契約
俺は今、会長室の前に立っていた。
重厚な木の扉。深い茶の塗装に金色の取っ手――まるで威圧するような存在感がある。
息を整えていると、隣にいた鷹森さんが二度、コンコンとノックをした。
「失礼します」
ドアが静かに開く。
「おお、御影さん。全部、カメラで見させてもらったよ」
中にいたのは、白髪混じりの紳士。
分厚いデスクには書類が山のように積まれており、その合間に置かれたコーヒーの湯気がゆらめいていた。
「ありがとうございます」
俺は軽く頭を下げて席に着く。
「仕事中でしたか?」
「ええ、まあね。だが、それよりも――御影さん、あなたの力は途轍もない」
「……色々、壊しちゃってすみません」
「ははは。構いませんよ。すべて想定の範囲内です」
会長は穏やかに笑うが、その目は鋭かった。
「さて――御影さん。試験はすべて合格です。これで正式に、あなたはハンター協会認可のZ級ハンターとなります」
「そうですか」
一瞬の静寂。
会長が手元の書類をめくりながら、ふと顔を上げた。
「……ところで、一つだけ気になることがある」
「なんでしょう?」
「この契約書、あなたの“名前欄”が空白のままなんですよ」
机の上に差し出された紙。
確かに、署名欄は空白だった。
「いくつかお願いがあるんです。直接話してもいいですか?」
「もちろん。我々にできることがあるのなら、何でも」
「まず一つ。家族の安全を守ってほしい。
今、家族が住んでいる場所に警備を回してもらえませんか?」
「わかりました。巡回中の警察に連携を取り、万が一があれば即座にハンターを派遣します」
「ありがとうございます。
それと――俺に新しい家を紹介してもらえませんか。
そこは家族にも、誰にも知られないようにしてほしいんです」
「承知しました」
「あと、マスコミに名前は出さないでください」
「理由を伺っても?」
俺は少しだけ目を伏せた。
「穏やかに生きたいんです。
力を持ったと知られれば、友人も、日常も失うかもしれない。
……会長、人間の脅威って何だと思いますか?」
「それは――モンスター、でしょう?」
「そう。けど、ゲートの発生が止まり、モンスターが消えたとき――
人間にとっての最大の脅威は、“ハンター”になります」
会長は黙って聞いていた。
俺は静かに続けた。
「だから俺の存在は、世間に知られないようにしてほしい。
マスコミにもネットにも、情報は出さないでください」
「わかりました。全力で対応します」
「ありがとうございます。
それと……通常のゲート出現や小規模な事件では、俺を呼ばないでください」
「情報漏洩を防ぐため、ですか?」
「それもあります。でも――俺は、人間とは戦いたくない。
それに、俺のエーテルは底が見えない。
もし感情が暴走すれば、何が起きるか分からないんです」
「御影さんほどの制御力があれば大丈夫では?」
「“絶対”はありません。俺の感情が、エーテルに直結しているんです」
「……そうですか。理解しました」
「最後に一つだけ、覚えておいてほしいことがあります」
「なんでしょう?」
「俺がホロウレインと戦ったとき――奴は言っていました。
“人間と共存したいモンスターもいる”と。
どうか、その存在を忘れないでください」
「……善処しましょう」
会長はゆっくりと頷いた。
「では、改めて。ハンター協会は正式に、御影さんを迎えます」
「はい。よろしくお願いします」
そう言って立ち上がり、部屋を後にした――が、ドアの前でふと思い出した。
「会長、ひとつだけ」
「うん?」
「ホロウレインは、俺と戦う前に“別の人間”と戦ったと言ってました」
「……なんだって?」
会長と鷹森が同時に目を見開いた。
「ホロウレイン曰く、その相手は自分と同等――いや、それ以上の力を持っていたと」
「そんな情報は……いや、少なくとも私の耳には届いていない」
「未確認、ということですね」
「ええ。だが、すぐに調べさせましょう」
「お願いします」
俺は一礼して、部屋を出た。
夜の六本木の空気は、冷たく澄んでいた。
ビルを出た途端、スマホに通知が届く。
『家が見つかり次第、連絡します』
「……ありがとう」
俺は小さく呟き、画面を閉じた。
そして、夜風に吹かれながら歩き出した。




