スポンジを焼きます 2
「泡立ち完了の目安ってあるかな?」
桜が首を傾げながら質問すると、洸はハンドミキサーをいったん止めさせ説明する。
「まず一つは、色が白っぽくなって、泡が小さく大きさが揃っていること。二つ目はボールの底を触ってもあたたかくないこと」
そういってボールを持ち上げ、桜に触るよう促す。
「――まだ、あたたかい、かな?」
「温度で言うと、25℃前後が理想だね」
「理由は?」
「泡が壊れにくくなるから。さらっとした熱い液体より、どろっとした冷たい液体の方が泡が壊れにくいだろ。それに、熱い状態で小麦粉と混ぜると小麦粉が熱で粘りけが出て、逆に低すぎると、次混ぜる小麦粉やバターが混ぜにくくなる。と、いうことで、もう少し泡立てて下さい」
「はい! 先生」
そのまま桜がハンドミキサーで泡立て続けていると、じっと観察していた洸が「ストップ」と声を掛ける。
「オッケ。ミキサーをちょっと上げてみて」
指示通り、桜がハンドミキサーを生地から10㎝ほど上げると、クリーム色の生地はもったりとゆっくり重力に従って下に落ちた。その生地の中に洸が温度計を再び入れる。
「泡だった目安の三つ目は、生地がこうやって一瞬ミキサーや泡立て器の金具の中にこもってからもったり落ちて、生地がリボン状に折れ重なる状態、かな。不安な場合は、生地に爪楊枝を1~2㎝くらい刺して、倒れなければ大丈夫」
説明しながら温度計を見ていた洸は「ミキサーはずして」と桜に指示し、温度計を生地から抜く。そして用意していたゴムヘラを桜に渡し、自分はふるっておいた小麦粉を再度ふるいの中に入れ、生地の上にまんべんなくふるいながら入れる。
「生地の混ぜ方なんだけど……」
「はい! 先生! 私知ってます!! 『さっくり混ぜる』だよね。お母さん、よく言ってたよ」
桜が挙手して、キラキラした目で洸に告げるが、洸は無情にも首を振る。
「ぶっぶー。残念でした、不正解。その混ぜ方は別立てのスポンジ生地の場合の混ぜ方です。共立ての場合は『オールをこぐように』混ぜます?」
「おーるをこぐ?? 生地の種類で混ぜ方が変わるの?」
「そう。別立ての場合は卵白をメレンゲにするから、生地の流動性が低い――洗顔の時に泡をふわふわに泡立てるだろ、あんなふうな水っぽくない生地だから、泡に小麦粉をまんべんなく行き渡らせる為に、切るように『さっくり』混ぜるんだ。でも、共立てはこの通り、もったりしているけど、別立てに比べて流動性は高くてさらさらしているから、ゴムべらをボートのオールのように立てて、水面をこぐように生地を押してやると、気泡が流れるように動いて、小麦粉が気泡と気泡の間に分散される。そして、この動きによって、小麦粉の中のタンパク質の一種である粘性の高いグルテンが適度に形成され、スポンジが綺麗に膨らむ下地が出来るというわけだ」
せっかく知っていた知識をあっさり否定され、がっくりする桜は、今度は力なく挙手して教えを請う。
「先生、ボートに乗ったことがないので『オールをこぐように』がさっぱりわかりません」
洸は桜から生地の入ったボールとゴムヘラをもらい、実演しながら説明する。
「ゴムヘラを垂直に立てて生地に入れて、そのままボールの側面まで生地を押す。そして手首を返し、ゴムヘラの面を水平にして生地から出す。そしてボールを少し手前に回転させて再びゴムヘラを垂直に立てて生地に入れる……。これをくり返すんだ。分かった?」
そういって、ボールとゴムべらを桜に返した。桜は顔をしかめ、今見た洸の動きを思い出しながら数回混ぜて、洸の顔を伺う。
「――こんな感じで良い、かな?」
