帰還不能
「これより!我が軍は進軍を開始する!目標は王都!」
「オギャー! オギャー!」
――え?何だ、今の。
赤ちゃんの泣き声……?
いや、違う。違う違う違う。
何でこんなに近いんだ。というか、耳の奥じゃなくて、もっと……内側から。
「……っ、ぁ……」
息を吸おうとした瞬間、喉の奥がひゅうっと鳴った。
肺に空気が入る感覚が、妙に浅い。苦しい。
視界はぼやけている。というか、ほとんど見えない。
光だけがやけに強くて、輪郭が全部、溶けているみたいだ。
そしてもう一度。
「オギャー! オギャー!」
――私だ。
今、泣いたのは。
は?ちょっと待ってくれ。
何がどうなってる。
身体に力が入らない。指先を動かそうとしても、反応が鈍いどころじゃない。
というか、腕が、短い。
え、短くないか?
いやいやいや。
落ち着け。状況を整理しろ。私はパニック耐性が低い方じゃない。
三十二歳、社会人十年目。職業はエンジニア。論理的思考は、むしろ得意分野だ。
最後の記憶は――
同期と久しぶりに会って、帰りの方向が同じだった。電車に一緒に乗った所まで。
そこまではいい。
問題は、その次だ。
電車が、脱線した。凄まじい衝撃音。
急停止の慣性で投げ出される身体。
何かに叩きつけられて、視界が反転して――
そこで、途切れている。
……いや。
記憶は、ある。
はっきりと残っている。
名前も、仕事も、年齢も。
家族構成も、住んでいたマンションの間取りも。
全部だ。
「ぁ……ぁ……」
なのに、声にならない。
喉から出てくるのは、意味のない音だけ。
嫌な予感が、背筋を這い上がる。
まさか。
流行りの――転生?
「――旦那様」
不意に、知らない言葉が聞こえた。
いや、音としては理解できる。
意味も、分かる。
だが、そんな言葉を使う知り合いに、心当たりはない。
「ご無事でございます。伯爵家の跡取りであらせられます」
視界の端に、人の影が映る。
私を抱き上げたらしい腕は、硬い布に包まれていた。
スーツではない。
もっと分厚く、装飾の多い――まるで、儀礼服のような。
胸元に、何かの紋章が刺繍されているのが見えた。
交差した二振りの剣と、その上に載せられた王冠。
伯爵家の紋章。
「ぁ……」
喉から漏れたのは、やはり意味のない音だけ。
ここは、日本じゃない。
いや――地球ですら、ない。




