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夜中に旦那の臑毛を剃る嫁の話

作者: 陸海恵三

 

 桐生冴子きりゅうさえこは窓辺に立って、月を眺めていた。目を大きく見開き、冷光を取り込む。体全体、神経細胞のひとつぶひとつぶまでも、冷たい色彩で満たされるのを感じる。夜中に仕事をするときにはいつも行う、彼女の儀式だ。

 しかし、今日の儀式はそこで終わらなかった。冴子は目を閉じた。

 灰青色の暗い光さえ届かない世界、極寒の闇。その中を風よりも早く駆け抜けていく。どこまでも続く、一条の銀光となる。

 今日の仕事は、冴子にとってこれまでになく過酷なものだった。より強いセルフイメージを持たなければならない。夫である桐生航きりゅうわたるの肩越しに見ているものを、冴子は自然と自己に投影していた。

「桐生」

 傍らで男の声がした。目を開き、振り向いてその顔を確認する間もなく、男は歩み去ろうとしていた。

「行くぞ」

 前嶋真司まえしましんじ。組織内での身分は対等なはずだが、彼女にとっては上司のような存在だった。見る間に遠ざかるその背中から聞こえる、明確な命令。儀式の時間は終わりだ。廊下の奥にあるドアへ前嶋が消える。

 しばらくののち、体中に清潔な風を浴びてから、冴子は前嶋と同じ部屋に入った。

 廊下と比べるとずいぶんと明るい部屋の中央に、横たわった夫の姿を冴子は認めた。白色の光が顔にも当たっているが、目覚める気配はない。薬がよく効いているようだ。身じろぎもしない航の周囲では、前嶋の指示の下で仲間たちがせわしなく動きまわり、仕事の準備を進めていた。その全員が、冴子と同じく、返り血を浴びても問題のない格好をしている。

 自分も任されている部分の準備を始めよう。そう思い、冴子は入り口からみて横向きになっている航の頭側を抜け、必要な器具の置いてある奥へと向かおうとした。うめき声。冴子は思わず立ち止まり、見まいとしていた夫の顔を見てしまった。

 光の加減か、浅黒いはずの顔は蒼白に見える。薬による眠りは安らかではないらしく、精悍な眉をわずかに寄せている。別の、とある人物に似た顔。

 立ち止まったのは数瞬だったろう。しかし、一度目に焼き付いた光景は、部屋の奥にたどり着いたあとも消えず、意識の外に追い出していた別の光景へとつながる。

(がん細胞共を狩ってまわるってわけでしょ。かっこいいじゃない)

 冴子が前嶋たちと働くことを決めたとき、両親は反対したが、桐生麻衣きりゅうまいはそういって冴子を励ました。同じ床の中で将来のことや恋愛のことを語り合ったこともある、冴子の親友にして、今は義妹。その麻衣でさえ、今回の仕事には目を血走らせ逆上した。

(ほんとうならあんたがやめさせなきゃなんないはずでしょ、どうしてそんなことするのよ!)

(……この、ひとごろし!)

 冴子の襟首を掴み、憤激を浴びせかけた麻衣も、今頃は海の底だろう。

 後戻りはもうできない。

 回想を振り払い、冴子は器具をつぶさに調べていく。皮膚や脂肪層を切り裂く刃物に、骨を断つことも出来るワイヤーソー、腐敗を防ぐ薬液……。確認を終えると、作業が手間取らないように配置も調整する。

「まだやってないだと。何をやっているんだ」

 前嶋の、静かだが鋭い叱声が背後から響く。ちょうど冴子が最後の準備を終えたあとのことだった。振り向くと、顕になった航の下腿をはさんで、前嶋と仲間の一人が向かいあっていた。

