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86伝説エーペックス[POWER!!!]  作者: SAI
第2シリーズ 86伝説再び!!!!相馬編
83/341

第77話R 先生

話は、今から三年前に遡る。


矢田原ケイ、十三歳。

伊藤翔太、十二歳。

安坂中学一年生。


矢田原ケイは、文章を読むことすら困難で、こんしゃくを起こしていた。


カナタ「……漢字?数字?そんなの……

読めないよ……!うわああああん!!!!!」


泣き弱さで机をガンガン叩き、胸の奥から苦しい気持ちが溢れ出してくる。

そこにそっと手を差し出したのが、古賀加奈子先生だった。


古賀「……どうしたの?」


カナタ「……全くわからないんだ……

自分なんて……何ももう……読めないんだー」


古賀先生がポケットから出したのは、一枚の古い紙切れだった。

それは、古賀先生本人が幼い頃に描いた落書きで、ぐちゃぐちゃの文字のような、

何が何だかわからない線で構成されている。


古賀「カナタくん……わからないことあるよね?

ずっと探しても見つからないことだって、きっとあるんだよ。

だからね、夢中になれるものがあるといいよね?」


その声が、不思議とカナタの胸に染みていく。


そして古賀先生が連れてきたのが、幼い伊藤翔太だった。

金髪の髪型がこの頃からよく似合う伊藤は、とても悲観的で、やや下を向きながら

「ガラガラ」と教室のドアを開けて入ってきた。


伊藤「……どうも」


そう言いながら、伊藤はカナタに手を差し伸べる。


伊藤「あのさ……見つけよう。楽しいことを」


そこから、三人の“楽しいこと探し”の旅が始まった。

温泉に行ったり、いろんな行事をふざけ合いながらやったり、

いろんなことが思い出に積もっていく。


カナタの笑顔も少しずつ増えていった。

伊藤はまだ心を開ききれなかったが、

それでも三人でたくさんの大切な時間を共有できた。


それでもカナタは、車が大嫌いだった。


あの頃の思い出。

しかし中学三年になる頃、伊藤は急に忙しくなる。

高校受験の準備期間だった。


伊藤「わりぃ……」


カナタ「え?」


あの頃とは、もう全く違う。


今は二人とも、本気でぶつかり合って遊びまくる気持ちで全開だ。


古賀「カナタくん、伊藤くん……少し散歩にいこうか?

音という名の……気分転換だよ」


古賀先生が教室の窓をちらりと見上げる。

どこか覚悟を決めたような横顔だった。

ケイも伊藤も、何が始まるのかわからないまま立ち上がる。


中庭へ続く扉を抜ける。

昼の光が白く揺れて、校舎の影が長く伸びている。


その時だ。


駐車場の奥。

赤いボディが空気を切り裂くように沈黙していた。


BMW M3 E46。

切り詰められた鼻先、鋭いヘッドライト、低く構えた姿勢。

赤というより、燃えさしみたいな深い朱色が光を呑んでいる。


カナタ「……これ……先生の?」


古賀は少し照れたように微笑む。

けれどその瞳は、彼女が教師である前に“ひとりの走り手”だったことを物語っていた。


古賀「そうだよ。

昔から、この子にはね……ちょっとだけ助けられてきたんだ」


伊藤は息を呑む。

車が怖いカナタだけが一歩後ずさる。

M3が放つ静かな圧が、カナタの胸の奥の苦しさに触れたようだった。


古賀「ねぇカナタくん。

音って、不思議なんだよ。

怖さも、苦しさも、ぜんぶ洗ってくれるときがあるの」


古賀は運転席にそっと手を触れる。

金属が昼の光を返し、赤いボディの輪郭がゆらぎ始める。


古賀「ちょっとだけ……聴いてみない?」


カナタの喉がごくりと鳴る。

逃げたい気持ちと、先生への信頼がせめぎ合う。


伊藤は、優しく肩を叩く。


伊藤「大丈夫。俺もいるから」


カナタの心に、少しだけ風が通った。


古賀は運転席へまわり、ドアを開けた。

革のこすれる柔らかな音が、なぜか遠くまで届いたように感じられた。


カナタと伊藤は、ただ見つめるしかなかった。

先生が乗り込むその姿は、授業中に見る“古賀先生”とはまるで違う。

緊張をまとい、静かな熱を放つ走り手の顔だった。


古賀は深く息を吸い込み、キーを挿す。

一瞬の静寂。


風さえ止まったように感じられた。


古賀「……いくよ。

この子の“声”……聴かせてあげる」


キーがひねられる。


次の瞬間、

赤い車体の奥底で、眠っていた獣が息を吹き返したような震えが走った。


ドゥルル……ッ!

