チューニング・フォーク(改)
ある私鉄駅周辺商店街の裏通りに、その店はある。「チューニング・フォーク」――古びた木の看板には銀色の音叉の浮き彫りがあり、通りすがりの人にはただの半地下のバーにしか見えない。ドアを開けると、琥珀色の灯りがふわりと広がる。店主は背の高い初老の男で、白髪をオールバックにまとめ、声は低く柔らかい。「マスター」としか知られていない。
あるサラリーマン
その晩、客は一人だった。藤村は営業帰りのスーツ姿でカウンターに腰を下ろし、ネクタイを緩めた。
「何になさいます?」
「……何かカクテルが飲みたい」
マスターは微笑み、グラスを磨く手を止めた。
「あなたは今、もし別の道を選んでいたらどうなっていたか、知りたくはありませんか?…もしそうなら、特別のカクテルがございますが…。ホワット・イフといいます」
藤村は息を飲んだ。十年前、彼は恋人との結婚か、海外赴任かで迷い、結局赴任を選んだ。その結果、恋人は去り、仕事はそこそこ成功したが、心には穴が開いたままだった。
「……それ、飲むとどうなるんです?」
「別の選択をしたときの情景を見せてくれます。ほんの数分間だけ。あくまで空想です」
「麻薬の類なら、興味ない。普通のカクテルをいただく」
「ご安心ください。麻薬ではありません。ミックスした後、この音をカクテルに聞かせるだけです」
そう言って、マスターは後ろの棚に布にくるんで置いてあったものを見せた。それは、音叉だった。
「仮にあなたが、フォークのこちら側の道を選ばれたとします。この音を聴かされたカクテルは、反対側の情景を見せてくれるのです」
ばかばかしいことを、まじめに言うマスターの顔を見て、藤村は吹き出しそうになったが、開いていたカクテル・リストにホワット・イフがあるのを見て、試してみることにした。
マスターは、よくシェイクした琥珀色の液体をフロステッド・グラスに注ぎ、レモンピールの香りを加えた後、音叉を手に取りカウンターの角で軽く叩いた。音叉の軸をカウンターの天板に当てると澄んだ音が広がり、グラスにも伝わった。更に音叉をグラスの上で2度往復させて、布に包み音を止めた。そして藤村の前に差し出した。
「どうぞ」
彼は、グラスを目の高さまで持ち上げ見つめた。グラスの淵に残っている霜が溶けていく。そっと口をつけ、グラスを傾けた。
――気がつくと、そこは明るいリビングルームだった。
エプロン姿の彼女が笑いながらキッチンから顔を出し、小さな女の子が「パパ!」と駆け寄ってくる。壁には海外赴任の写真はない。代わりに家族旅行のスナップショットが飾られている。温もりが、胸を締めつける。
ふと、グラスの底が見えた。景色はゆらぎ、再びカウンターに座っていた。
「……戻ってきましたね」マスターが言う。
藤村は唇を噛んだ。「夢みたいだった」
「ええ、夢です。もう一方を選んでいれば起きる風景です」
店を出ると、夜風が冷たく頬を撫でた。藤村は空を仰ぎ、歩き出す。失ったものは戻らない。でも、これから選ぶ道はいくらでもある――そう思えた。
背後でチューニング・フォークの電飾が揺れた。
海外留学
その夜の店内は雨音に包まれていた。カウンターの端に座るのは、濡れた髪をハンカチで押さえている若い女性。革のショルダーバッグを隣のスツールに置き、しきりにスマホを見てはため息をついている。
「何にいたしましょう?」マスターが声をかけた。
女性は少し戸惑いながら、「……おすすめを」と答えた。
マスターはカウンター上の彼女の手をちらりと見た。左手の薬指には、外したばかりらしい指輪の跡が薄く残っている。
「もしかして、ホワット・イフを試してみたいですか?」
女性はハッとした顔をしたが、すぐに小さく笑った。
「そんなお酒、本当にあるんですか?」
「ございます。別の道を選んだときの情景を見せてくれます。あくまで空想。戻れるわけではありません」
「……それじゃあ、お願いします」
