スポンジを焼きます 3
二人で洗い物を終えると、洸は手早く紅茶をいれる。桜は受け取った紅茶に口を付け、再び疑問をぶつけてきた。
「予熱って、絶対必要なの? うちのお母さん、よく『予熱忘れた~。ま、いっかそのまま入れちゃえ~』って予熱なしで焼いてる時あるよ」
「…………高野のお母さん、結構おおざっぱだよな」
「――私の母親ですから」
桜は肩をすくめて苦笑する。
「スポンジが膨らむ過程なんだけど、まず最初に生地の表面がオーブン内の熱によって変性して薄い膜、つまりフタが出来るんだ。このフタが生地内部で発生する水蒸気をある程度閉じ込めることで、生地が膨らむことが出来る。つまりそのフタを早く作ることが生地の膨らみを左右するんだ。だから、最初にオーブンに入れた時に温度が低いと、それだけ生地が膨らみが悪くなる」
「――――こうやって聞くと、お菓子を作る工程って一つ一つ意味があるんだね。お母さんが失敗してた理由、よくわかったよ」
桜ははあっと、息を吐く。
「理由が分かると、どこを変えてどこを変えちゃいけないか分かるだろ。長い年数を掛けて、たくさんの人が考え抜いた結果出来たレシピなんだ。無意味なものは排除されるから、今残っているのは、意味があるってこと」
「素人が、素人考えで材料や行程を変えちゃ駄目って事だね」
「まあ、ある程度意味を理解できたら、色々変えてみて自分なりのレシピを考えるのが醍醐味になってくるんだけど。ちょっとの違いで結果が全然変わってくるのが面白くて、俺なんかは菓子部なんて学校に作っちゃったぐらいだ」
洸が苦笑すると、桜は大きく頷いた。
「うん、なんか化学の実験してる気分になってくる。確かに理系心をくすぐるね」
「男の趣味としては変だけどな」
洸の自嘲まじりの言葉に、桜は驚き首を大きく振る。
「全然! 全然変なんかじゃないよ! パティシエだって男の人の方が多いじゃない」
「職業としてはね。でも、俺はこれを仕事にしたいなんてこれっぽっちも思わないし、男が持つ趣味としてはやっぱり変わってるよ」
桜は少し躊躇したように黙ったが、おずおずと切り出す。
「でも、元々弟さんや妹さんの為に始めたんだよね、お菓子作るの。それ自体が楽しくなって、秋月君の趣味になったからって言って、それを変とか変わってるって言うの違うと思うよ。私は…………素敵だなって思うよ、秋月君の趣味」
少し赤らめながら、視線を紅茶に落としたままつぶやくように話す桜を見て、洸は――――照れた。
「…………かえでに聞いたのか?」
「…………ううん、先月お店で秋月君と家族の人が一緒にいるのを見かけて、秋月君がお菓子作る理由、勝手に想像してただけなの。私、家の事何にもやってないから、すごいなって」
「そんな、たいしたことしてないさ。双子達も保育園の延長保育利用してるから、世話ってほどのことしてないし」
「それでも、すごいと思う。って、あんまり家の事どうこう言われたくないよね。ごめん」
申し訳なさそうに謝る桜に、洸は苦笑する。
「ほんとにたいしてやってないから、あんまり褒められると確かにちょっと居たたまれないかな。でも、高野が謝るほどのことじゃないよ、気にするな」
洸の両親は共働きである。二人とも同じ会社の営業で、母に至っては現在、少し離れた地方都市にある営業所で課長を務めている。単身赴任ではなく新幹線通勤だが、営業のため家に帰ってくるは毎日深夜か、場合によっては最終に乗れずにビジネスホテルに泊まることもままあるほどの激務だ。
そのため洸が幼少の時は近所にある父方の祖母の家に預けられて育った。
祖母も、自宅で書道教室をしながら父の育てたので、母の仕事に対してある程度の理解はあるが、やはり自宅で子どもを見ながらの仕事と会社での仕事とでは違うためか、小さい洸によく「仕事ばかり優先して、子どもが可哀想だ」とかよく愚痴をこぼし、洸は変に自分を可哀想な子どもに仕立てたがる祖母を段々疎ましく感じるようになっていた。
なので、積極的に祖母の家の手伝いをし、ある程度自分でなんでもこなせるようになる小学校高学年の頃になると、ほとんど祖母の家に行かずに、過ごすようになった。
そんな頃だった、母の妊娠が分かったのは。母はその時すでに40歳をとうに過ぎており、いわゆる高齢出産だ。
祖母はその頃足を悪くしていたため、家の事だけでなく母親と双子らの世話は必然的に洸の仕事になった。母が仕事に復帰すると、双子らは保育園に預けるようになったが、夜や休日の世話は洸が結局ほとんど見ることになった。
あの頃は本当にきつかった。なにしろ、やっと自分のことは自分で出来るようになったぐらいの中学生である、乳幼児の世話なんて出来るはずがない。
何度全部投げ出して、家出してやろうかと思ったことか。しなかったのは、家族への愛情なんて寒い理由ではなく、ただ、関係ない他の奴らに両親の悪口とか、自分への意味のない同情とか、好き勝手言われたくなかっただけ。単に負けず嫌いなだけなのだ。
弟妹らを可愛いと思えるようになったのは、洸が高校生になってからだ。夜泣きもなくなり、自分たちのことも少しは出来るようになり、聞き分けもほんの少しだが良くなってきて、洸自身も落ち着いて弟妹らに接することが出来るようになった。
そして、そんな時分に弟妹らにねだられて作ったプリンに、洸は衝撃を受けた。
お菓子作りの本など家にはないので、ネットでレシピを調べたのだが、なんと卵と牛乳と砂糖を混ぜて蒸すだけなのだ。それだけで、確かにプリンの味と形になり、洸は不思議でしょうがなかった。洸は現象の理由を調べ、理由が分かるとそれを確かめるべく材料の比率や製法を少しずつ変え、色々なプリンを作っていった。
気がつくと洸はたった三つの材料を混ぜて加熱しただけで、全く違った物質に変化するお菓子作りに魅了されていた。
そう、お菓子作りは完全に洸個人の興味による趣味なのである。きっかけは確かに弟妹らのおねだりだったし、洸の実験結果であるお菓子のほとんどは弟妹らの胃袋に喜んで納められている。しかし、弟妹らのためと言われると非常に微妙だ。洸が自分の実験のため頻繁にお菓子を作るため、それを消費する弟妹らは少し肥満気味だ。むしろ弟妹らの身体を害しているとさえ言える。
その上、洸は家事育児を引き受ける代償として両親からかなりの額のアルバイト代をもらっている。振り込まれる口座は20歳になるまで自由に出来ないが、高校生の収入としては破格の額である。洸にとって弟妹の世話は決して慈善事業などではない、れっきとした仕事なのだ。
だから、褒められると本当に居たたまれない。