ブゥン……ッ!!

ブワアアアアン!!!


低く重たい、しかしどこか艶のある音が、地面を這うように鳴り響く。

空気が押し広げられ、胸の奥が震える。

鼓動が、エンジンの鼓動に食われていくようだった。


カナタ「……っ……!」


耳ではなく、

身体そのものが音に掴まれて揺さぶられる。


怖い。

けれど、逃げ出したいほどじゃない。

胸の奥のざわつきが、少しだけ違う色に変わる。


古賀はアクセルを軽く煽った。


ブワンッ!!!

タコメーターの針が鋭く跳ね上がる。


伊藤「……すげぇ……」


古賀は車内から、ふたりをまっすぐ見た。


古賀「ね?

音って、ただの騒音じゃないんだよ。

誰かの背中を押す“力”にもなる」


M3がゆっくりアイドリングしながら、

赤い影が陽炎のように揺れた。


カナタは胸に手を当てる。

ずっと嫌いだった車の音が、

なぜか、泣きたくなるほど温かく聞こえた。


M3は山道を抜け、静かに展望台の駐車スペースへ滑り込んだ。

エンジンが止まり、余韻だけが胸の奥に残る。


古賀が運転席から降りて、ふたりに微笑む。


古賀「さあ……降りてごらん。

ここ、私が昔よく来た場所なんだ」


カナタと伊藤は車から降り、展望台の手すりへ歩いていく。

風が高い場所ならではの澄んだ冷たさで頬を撫でた。


そして視界がひらけた瞬間。


カナタ「……うわー……

綺麗!」


山の稜線がいくつも重なり合い、

その奥で町の光が小さく瞬いている。

白い雲が遅い速度で流れ、

空の青は午後の光を柔らかく抱いていた。


伊藤「こんな場所……初めてだな」


カナタはしばらく言葉を失ったまま、景色を見つめた。

胸の奥で固まっていた苦しさが、

さっきのエンジン音と一緒に、どこかへ溶けていった気がした。


古賀はふたりの背後に立ち、

静かに空と同じ方向を眺めた。


古賀「カナタくん。

読めないことがあったっていいんだよ。

景色だって、人だって……全部“読む”必要なんてないの」


カナタは横顔を上げ、古賀の声を聞く。


古賀「ただね。

君が立ってる場所から、綺麗だって思えたら……

それだけで十分だよ」


風が三人の間をすり抜けていく。

M3の赤が夕陽を受けてゆらりと光り、

それがまた新しい記憶になっていく。


伊藤がぽつりとつぶやく。


伊藤「……また来たいな。

三人でさ」


カナタの胸の奥に、柔らかい灯がともった。


カナタ「うん……来たい。

また絶対来たい……!」


あの日をきっかけに、

カナタの世界はゆっくりと色を取り戻していった。


本当なら、家に帰ればまた沈むだけの日々だった。

母は怒鳴り、叩き、

何かにつけてカナタを責めた。


帰る家なのに、

どこにも帰れないような毎日だった。


だけど。


古賀先生は、

その暗闇の隙間に、ひとつひとつ灯りを置くように

カナタをいろんな場所へ連れ出してくれた。


水族館。

青い水の向こうで、魚たちがふわりと揺れる世界。


古賀「ほら、あれ。カナタくんに似てるよ。

自由気ままに泳いでる」


カナタ「え、どれ!?

あ、クラゲ!?俺クラゲなの!?」


伊藤「……まぁ、揺れてる感じは似てるな」


三人の笑い声が、水の反響に混ざって静かに広がった。


峠道。

夕暮れの風が頬をなぞり、M3の赤が山の影を切り裂いて走る。


古賀「怖かったら言ってね?

無理はしないよ」


カナタ「……ううん。

大丈夫……なんか、空を走ってるみたいだ」


伊藤は黙って外を見ていたけれど、

その横顔はどこか誇らしげだった。


おもちゃ屋さん。

大きな箱、小さな箱。

迷路みたいな店内で、カナタは子どもの頃に戻れた。


古賀「好きなのひとつ選んでいいよ」


カナタ「え……?