「すいません」

「まあいい。これだけならどうとでもなる」

「いや、それが実は他にも作業が残っていて」

「何だと。……仕方がない。お前は残っている方をやれ。桐生、手は空いているか?」

 前嶋は仲間に指示を与えると、冴子の方を向いた。僅かな違和感。冴子は疑問を覚えつつも応じた。

「はい。私の準備は終わっています」

「なら、ここの体毛を剃ってくれるか。他の者はまだ時間がかかりそうだ」

 前嶋は、航の右脛を指さす。違和感が強まる。何故、まだやっていないのか。それ以前に剃毛は必須の作業というわけではない。普段の前嶋なら省略するはずだ。

 作業を代わることになった仲間から、剃刀とクリームを受け取るときに、謎は氷解した。その仲間は冴子を値踏みするような目で見ていたのだ。はっとして、あたりを見回すと、他の仲間たちも探るような気配を放っている。

 自分は試されている。冴子はそう認識した。この作業の手際次第では、今回の仕事から外されることになるのだ。腹筋に力を込め、深く呼吸する。

 皮膚表面の潤滑を促すクリームを手早く塗りつけ、それが終わると西洋剃刀を手に取る。航の脛毛は、密集具合も毛足の長さや太さも標準的でさほど難渋はしそうにない。しかし、膝頭に近い部分がやや腫れ上がっていて、複雑な起伏をみせている。不安からか、不吉な言葉が頭をよぎる。

 死神。同業者たちが前嶋たちにつけた通り名。事実、彼らの手にかかったもので、死から逃れ得たものはいない。目の前にいる航もまた、そうだ。

 たとえそれでも、と冴子は気を充溢させる。手先の感覚で起伏を把握すると、無駄のない動きで刃先を滑らせる。この仕事を成功させる。膝頭周辺から無傷の素肌が広がっていく。自らの矜持のために。素肌の部分がついに踝までに達する。何よりも、航の願いのために。

(頼む、冴子。もう一度、俺を飛べるようにしてくれ)

 記憶の中の航の、静かな眼差し。歩みを止めない意志の輝き。どこまでも届く、銀の光。

「終わりました」

 剃刀を洗い、皮膚の表面を清拭すると、前嶋の峻厳な顔立ちをはっきりと見据える。前嶋も冴子を見返した。

「よし。全員、持ち場につけ」

 全員が配置を終え、固唾を呑む中、ついに前嶋が宣言した。

「これから、右脛骨に発生した骨肉腫の摘出手術を始める。……メス」

 冴子の手から、銀色の光が滑り出た。


 三年後。桐生家の玄関にて。

「ただいま、だね」

 桐生麻衣は帰還のあいさつをすると、目の前の桐生冴子と目を合わせられず、えへへ、とはにかんだ。

「おかえり。……また、ギリギリに来て。こっちについてたんならもっと早く帰ってくればいいのに」

 冴子は唇を尖らせながら、麻衣の荷物を預かり、ついでに着ている服を軽くはたいてやる。

「痛、痛。ちょっと、やめてよ。どうせ、海に潜りっぱなしで、こっちの方はそんな汚れてないんだからさ」

「探検家と看護士の基準は違うの。まったく、こんなとこまで航さんに似ないでもらいたいわ」

 しばらく冴子にされるがままになっていた麻衣が、おずおずと切り出す。

「……ごめんなさい」

 ひどくしょげかえった様子の麻衣に、冴子は慌てる。

「そんな真剣にあやまらなくたって。お互い様でしょ」

「いや、そうじゃなくて。ほら、面と向かってあやまってなかったじゃない。三年前こと。あのときは頭に血が上っちゃってて、さえちゃ、……冴子ねえさんのこと、ひとごろしとか言っちゃたし……」