グラスには淡いブルーのカクテルが注がれた。氷がゆっくりと溶け、波紋のように色が変わっていく。そして音叉が軽やかに響く。
彼女はためらいながらも一口飲んだ。
――視界が切り替わる。
彼女は見知らぬ街角に立っていた。肩まで伸びた髪を風になびかせ、傍らには背の高い外国人男性が笑っている。二人はカメラを手に、異国の街を歩き、路地裏の小さなカフェでコーヒーを飲んで話している。
それは、三年前の海外留学の機会を、もしも選んでいれば起きたであろう情景だった。現実では、彼女はその時結婚を選び、そして今日その結婚が終わったのだった。
ブルーの色が淡く薄れていく。気づけば、またカウンターの前に座っていた。
「……あっちの世界の私は、すごく笑ってました」
彼女はつぶやく。
「ええ。けれど、こっちのあなたもまだ終わってはいません」
マスターは静かに言った。
「あなたが次に何を選ぶかで、また新しいホワット・イフが生まれます」
女性は小さくうなずき、残りの一口を飲み干した。店を出ると、雨は止んでいて、路面が街灯を映していた。その光の中を、彼女はイタリア製の靴をコツコツと音を立てて歩き出した。
家業
深夜零時を回った頃、重い靴音がチューニング・フォークの階段を下りてきた。扉が開くと、湿った夜気と共に、くたびれたコートの男が現れた。年の頃は五十代半ば、髪は乱れ、目の奥には眠れぬ夜を重ねた影がある。
「やってますか?」
「ええ、どうぞ」
マスターは手を止めずに答えた。
男はカウンターの中央に腰を下ろし、深く息を吐いた。
「……噂を聞いたんだけど、ここには後悔を見せてくれる酒があるって」
「後悔というより、“もしも”です」
「同じようなもんだろ」
男は苦笑し、ポケットから古びた写真を出した。若い男女が笑顔で写っている。
「三十年前、俺は彼女と一緒に東京へ行くはずだった。でも、あの日、父親が倒れてな……家業を継ぐしかなかった」
「…そうですか。そして、今は?」
「家はもう畳んだ。残ったのは、この写真だけだ」
マスターは静かにうなずき、カクテルをグラスに注ぎ、音叉を取り出した。澄んだ音が店内に広がった。
「では、ホワット・イフをどうぞ」
琥珀色にわずかな緑が混じった、不思議な色の液体がグラスの中で揺れている。男はためらいもなく飲み干した。
――目の前に若者が集まる街の夜が広がる。
彼女が隣で笑い、二人で安アパートの狭い部屋へ帰る。夢も貧しさも分け合い、何度も喧嘩しては仲直りする。年月が流れ、二人は小さな飲食店を開いていた。苦労は多いが、いつも肩を寄せ合っている。その光景の中で、男は自分の笑い声を聞いた。若い響きだった。
景色はやがて薄れ、カウンターの前に戻った。
「……馬鹿みたいに笑ってました、俺」
「それもあなたです」マスターは淡々と言う。「でも、こちらのあなたも、まだ終わっていません」
男は写真をポケットに戻し、立ち上がった。
「また来てもいいか」
「ええ、ホワット・イフは何杯でも作れます。ただし……」
「わかってる。戻れないんだろ」
そう言って、男は背を向けた。
扉の向こう、夜風が吹く路地を少し軽くなった靴音が遠ざかっていった。
人間関係
その夜、店の扉を押し開けたのは、三十代半ばの男だった。スーツは高級だが皺が寄り、革靴は汚れたままだ。落ち着きなく店内を見回し、低い声で言った。
「……ここ、”もしも”を見せてくれるって聞いたんですが」
マスターは軽くうなずき、腰かけるように促した。
「ええ、そういう効果があると言われる飲み物をお出ししてます。違法なものではありません。…ところで、どんな”もしも”なんですか?」
「五年前……あのとき、アイツを殴らずにいたら、どうなっていたかを」
「アイツ?」
「同期です。俺を裏切った奴。あの夜、酒に酔って、気がついたら病院送りにしていた」
男は笑ったが、目は笑っていなかった。
「もし殴らなければ、俺の人生はもっとマシだったはずだ…」