でも……そんなの……」


古賀「いいの。

選ぶ練習だよ。

“欲しい”って思うこと、大切だからね」


カナタは震える手で、小さなミニカーを取った。

赤い車だった。

先生のM3に似ているやつ。


そして――国内旅行。


海の音しか聞こえない宿。

知らない街の光。

食べたことのない料理。

ぜんぶが、胸をきゅうっと満たす“初めて”だった。


古賀「カナタくん。

景色ってね、心を洗うんだよ」


カナタ「……うん。

先生と来ると……いつも……胸が軽くなる……」


伊藤「なんだよ、素直だな今日は」


カナタ「う、うるさい!」


でもその日、空気は終始あたたかかった。


家には救いがなかったはずなのに、

先生と一緒にいる時間が、

カナタの“別の人生”を少しずつ作り始めていた。


古賀先生がくれたのは、

ただの外出や旅行じゃない。


ひどく壊れた心に、

ひとつずつ“生きていい理由”を置いていってくれた時間だった。


古賀は展望台の手すりにそっと手を置き、

遠くの光を見ながら、小さく息を吐いた。


古賀「……カナタくんや伊藤くんが、羨ましいよ……」


その声は、さっきまでの明るさとは違っていた。

柔らかく、それでいてどこか痛い色をしていた。


伊藤「え……先生が俺らを羨ましいって……

どういう……?」


古賀はゆっくり二人の方を向く。


古賀「私ね……昔、大切な友達がいたの。

とてもポジティブで、どんな時も前を向いて走る子だった。

私なんかよりずっと強くて……時々、ついていけなかったくらい」


言葉の端々が、懐かしさと寂しさをひっそり混ぜていた。


古賀「その子ね……86に乗ってたの。

私と同じ車じゃないけれど、

どこか魂を込められたような、不思議な“生きた音”を持っていてね……」


カナタと伊藤は息を呑む。


古賀「みんなから“赤い戦闘機のお祭り娘”なんて呼ばれてた。

走る時はまるで空を飛ぶみたいで……笑ってる時はもっと眩しくて……」


喋りながら、古賀の目が少し潤む。


古賀「……ごめんね。

ちょっと懐かしくなっちゃって……」


沈黙。

山の風だけが、静かに三人を撫でる。


カナタはゆっくり口を開いた。


カナタ「……赤い戦闘機……?」


古賀は微笑んだ。

まるでその言葉を待っていたような表情で。


古賀「うん。

空みたいに走る子だったよ。

そしてね……その“走る姿”に救われていたのは……たぶん私の方だったんだ」


伊藤「……先生……」


古賀「だからね……

カナタくんが車を怖がってた時、

どうしても放っておけなかったんだと思う」


風が、古賀の髪をそっと揺らす。


古賀「昔……救われたみたいに。

今度は私が誰かを……って思ったのかもしれないね」


カナタの胸が、熱くなった。

ここに立つ三人の間に、

言葉にはできない何かが静かに灯っていく。


古賀は、遠くを見ながらゆっくり笑った。

その笑みには、ただの思い出話ではない重さが潜んでいた。


古賀「その友達……ほんとにね、いつも危ないことばっかりしててさ……」


風に乗るように、先生の声が柔らかく流れていく。


古賀「走り方も生き方も、全部が全開で、

止まるってことを知らない子だったんだよ。

見ててハラハラすることばっかりで……」


その口調は明るい。

けれど、胸の奥でぎゅっと抑え込んでいる感情が透けて見える。


古賀「いいことなんだよ?

あの子にとっては“大切な走り方”なんだって、私もわかってた。

でも……あまりにもまっすぐで……あまりにも速すぎて……

私、いつも止めてたんだ〜……」


笑いながら言うのに、

どこか声がかすれていた。


カナタは、その優しい痛みに気づいて息を呑む。


伊藤は黙って先生の横顔を見つめる。


古賀「止めるたびに怒られて……

“古賀は心配性だな〜!”って笑われて……

でもね、それでも私は止めたかったんだよ。

だって……怖かったから」


遠い空を見る目が、少しだけ揺れた。


古賀「その子の背中が……

あまりにも遠くて。

あまりにも輝いてて。

どこかへ行ってしまいそうで……」


風が展望台を抜け、

古賀の声をそっとさらう。


古賀「私ね……

その子の無茶を止めるたびに、

“置いていかれたくない”って思ってたのかもしれない」


カナタ「……古賀先生……」


古賀は振り返り、穏やかな笑みを作る。


古賀「だからね、カナタくん。

君の“危ないところ”や“不安なところ”を見るとね……つい止めちゃうの。

あの子の時と……少し、重なるから」


カナタの胸に、

じんわりとした温かさが広がる。


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