初雪にだって、自分が勝手なことを言っている自覚はあった。待っていたと言っても、緑は覚えていなかったのだ。勝手に約束に縋りついて待ち続けていたのは、自分なのだから。
それでも、緑は頑なだった。
「俺には、大切な事なんだ。どうしても、自分を……自分の心を取り戻したい」
「私を置いてまで?」
その言葉に、緑は凍りついた。初雪を悲しませたくない。それは例え彼女を忘れていても、心から思っていることだ。
けれどそれは、結局初雪を突き放す結果となる――。
初雪も、自分がとても卑怯な事を言っているとわかっていた。けれど、それを止めることなんて出来なかったのだ。緑が、本当は初雪をこのまま忘れてしまおうとしているのではないかと思ったのだ。理由を聞いたはずなのに、世界中を回ることで緑が今までの自分を捨ててしまおうとしているように、初雪には見えたのだ。
「今まで、私がどんな思いであなたを待っていたと思っているの?ただ待つことが、どれだけ苦しいものなのか、あなたにわからないんでしょうね。だって、私のことなんて覚えてないんだもの。知らない人も同然だから、私がどうなろうと本心ではどうでもいいことなんでしょ?」
「そんな事はない」
そう言って緑は初雪の手をつかんで自分に引き寄せた。
「俺は、君が大切なんだ。君が誰だか知らないのに、体が……心が、訴えて来る。君が悲しい顔をするだけで、俺の心は同じように悲しみを伴う」
「それじゃあ、どうして?私は、もう待てない。それでもいいの?それでも、ろくちゃんは私を置いて、行ってしまうの?」
初雪は必死に身振り手振りで訴えかけた。けれど、緑の意思は変わらないようだった。表情はとても辛そうにしているが、目だけはその光を失ってはいなかった。もう、何を言っても考え直してくれそうにない光だ。
初雪はうつむいて大きなため息をついた。
「わかったわ。私は、待つことも、着いて行くことも出来ないけど……それでも、応援することは出来るから」
初雪はそう言うと、顔を上げてほほ笑んだ。それは、今の初雪に出来る精一杯の笑顔だった。無理に頬を釣り上げているせいで、顔の筋肉がつりそうだった。
ここまで言っても変わらないのなら、どれだけ言っても無駄だろう。それならば、初雪に出来ることは一つだけだ。
「頑張って」
初雪のその一言に、緑は心が震えた。嬉しいけれど、どこか、淋しかった。
「ただ、無理はしないで。心配している人がいるって事を、忘れないで」
初雪は緑の頬に手を添えると、優しく微笑みながらも、涙をこらえる事が出来なくなってしまっていた。ポロポロといくつもの滴が頬をつたい零れ落ちる。
「お願いだから……もう、連絡が途絶えるなんてことはしないで」
「……あぁ」
緑はそれだけ言うと、もう一度初雪を力強く抱きしめた。
どのくらいの時がったのだろうか、ずいぶんと長い時間二人は抱き合っていた。そしてようやくそっと離れると、二人は見つめ合った。
「……元気でね」
初雪はそれが今生の別れとでもいうように、悲しい笑顔をしていた。
そんな彼女を見て、緑もだんだん初雪と離れ難くなる。
「じゃあ……私行くね」
初雪はそれだけ言ってその場から逃げるように立ち去った。
これ以上一緒に居ると、何もかもを緑にぶちまけてしまいそうだった。自分を忘れてしまった緑を……自分を置いて旅立とうとする彼を。
本当はずっと、傍に居てほしかった。忘れたままでも良かったから、一緒に居たかった。でも、それでは彼が納得してくれない。それがわかっていたから、初雪は素直に別れに応じた。
記憶をなくして一番苦しい思いをしているのは、きっと彼自身だろうから。
「私は、私よりもあなたの方が大事みたい」
初雪はそうぽつりとつぶやくと、ずいぶんと歩いたのを確認するように今来た道を振り返った。
「ろくちゃんの馬鹿やろ―!」
初雪は周りを顧みることもせずに泣き叫んだ。
その大きすぎる声は、住宅街の壁に跳ねかえりながら木霊する。
「さよなら」
そして初雪のその小さな小さな呟きは、誰もいないその道に低く響いた。
初雪が歩き去るその背中を、緑は見えなくなるまで見つめた。煮え切らない思いがまだ自分の中にあることに気づいていた。
俺は、本気で彼女の事が好きだったのか……。
優花と付き合っていた時とは全く違う思いで一杯だった。こんなにも、心が落ち着かない気持ちになるのは、覚えているだけでも二回だけだ。そのうちの一回はもちろん今だ。そしてあと一回は、初雪と対面した、あの本屋でのことだった。
記憶をなくしてからは、たったの二度しか会っていない。それなのに、その回数分の短い時間だけで彼女は緑を……緑の気持ちに隙を与える。
「君は、俺の何だったんだ……」
もう見えなくなった初雪の後姿を、まだ鮮明に覚えている。
緑は、震えていた。
心も、身体も。
緑は振り仰いだ先で我先にと光りだす一番星を見て、嫌気がさした。
どうせ、今の自分はどうあがこうと光ることはない。
緑は諦めて、覚えていない自分の家へと帰って行った。
あの時私が待たないと言った事、あなたはどう思ったんだろう?
そんな勝手な私をあなたは何も言わずに見送ってくれたね――。
本当は、引きとめてほしかった。それを期待して、ゆっくり歩いていたの。
私はあの後、少しでもあなたに期待していた自分がとても恥ずかしくなった。
照れ隠しで、思いっきり叫んだりもした。
今でも、覚えてる。
別れ際の、あなたの淋しそうな笑顔。
私は、あなたの本当の気持ちを知りたかっただけなのに……。
でも、もしあの時あなたが私を引きとめていたら、今の私はこうしてここにいる事はかった。
弱音を吐かないあなたが、大好きでした。