深紅に近い色のカクテルが注がれ、音叉が冷たい音を響かせた。
男は一口で飲み干した。
――場面が変わる。
そこは高級マンションの一室。スーツ姿の自分が、テーブル越しにワインを注いでいる。相手は、あの同期だ。笑顔で握手を交わし、二人で新しい会社の立ち上げを祝っている。未来は順調だ。二人で投資案件を次々と成功させ、金も地位も思いのまま……。
だが、その晩、同期が微笑みながら言った。
「あの晩俺を殴ると思ったけど、お前そうしなかったな。おかげで全部計画通りに運んだよ。この会社は俺のものだ。分かってるよな」
その言葉と同時に、視界が傾き、同期の笑顔が歪んでいく。
――カウンターに戻っていた。
男は大きく息を吐き、額の汗を拭った。
「……何だ、今のは」
「それも、“もしも”です」マスターの声は淡々としている。「良い結果とは限らないのです。選ばなかった道もまた、牙を持っていることもあります」
男は無言で立ち上がり、ふらつく足取りで店を出て行った。
刑事
その晩店の扉が開いたとき、マスターはグラスを磨いていた手を止め、ゆっくりと視線を上げた。入ってきたのは、背広の中年男。だがその眼差しは妙に鋭く、何かを探るように店内を一瞥した。
「……やっと見つけた」
男は低くつぶやき、マスターの方へ近づいてきた。
「あなたが、この店のマスターですね。私は警察官です」
懐から身分証を出して見せた。
「最近、ここのカクテルを飲んだ後、精神を病んだり事故に遭ったりする事例が発生している。あなたが何をしているのか、確かめに来ました」
マスターは微かに笑った。
「ホワット・イフのことですか?ええ、提供しています。せっかくですから、あなたも一杯いかがですか?店の奢りです」
「……私は捜査に来たんだ。勤務中には飲まない――」
「あなた、十年前に起きた立てこもり事件の刑事さんですよね」
刑事の表情が固まった。
「あなたはあの時発砲をためらい、犯人が人質を殺した。もし撃っていれば、救えた命があった…。そう思っていませんか?」
黒に近い濃紺の液体がグラスに満たされ、音叉が澄んだ音を放った。マスターはそのグラスを刑事の前に置いた。
「あなたは”もしも”を知りたくないですか?」
刑事は、しばらくグラスを睨んだ後、震える手でそれを取って口に含み飲み下した。
――場面が変わる。
十年前のあの日、銃声が響く。犯人は倒れ、人質は泣きながら抱き合っている。その後、刑事は英雄と呼ばれ、昇進し、家族との生活も順調に見えた。だが数年後、新聞の一面に彼の顔が載る。「警察幹部、汚職で逮捕」。英雄としての評判と警察での地位に得意になり、裏社会と繋がってしまったのだ。家族は離散し、かつて救ったはずの人質の女性は、彼の汚職を暴こうとして事故死していた。
景色が崩れ、再びカウンターに戻る。刑事は顔色を失い、椅子から立ち上がれずにいる。
「……これは何だ……こんなはずじゃ……」
「選ばなかった道は、必ずしも幸福ではありません。それを知ることは、時には自分の一面を知ることにもなるのです」
マスターの瞳は冷たく光った。
「これがこのカクテルの効果です。違法薬物は使っていません。どう報告されますか?」
刑事は、どうにか立ち上がり、震えながら店を出ていった。
店から離れられない運命のマスターは、今夜もグラスを磨いている。
チューニング・フォークの由来
26歳のマスターは、港町のカクテルバーでバーテンダーをしていた。ある夕暮れ時、体格がよい中年男性が来店し、外見に似合わず赤くて爽やかなスウェーデンのカクテル「ヴァリータス」を注文した。マスターの師匠である店主は、コケモモのジュースがたまたまあったので、それを使って「ヴァリータス」を作り提供した。それを飲み終えた男性は、今度はフィンランドの「ロンケロ」やデンマークの蒸留酒「アクアビット」をベースにしたカクテル(後の「コペンハーゲン」)など北欧のカクテルを次々に飲んだ。一息ついた彼は、話し始めた。
