桜
花の頃になるといつもそわそわするくせに、けして花見には行かない。いつからそうなったのか、もう覚えていない。
桜の根元には、屍体が埋まっている。
そう読んだのは何だったか、そう言ったのは誰だったか—。
美しいだけでなく、儚い。そして妖しい。
一気呵成に咲き誇る姿は、ある種のもの狂おしさを連想させるのかもしれない。
その勢いの滋養に、根方に骸を抱えていたとしても、致し方あるまいて—
さてこの花に、人を焚べたのは誰かしらと納得するのがせいぜい—
「ある夜さ、桜の名所である墓所にオートバイで行ったんだよね。オフロード車にタンデムで。春先の空気って、あるじゃん?夜、全体が湿ってて、土中でなにもかもが蠢き出したっていうような、ぬるい空気。あれに侵されたような風になって、ふたりともシラフなのにテンション高くてさ。連れが曲乗りのようなことをはじめたわけよ。石段を昇ったり降りたり、トライアルのようなこと。トライアルってあれだよ、足着かずにすごい低速で、丸太とか渡っちゃうやつ。まあいいや。それでついに、前輪を高々と上げて(ウイリーね)、ベンチの上に乗ろうとしたわけ。ガっと前輪は掛かったけど、後輪がもうひとつのところで座面の縁にはじかれて、どういう案配だか、オートバイごとふっとんだ。それは見事に、宙をとんでいくのを、あたしは阿呆のように口を開けて、頭を傾げて追ってた。スピードが出てないから、グシャ、というようなコケ方で。
ざあっと急に桜が散って、巻き上げるような花びらの中で、連れはぼんやり地面に尻餅をついてた。ようやっと、自分もそっちに向かおうとしてゾっとした。吹っ飛んでいった先に棒杭のように消火栓があってさ。そこをめがけて落ちていたら、ほんの50センチずれて、背骨やら顔面やらから飛んでいった日には、今頃どうなっていたのかとね。同じことを考えたらしい連れは、硬直したまま座り込んでて。それを凍り付いたようになって見ていたら、そこへまた花びらがね、よくある絵のように渦を巻いて、吹き付けた。
よお、死に損ない。いっしょに洪笑が渦巻いてね。桜に引っ張られたような気がしたよ。」
そこでようやくYは猪口の冷や酒を飲み干した。花見でもするかね。そう言って誘い合ったはずなのに、いつもの地酒やで、いつもの田酒を飲みながらくだを巻いている。大酒飲みの耳元が、珍しくうっすら赭かった。
「花見じゃないのか。こんな地下に潜っちまってさ。」
穴蔵のような店内を見回して、Yはうすく笑った。危ないじゃない。花なんか見に行かないよ。こうして満開の様を思えば、それで十分。
「そうか。たしかに危ないな。」
夜桜の下になど行ったら—何をしでかすやら。柔らかく束ねた手首の抵抗を想像する。身を捩って、それから—
「何するかわかんないよ?」
「あ?お前が?」
こちらの妄想を見透かしたような言葉に意表をつかれた。そう、と澄ましてYは空の片口を覗き込んだ。片手を上げると馴染みの店員が素早く反応する。飲ん兵衛に呑ますことにかけては、この店に敵うところを俺は知らない。
にこやかに、無言の店主がカウンターを出て来た。黙って二合入りの新しい片口を置いていく。一枝、桜が添えられていた。
「へえ。粋なことするじゃん。」
Yは枝を取り上げて匂いを嗅ぐような仕草をし、香りがないから救われる、とぼそりと呟いた。それから一輪を取り、花びらをふたつの猪口に分けて落とした。
「乾杯。呑み込んでしまおう。桜に手を引かれたりしませんように。」
あいつとお前はいつ別れたんだっけ?あいつがラリーから戻らなかったのはいつだったっけ?ファラオラリー、たしかアフリカだ。カンパはしたが、俺は壮行会に行けなかった。春じゃない。夏休み前だ。前倒しの日程が詰まっていた。
帰り道の上水のほとりを、俺は思い浮かべていた。その先の小道にも、桜の古木が枝を広げている。それら道々の誘惑を思い浮かべて辿りながら、花びらごと一気に干した。桜を呑み込んだYは、ほんの一時、蕩けるような目を宙に向けた。それからすぐに、いつもの鋭い真顔に戻ったが、上水でキスしてやろう。俺はもうそれしか考えていなかった。
他のものを書いている傍ら、息抜きというか手慰みに…師走になったばかりなのに、なぜか桜の頃を思い出し、もの狂おしさを思い出し…