「あのときのことは、あのときのこと。それに、私と航さんが結婚するって言ったときに比べれば、可愛いものだったしね」

 冴子の言葉に、麻衣は赤面し、うつむいた。それを言うかなあ、とか、ほんと小姑みたいに細かい、とかぶつぶつと呟く。

「桐生、そんなにいじめるなよ」

 冴子の背後から現れた助け舟に、麻衣の顔が喜色に満ちる。割烹着姿の前嶋真司が、おたまと小皿を持ってそこに立っていた。

「真司さんも来てたんだ!」

「きみが帰ってくると聞いた。桐生には長旅から帰ってきた義妹をいたわる、美味い食事なんて作れないからな」

 今度は冴子が顔を赤らめる番だった。

「フィアンセの仕返しだからって、ひどいこと言いますね。……それにしても、その格好」

 難度の高い外科手術を専門に行う特別医療班、チーム・マエシマ。彼らの手で克服できないのは寿命による自然死と医療の限界を超えた病魔だけ。現代医療の分水嶺。装飾過剰なマスコミからはそう称されることもある。その一方で、難治性の手術を請け負うがゆえのことだが、術後数年内に死亡する患者も多く、口さがない同業者からは、死神、とも呼ばれている。その死神たちの棟梁たる前嶋が、割烹着に身を包み、美味しそうなだし汁の匂いを漂わせている。

「医食同源だ、桐生よ。どこもおかしくはないぞ」

 しれっと言い放つと、小皿の汁をすすり、うむ、悪くない、などと呟く。冴子と麻衣はクスクスと笑った。

 しばらくして、三人が前嶋お手製の鴨鍋を一滴残さず食べ終えると、パソコンがアラートを発した。今日のメインイベントだ。冴子は指向性スタンドマイクを近くに寄せると、航空宇宙局との通信回線を開く。

『サエコさんですね』

『はい』

『バルダー号との交信に成功しました。船内の映像はそちらにも届いていますか』

『はい。とても鮮明に……夫が水滴で遊んでいるのが見えます』

『通信状況は良好のようですね。十一分後に、ご主人と直接話すことができます。九十秒しかありませんので、伝えたいことを整理しておいてください』

『わかりました』

 オペレーターとの通信を終了し、音声のチャンネルを切り替える。スピーカーから、宇宙飛行士たちとその家族が交信する音声が聞こえ始める。

「ふむ。前より映像と音声の質が上がっている。これは間違いなく、麻衣くんの功績だな」

「持ち上げすぎですよぉ、真司さんは、もう」

 通信衛星に中継されて宇宙船から届く電波を、より高い精度で受信し、全世界に届けるための洋上通信基地。その敷設のための海底調査に、麻衣は探査艇クルーとして参加していた。間接的ではあるが、たしかに麻衣の功績だ。些細なことであっても、ひとのために自分ができることをする。冴子にとってもっとも尊敬できる、親友の性質だった。そんな麻衣の姿を幼い頃から見ていなければ、自分はあの手術の日に役割を果たせなかったかもしれない。無邪気にのろけ合う麻衣と前嶋を眺めながら、冴子はそんな感慨にふけっていた。

 やがて、冴子の順番が回ってきた。正面を向いて、朗らかに微笑む桐生航の姿がディスプレイに映る。

『えー、前略、冴子さ……ま。俺の方はご……覧のとおり、男……ばかりの狭苦しいと……ころですが、人類初の火星有人探査船……の栄えあるクル……ーとして、不惜身命、粉……骨砕身の精神で任務にあた……ってえー、……おります。これもすべて、冴子のおかげです。……』

 交信の度に礼を言う航に、冴子は苦笑する。その間にも航は謝辞を延々とまくし立て、見かねた前嶋がマイクをとった。

『航。前回も前々回も、お前が喋るだけで終わってたそうじゃないか。冴子さんの話も聞け』

『お……お、真……司……か。お……前にもい……ろいろ、世……話になっ……た……な、どう……も、あ……りが……と』

『いらんといっているだろ。ついでにいえば、通信が遅れてるふりして変な礼をするのもやめろ』

『ハハ。バレた……か』

 前嶋は、まったく、と言い捨てると冴子にマイクを返した。軽く咳払いすると、冴子が話し始める。

『えーと、冴子です。こちらはみんな元気にやってます。足の方は大丈夫でしょうか? 他にも具合の悪いところは? そっちにいる間は、私は何も出来ないからとても心配です』