男性は欧州帰りで、蚤の市で入手した物があるという。それは、表面に細かな模様が彫られた音叉で、それにはルーン文字で書かれた羊皮紙のノートが添えられていた。好奇心に駆られた彼は、それを衝動買いしてしまった。帰国後、彼は3ヶ月かけてノートの文章を翻訳したところ、それはカクテルのレシピだった。奇妙だったのは、最後にその音叉の音をカクテルに聞かせる、と書かれていたことだ。彼は、材料や道具を揃えて自分で作るより専門家に頼もうと考えた。そして何軒ものバーで断られた後、ここに来たと言う。
黙って聞いていた師匠は、男性にその音叉とルーン文字のノートと翻訳を今見ることができるか尋ねた。男は、「今ここにある」と言い、鞄から取り出しカウンターの上に置いた。師匠は一つずつ手に取って観察し、翻訳に目を通し、幾つか質問した後に言った。
「このレシピのカクテルを作って欲しいのですか?」
「可能なら是非お願いしたい」
「分かりました。やってみましょう。ただ材料の準備に数日必要です。翻訳は、それまでお借りします。不明点を確かめたいときに連絡できる電話番号も教えてください。1週間後にまた御出でください」
男性は満面の笑みで言った。
「どうも有難う。私の酔狂に付き合わせてしまって申し訳ない。勿論、材料代や手間賃はお支払いします」
「開店前に来られますか?たとえば3時頃」
「はい、大丈夫です。では、1週間後午後3時にまた来ます。宜しくお願いします」
そう言って、体格がよい男性は名刺を師匠に渡し、頭を下げて出ていった。名刺には、太田という名前が印刷されていた。
一週間後、師匠は、ノートに記されていた何種類かのカクテルを昼までに作り終えていた。音叉はないので、音を聞かせる部分は試していない。
午後3時ちょうどに太田は現れた。目を輝かせてカウンター席に腰かけた彼の前に、師匠は用意してあったカクテルを冷蔵庫から出して並べた。選んでもらうためだ。気に入ったものを新たにミックスし直して音叉を鳴らすのだ。男性は嬉しそうに全部のカクテルを見回した後、一口ずつ味見した。この時点では太田に何も変化はなかった。彼は琥珀色のカクテルを選んだ。
師匠は、太田が示したカクテルを新しくシェイクして、そのグラスだけをカウンターに残した。太田から音叉を受け取りカウンターの角に軽く当てて発音させた。音叉を立てて軸をカウンターの天板に当てると、透き通った音が広がりグラスにも伝わった。そして音叉をグラスの上で2度往復させてた後音を止め、グラスを太田に差し出した。
彼は、グラスを恭しく持ち上げ、口に含み飲み込んだ。……そしてゆっくり目を閉じた。グラスを持つ手がゆっくりとカウンターまで下がり、太田の目はREM睡眠のときの様に、目蓋の下で動く。なかなか目を開けない。やっと我に返った彼は、思い出したように深く呼吸して言った。
「……そうだったのか」
「どうしたんです?」師匠は尋ねる。
「私は親の病院を継がず、音楽家になったんです。代わりに弟が継いで今地域医療に貢献しています。これを飲んだら、もしも私が病院を継いでいたらどうなっていたかが見えました。そこでは、院内感染と手術ミスが重なり閉院になっていました。弟は注意深いけど、今後それが起きないとは言えない…。伝えてやりたいと思います」
師匠は何も言わない。太田は続ける。
「どうもありがとう。たいへんお手数をかけました。これで足りるでしょうか?」と言って、太田は一万円札数枚をカウンターに置いた。
「十分です」と言って、師匠はノートの翻訳と音叉を太田に返そうとした。ところが、太田は予想外のことを言った。
「構わなければ、音叉とノートを預かっていただけないでしょうか。実はノートには、翻訳していない最後の1ページがあったんです。そこには、カクテルは、過去の決断で実行しなかったもう一方を見せてくれるとありました。今日それが確かめられました。…私は、カクテル作りは得意じゃないので、宝の持ち腐れになってしまいます」