「いいよ。そんな感じでしばらく混ぜてて」
洸の合格をもらい、ほっとしながら桜はそのまま生地をおっかなびっくり混ぜていたが、突然「あああああぁ!!」と叫ぶ。
「わ、私、混ぜる回数数えてなかった! レシピに40回混ぜるって書いてたよね」
絶望に彩られた桜の顔を見て、洸は思わず吹き出す。
「大丈夫だよ、オレが横で見てるし。あの回数はあくまで目安。別に数えなくてもいいよ」
洸の言葉に桜はほっと息をつくが、再び眉をひそめる。
「秋月君がいない時は数えた方が良いんだよね」
「自信がなければね。まあ、粉が見えなくなってから更に数回混ぜるって感じでいいと思うよ。一応、生地につやが出るまでとか状態の目安もあるけど、あんまり混ぜるとせっかく作った気泡が壊れるし、小麦粉のグルテンが過剰に形成され過ぎちゃって、粘りが出て膨らみの悪い固いスポンジになるから、気をつけて」
「は、はい!」
真剣な顔で生地を混ぜる桜を、洸は少し苦笑しなら見守っていた。
「はい、それぐらいでオッケ」
洸は桜にそう声を掛けながら、湯せんで使ったお湯に浮かべている溶かしたバターと牛乳が入った器を取り出す。
「ここからは更に手早くやるよ。昨日も言ったけど、油分は卵の気泡を壊す作用がある。バターを入れたらなるべく早く作業を進めて」
「はい」
緊張した面持ちで桜が返事をすると、洸は溶かしたバターと牛乳の入った器に生地をひとすくい入れ、よく混ぜるよう指示する。
「……どうして直接入れずにこんな方法をとるか聞いて良い?」
「直接入れるやり方もあるけど、こっちの方が初心者向けかなとオレが勝手に思ってるんだ。物質Aと物質Bを混ぜる際、両者の性質が近ければ近いほど混ざりやすくなる。こうやって少量の生地をまず混ぜることで、生地に近づけさせておけば、混ぜる回数や時間が少なくて済むんだ。じゃあ、こっちを生地本体に入れて、さっきと同じ要領で混ぜて」
「う、うん」
洸は桜が生地を混ぜている間に、紙を敷いた型をすぐ横に用意する。
「はい、それぐらいで良いよ。生地を型に流し入れて、ボールについた残りの生地はゴムべらでこそぎ取るけど、型の真ん中じゃなくて、はしっこに入れてね」
「理由は?」
「残った生地はどうしても気泡がつぶれて、膨らみが悪くなる。はしっこの方が火の通りが良いから、真ん中よりは膨らみやすいんだ」
桜がふむふむ頷きながら、指示通りに生地を流し込む。
「じゃあ、10㎝くらい型を持ち上げて落として」
「――これも、なんの意味があるの? ちょっと不思議な行動だよね」
「大きな気泡を壊して、泡を均一にするため。俺自身はやらなくてもいいかな、って気もするけどね」
桜が生地の入った型を軽く持ち上げ、かつんと落とすと、洸はガスオーブンの天板を持ってきた。
「ここに乗せて。あとは焼くだけだから」
桜が型を天板に乗せると、予熱で充分温められたガスオーブンの中に入れる。
「先生、レシピの質問です。レシピだと予熱が180℃なのに、実際焼く時は170℃になってました。どうしてなの?」
「家庭用オーブンだと小さいから、型を入れる時扉を開けるだけで中の温度が一気に下がるだろ。だから、あらかじめ予熱は高めに設定したんだ。ただ、オーブンによってクセがあるから、レシピの温度や時間はあくまで目安。オーブンによって全然変わってくるよ。ここのオーブンなんてガスオーブンだから、レシピ全然参考にならないしね。何回も焼いて、自分のオーブンのクセを知るのが一番かな」
「へええ~、そうなんだ」
「じゃあ、焼き上がるまで時間があるから、器具を洗おう」
「はい! 先生」