偶然のトキ
「じゃあ、また土曜日にね」
と、清佳とは笑顔で別れた。彼女は、初雪と会うことを心から喜んでくれている。それが伝わってくるから、初雪も安心して話す事が出来る。
初雪は緑の家の前で一息つくと、まだ少し微笑みの残る顔で帰路につこうとして振り向いた。
その瞬間、目の前には緑がいた。
「え――」
初雪は思わずその場に凍りついてしまった。
どうしてここに……って、家に帰って来たのよね。でも、まだ心の準備が……。
初雪は両手を握りしめて顔を伏せた。
それに会ったのはもう五年前も前だし、たった一度きりだったし――。もう辺りもだいぶ暗くなってきたから、私のことなんてわからないわよね……。
そう思って、初雪はなんとか呼吸を整えると、前を見据えて緑の横を何食わぬ顔で通り過ぎようとした。
と、その時、驚くほど強い力で緑が初雪の腕を掴んだ。
「えっ――?」
初雪は思わず振り返って緑に掴まれた腕を見る。
「君は、あの時の……」
初雪はどうしていいのか分からず、ただ体中の血液が熱くなるのを感じた。心が、体が、緑に反応している。体中が心臓になってしまったのではないかというほど、早鐘を打っていた。
覚えていたの?たった一度きり会っただけの私を……?
「ずっと、聞きたいことがあったんだ」
初雪はその言葉に、思わず顔を上げて緑を見てしまった。
刹那、彼に見られている事が恥ずかしくなって、思わず緑の手を振り払って駆けだしていた。
ど、どうしよう。思わず逃げ出しちゃったけど、これじゃ余計に怪しい……。
初雪は心底自分が情けなくなってきた。
走り続ける初雪の腕を、またもや誰かが掴んだ。相手も、初雪と同じく息を切らせている。
「何で逃げるんだ?この間の時も、今日も。君はいったい誰なんだ?」
緑はあの時と同じく追いかけて来てくれたのだ。そして、あの時とは違って簡単に初雪を捕まえられるくらい、成長していた。
けれど初雪は、緑を見ようとはせず、振り返りもしなかった。
「答えてくれ」
緑は強引にもう片方の手で初雪の顔を掴むと、自分の方へと振り向かせた。
その瞬間、緑はその場に凍りついた。初雪は、目に涙をためて緑を見つめ返してきたのだ。
「……ごめんなさい」
初雪は震える声でそう呟いた。
「……え?」
緑その言葉の意味がわからない。
「私、自分の事ばかりで……。本当は、思い出してほしかっただけなの。私だけ覚えてるのが悔しくて……。ろくちゃんは、私なんかよりもずっと辛い目にあったのに」
緑は初雪の言っている事を理解することはできなかったが、初雪が自分の過去を知っている人物であるという事だけはわかった。
「俺は、君を知っていたのか――?」
緑のその問いに、初雪は黙ったままゆっくりと頷いた。
「君は、誰なんだ?」
緑は、もう一度聞いた。すると、弱々しい声が返ってきた。
「初雪……。萩原初雪」
「初雪……」
緑は思い出そうと、眉間にしわを寄せた。
辺りはすでに日が落ちて、薄暗くなってしまっている。
「無理に思いだそうとしてくれなくていいよ。もう、いいの。私は、ろくちゃんに会えただけで……緑ちゃんが今ここにこうして居てくれるだけで、嬉しかったから」
初雪はそう言って何度も泣いたせいで赤くなった顔を引きつらせ、笑んだ。その頬を、いくつもの涙がつたう。
そんな初雪を見て、緑は思わず彼女を抱きしめた。
「ろくちゃん?」
「……わからない。覚えてないんだ――。でも、体が……心が、君を覚えてる」
緑は初雪を強く抱きしめながら囁いた。
「ろくちゃん……」
「思い出したい。君の事、思い出したいんだ。俺は、何を忘れてる?」
初雪は何も答えられなかった。本当に、今、緑がここに居てくれるだけで嬉しいのだ。
「時間がないんだ……」
「え――?」
緑の呟きに、意味がわからず首を傾げる。
緑はそんな初雪を放すと、その肩に手を添えて真剣な顔つきをした。
「俺は、もうすぐここからいなくなる。世界中を旅してまわる。ずっと考えていたんだ。空虚な自分を変えたくて――。その為には、このぬるま湯みたいな生活に身を浸すんじゃなくて、自ら殻を破って出ていかなくちゃいけないんだって思った。だから、いろんな国を旅して、肌で味わって、多くのことを心に刻み込んでいきたい。それが、自分の大切なものに繋がってる気がしたんだ――」
柊はその言葉に目の前が真っ白になった。