 三年前の航の手術は性急なものだった。有人火星探査船バルダー号の乗組員再選抜試験に間に合わせるため、充分な薬物療法を経ないまま外科手術に踏み切ったのだ。今でも、夫を死地に追いやってしまったのではないかという後悔をすることが、冴子にはあった。

『ぜん、ぜん、大丈……夫。ほら、このとお……うわ』

 足が問題なく動くところを見せようとして、航は姿勢を崩した。無重力下では慣性をさえぎるものはなく、その場で回転をし始める。

 ここて再び、パソコンのアラートが鳴る。残り時間が三十秒を切った。

「とりあえず、大丈夫そうね。ほら、麻衣」

 冴子は安堵の溜息をつくと、マイクをすすめる。麻衣はそれを引っ掴むと、早口に言う。

『兄さん聞こえてる? 麻衣だけど何でもいいから早く帰ってきて。火星なんか辿り着かなくてもいいから帰ってきて。それでわたしと真司さんの結婚式に出て。じゃね』

『な、待て、お前……ら。いつの間にそ……んなこ……とになって、こら、出て……こい!』

 返答の後半でようやく体勢を立てなおした航が、画面に近づいて叫ぶが、麻衣はカメラの視野の外に逃れてしまっていた。代わりとばかりに前嶋が出てくる。

『航。お前は医学的常識の埒外だ。お前ほど短期間に、しかも完全に骨肉腫が治癒した例はない。お前の追加研究が早くしたい。もちろん、お前を、にいさん、と呼んでやったときの反応も、重要テーマの一つだ。ではな』

『真司! てめ……え。帰ったら……覚えとけよ。俺の蹴り技……で足を治し……たこと、後悔させてや……るからな!』

 目の端に涙を浮かべ半笑いの表情で怒号する航をしりめに、前嶋は悠然と冴子に場所を譲る。

 さきほどよりテンポの早いアラート。残り十秒。

『航さん、私、待ってます。あなたが夢をかなえて、帰ってくる日のこと。どうか無事で』

『ありがとう、冴子。帰……る、絶対帰ってや……る。彗星に……つかまってでも帰……る。また連……絡するから。じゃあな』

 冴子の呼びかけに、涙を拭いしっかりと応える航。通信が切り替わる須臾の間に、永遠のように見つめ合う。そして、映像が別の宇宙飛行士のものに変わり、また別の家族たちの会話が始まる。

『お疲れ様でした。次回の交信は一ヶ月後を予定しています。……宇宙飛行士の皆さんはあなた方を拠り所にして、任務についています。どうか、あなた方もお健やかに。では、また』

 交信の全行程が終了すると、航空宇宙局のオペレーターはねぎらいの言葉を述べた。冴子は、はい、ありがとうございます、と応えると、通信用のアプリケーションを終了させる。

 冴子は、ふう、と一息つき、後ろを振り返った。意識が朦朧とした状態の麻衣を、前嶋が抱えあげているところだった。長旅の疲れが出たらしい、寝室はどこだ、と前嶋はたずねた。二階の突き当たりです、と冴子が答えると、夢見心地の麻衣を抱いて、前嶋は部屋から出ていった。居間にひとり残された冴子は、窓辺に寄っていって、月を眺めはじめた。その向こうにいるであろう夫の姿を思い浮かべる。

 漆黒の闇夜を、風よりも早く駆け抜ける。人の思いをのせて、どこまでも続く、一条の銀光。

 

  


 創作技法サイト「PointOfView」及び「はまログ」を主催されているはまさんから「夜中に旦那の臑毛を剃る嫁」というお題を頂戴したので、書いてみました。元々は、オンライン作家の紅月赤哉(月代奏)さんが発案したものだとか。世の中にはとんでもない状況を幻視する人がいるものです。「小説家になろう」内で、同じお題に挑戦した人が何人もいるようなので、読み比べてみるのも一興かと思います。

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