黙って聞いていた師匠は、太田の言葉をまだ信じていない様子で答えた。
「なるほど、不思議な話ですね。まあ、カクテルの成分が音の影響でどう変化するのか興味があるので、お預かりしてもいいですよ。それから、もし希望する人がいたら、このカクテルを提供してもいいですか?」
「勿論です」
こうして、師匠はその音叉と羊皮紙に書かれたルーン文字のノートとその翻訳を保管することになった。
師匠の変化
師匠は、そのカクテルを他人に出す前に自分で飲んでみることにした。幾つかの種類から一つを選び、ミックスして音叉の音を聞かせて飲んだ。
師匠は若いころ有名ホテルでバーテンダーとして修行を積んでいた。ベテランになったころ、海外リゾートにあるホテルへの支配人としての異動がオファーされた。悩んだ末、異動は辞退し、自分の店を持つことに決めたのだった。今でもときどき「ホワット・イフ」を想像してみることがあったので、もしこのカクテルの効能が本当なら、是非試してみたかった。
師匠がカクテルに音を聞かせて飲んでみると、視界が切り変わった。リゾートホテルでの支配人として働いている光景が見える。業務は忙しいが遣り甲斐があった。しかし、世界的パンデミックが襲うと守り切れず、結局彼のホテルは閉鎖される。旅行が規制される中、何か月もそこに留まらなければならず、精神的に不安定になっていく。そんなとき、その土地の女性と知り合い、家庭を築き、子供と過ごす幸せな生活が見えた。
カクテルの効能を確かめた師匠は、初めは親しい人にだけにそれを話し、興味がある人にはカクテルを提供した。そのうちに、噂を聞いた人が、飲んでみたいと来店するようになる。違法なことをしている訳ではないので、値段をつけて「ホワット・イフ」としてメニューに載せた。店名も音叉を意味する「チューニング・フォーク」へ変えたのだった。
ホワット・イフを作り続けると、彼はあることに気付いた。お客が来店すると、誰が「ホワット・イフ」を注文するかが分かるようになった。そして、どの種類のカクテルがその客に相応しいかも分かるようになった。その上、客が見る情景までも見えるようになってしまった。それは、他人の人生を覗き見るようで、師匠には徐々に負担になっていった。
重荷に耐えられなくなった師匠は、ついに「ホワット・イフ」をメニューから外し、音叉をワインセラーの奥にしまい込んでしまった。他人の人生を覗かなくなってホッとしたが、今度はこの音叉の音が耳鳴りのようにいつも聞こえるようになった。本来ならヒーリーング効果がある周波数の音だが、止むことなく鳴り続くと、やり切れないノイズになってしまう。耳鼻科や脳神経内科へ通ったが、耳鳴りは続いた。(「ホワット・イフ」をまた提供すれば、耳鳴りは止まるのだろうか?)と思って提供してみると、確かに耳鳴りは止んだ。並行して他人の人生を覗くこを生業としているカウンセラーや臨床心理士のアドバイスも受けてみた。しかし、結局辿り着いたのは、「ホワット・イフ」を自分ではなく、他のバーテンダーに作ってもらうことだった。それが今のマスターだった。師匠は、自分に現れた症状を隠すことなくマスターに伝え、それでも引き受けてくれるのなら、店をマスターに譲渡しようと申し出た。
マスターは、これまで師匠が「ホワット・イフ」カクテルを提供している場面やお客の反応を目撃してきた。師匠の経験や悩みを聞き、自身の気性や興味などを冷静に思い巡らせた後、彼は店を引き継ぐことに決めたのだった。マスターは、基本的に人間が好きだったのと、限度がある個人的経験に加え他者の経験を知ることが出来ることが、彼を引き付けた。それに、師匠が遣り掛けの、音に対するカクテル成分の反応の研究も続けたかった。
そして、今夜もマスターは、グラスを磨いている。引退した師匠は、海外のリゾート地へ行ったらしい。便りはない。
<終わり>