スポンジを焼きます 4
そんな洸の微妙な気持ちに気付かない桜は、辺りに漂い始めた香ばしい香りにうっとりと目を細めた。
「良い匂い……。この匂いをかぐと、すごく幸せな気分になれるよ」
「卵、砂糖、小麦粉は勿論だけど、この匂いの一番の功績者はバターかな。バターを入れないレシピだと、ここまで香らない」
「でも、それぞれの材料をそれぞれで焼いてもこんな匂いにはならないよね、不思議だな……」
首を傾げながらそう言うと、桜はためらいながらつづける。
「こんなこと言ったら秋月君に呆れられちゃうかもしれないけど、今日色々教えてもらって確かにお菓子って科学だなって思ったけど――――――やっぱりお菓子作りって魔法みたい」
理由が分かれば不思議だと思えなくなった洸には同意しかねる桜の言葉だったが、ここで否定するのも大人げなく感じ、洸は曖昧に頷くに留めた。
桜が天板をそっと引き出すと、洸は程良い色に焼けたスポンジに竹串を刺し、生地が付いてこないのを確認して大きく頷く。
「さ、焼けたみたいだな。調理台に運んで」
桜が天板を調理台に運ぶと、洸は更に指示する。
「型を30~40㎝くらいの高さから調理台に落として」
「は、はい」
桜はミトンを付けた手で型を持ち掲げ、おっかなびっくりな様子で型を調理台に落とす。ガチンと大きな音を立て型が台に落ちると、桜はびくりと肩をすぼめた。
「せ、先生。今度はどんな意味があるんですか? せっかく焼いたスポンジ駄目にしちゃいそうで、ちょっと恐いです」
「スポンジ内の熱い空気を抜くのが一番の目的だな。風船を冷凍庫の中に入れると中の空気が冷やされ体積が減ってしぼむだろ。焼きたてのスポンジの気泡の中の空気も熱いから、そのまま放置するとせっかく膨らんだスポンジもしぼんでしまうんだ。だから、こうやって高いところから落として、スポンジ内の空気を入れ換え、しぼむのを防ぐ」
そして、洸は用意した金網を型の上に置くと、桜にそのままひっくり返すよう指示する。
「よっと。ああ、緊張した。スポンジをひっくり返す理由は?」
「スポンジの気泡や焼いている間に重力に従って上に行く。そのため、スポンジ上部に行くほど気泡の大きさが大きくなっていくんだ。っで、焼き上がって逆さにすると、スポンジがまだ柔らかいから、今度は気泡が底に向かって上がっていく。結果的に気泡の大きさが均一になり、きめが整えられるってとこかな」
ふむふむと頷きながら、桜はふと首を傾げる。
「スポンジに付いた紙は何時外すの?」
「あら熱が取れたら。紙があるとそれに保持されてスポンジが縮みにくいから、すぐ外さない方がいいよ。あと乾燥を防ぐため濡れ布巾でスポンジを覆っておいて」
「了解です」
飲み終わった茶器とはずした型を洗うと、洸は桜に向き直った。
「冷えるまで時間が掛かるから、とりあえず近くのスーパーに生クリームとイチゴを買いに行くか」
すると桜は面映ゆそうに笑う。
「男の子とスーパーに買い物に行くの初めてだよ」
洸も苦笑を返す。
「俺もだよ。そう改めて言われると、なんか照れるな」
洸の言葉で、桜の頬は一気に赤らむ。
「えっ! ご、ごめん、そうだよね、恥ずかしいよね。あ、あの、じゃあちょっとここで待っててくれるかな。私すぐ買ってくるよ、秋月君の買い物も一緒に!」
「えっ、ちょっ、待った!」
急に慌てたようにおたおたと手を振って桜が立ち上がり、そのまま調理室を出ようとするので、洸は思わずその細い手首を掴む。
「わ、悪い」
はっと我に返ってその手を離し、謝る。とっさの自分の行動に頬が熱くなるが、なるべくなんでもないよう装って笑う。
「俺の買い物って、何買うつもりなのか知らないだろ」
洸の言葉に、すでに赤らんでいた桜の顔が真っ赤になった。
「そ、そう、だね……。なにテンパってるんだろね、私」
しゅんとなった桜に、洸は更に焦るが、上手くフォロー出来る言葉が浮かばず、何時ものぶっきらぼうな言葉しか掛けられない。
「とにかく、一緒に行こう。どんなのがいいのか実際のを見た方が説明しやすいし、俺も普通に買い物したかったし。良いよな」
確認するように言葉を重ねると、桜は俯いたまま小さな声で「うん、お願いします」と答えた。