芦ノ湖編第48話 永遠に
通算257話
花「どうするの、この先……伊藤くんのスイスポ……」
彼女はスイフトのフロントバンパーに手を添え、心配そうに見つめている。
伊藤「……ブースト圧、変えてみようかなって……」
曇った空を見上げるように、伊藤はつぶやいた。
伊藤「いまは0.9だけど……あと0.1〜0.15ぐらい……上げてみてもいいかも」
花「それって……エンジンに負担、かかるんじゃないの……?」
花の声は、しおらしくも少し不安げ。
そのまま、フードの袖をぎゅっと握っていた。
伊藤「もちろん、その分燃調と冷却系もいじるよ。インタークーラーも少し大きいのに交換する予定だし……」
「でも、まだギリギリまで出しきれてない感じがするんだ。スイスポも、オレ自身も……」
花は少し目を伏せると、ぽつりとつぶやいた。
花「……無理は、しないでね……」
伊藤「……うん」
伊藤は優しく笑った。
そして、彼女の視線の先、黄色いスイフトを見つめながら口を開く。
伊藤「……こいつと、もう少し先まで行ってみたいんだ。あとちょっとだけ、速くなれる気がするんだよ」
花「……あとちょっとが、きっと大事なんだね……」
スイフトのボンネットに映る、ふたりの姿。
その輪郭は、朝の光の中でそっと溶けていった。
伊藤「それに……288と、今回の試合でよく分かったことがある……」
彼はゆっくりと、スイフトのルーフに手を当てながら語った。
伊藤「ノーマルのスイスポじゃ……これから来るライバルたちのドライビングには、もうついていけないんだ……いや……正直、すでに置いていかれてる……」
花は少し驚いたように顔を上げる。
花「それって……」
伊藤「ああ……松島戦の次のレース……米沢では――」
彼はふっと目を細め、遠くの空を見つめた。
伊藤「……300馬力のスイスポを作る必要がある……!」
その目に宿るのは、悔しさでも焦りでもない。
まっすぐな意志と、未来への覚悟だった。
伊藤「必ずや米沢で……カナタも、相川も、黒川も……あそこで捉えてみせる……!」
そう言って彼は、朝焼けの空へと手を掲げた。
──風がそっと吹き抜ける中――
伊藤はその手を、ぎゅっと握りしめた。
花は俯き加減に彼の横顔を見つめていた。
その身体からは、桜のように優しく甘い……でもどこか芯のある、強い香りがふわりと漂っていた。
──まるで春の嵐が過ぎ去ったあとの、静かな夜明けに咲く一輪の花のように。
花「……がんばってね、伊藤くん……」
「私、応援してるから……」
その声はとても静かで、しおらしく――
でも、確かに彼の胸の奥に届いた。
伊藤「ああ……ありがとう、花……」
その瞬間、彼の頬をなでるように風が吹く。
花の長い髪がなびき、その香りが再び、彼の心を包み込んだ。
伊藤はただ、前を向いて言った。
伊藤「負けないよ……絶対に、もう……」
朝の郡山サーキット。
陽が差し込む中、二人はスイスポの前に立っていた。
花「ずっと見てるよ、、、伊藤くんのこと、、、、、、」
彼女の言葉は、そっと心に染みわたるようだった。
まるで春の桜が静かに咲き始めるように。
伊藤は深く息を吸って、スイスポのボンネットを見上げる。
伊藤「まずは1ヶ月後の松島戦だ、、、、、、」
「総距離144キロのラインレースだからな、、、、、、」
「俺たちのマシンが、どこまで通用するのか……本当の意味で試される、、、」
彼の瞳は、確かに前を見ていた。
重なるように、隣の花も静かに頷く。
花「……一緒に、がんばろ?」
伊藤「ああ……絶対に、負けない」
──空は青く、ただ静かに流れていた。
春を迎えるように、二人の時間もまた、確かに動き始めていた。
──昼下がりのヤマブキモーターズ。
小さなチャイムが鳴ると、ドアがガラガラと開く。
その奥、レジカウンターには二人の少女が立っていた。
花「いらっしゃいませ〜……って、あれ、もう帰ってたんだ」
花は制服のエプロン姿で、慣れた手つきで品物をスキャンしている。
その隣、もうひとりの少女が静かに立っていた。
草の色をした髪、淡い瞳。制服の袖口から見える手先が器用に動くが、彼女は何も喋らない。
──芽衣。山吹芽衣。
花の妹であり、店のもうひとりのレジ係。
その身からは、まるで若葉を撫でる風のような──草の薫風の香りが、ふわりと漂っていた。
──無言のまま、お客の差し出したおにぎりと缶コーヒーを静かに袋へ入れる。
どこか眠たそうにも見えるその瞳が、ほんの少し細くなる。笑ったのかもしれない。
花「ねぇ、芽衣。さっきイヨちゃんのGRスープラ、裏のガレージに停まってたよ。……あの子、また何か企んでんじゃないの〜?」
芽衣は返事をしない。
ただ、小さくこくりと頷いた。
それだけなのに、なぜか伝わる。
この静けさも、ヤマブキモーターズの日常の一部。
草の風が、レジのあたりを優しく通り抜けていった。
ヤマブキモーターズのレジ奥、店の隅に差し込む午後の陽光。
花と芽衣、姉妹の姿が柔らかな空気の中に溶け込むように佇んでいた。
花「そういえば、、次回から芽衣も、、、、」
芽衣はそっと視線を花に向けた。
その瞳は静かで、まっすぐで、揺るぎがない。
芽衣「うん、次回から本格的にレースに参戦する。松島戦から、、、」
「三陸の時は借り物だったけど、、、今回からちゃんと自分ので出られる、、、、」
そう言った彼女の声には、いつもの無口な印象とは裏腹に、芯の強さが滲んでいた。
ポツリ、ポツリと話す芽衣の言葉が、草の香りとともに空気に染み込んでいく。
その表情はどこか嬉しそうで、少し照れているようにも見えた。
花「ポルシェ992、、、これは速いよ、、、」
花は腕を組んで、少しだけ目を細めた。
姉としての誇らしさと、ライバルとしての緊張が同居していた。
花「GT3RSベースでしょ?フルカーボンボディ、ダウンフォースモリモリ、シーケンシャルスイッチも搭載済み……」
「本気で行く気だね、、、芽衣」
芽衣「うん、、、、本気で行く、、、花にだけは、、負けたくないから、、、、」
淡々と、けれど力強く芽衣が呟いた。
その瞬間、彼女の周囲の空気がそよ風のように一変する。
草の薫風。春先の草原を思わせるような清涼な香りがふわりと店内を満たす。
花「ふふっ、、、、いいじゃん、、やってみなよ、、、、!」
花は口元をほころばせた。
芽衣の挑戦を喜びながらも、どこかで戦いの予感にわずかに胸を高鳴らせていた。
静かな芽衣が、とうとうその牙をむくのだ。
しかも、ポルシェで。
芽衣「ちゃんと、、勝ちに行く、、、覚悟はある、、、」
その言葉に、空気が少し張り詰める。
静寂と香りの中で、姉妹の視線が交差した。
何も言わず、けれど確かに伝わる。
松島戦、山吹姉妹の新たな火花が、今、静かに灯り始めていた。
伊藤はポルシェの話題に湧いていた姉妹のもとへ、スイスポの整備帰りのついでに立ち寄っていた。
店の扉の鈴が鳴った時、花はすぐに伊藤の存在に気づき、わずかに目を細めた。
伊藤「花は、、、」
ふと漏れたその問いに、花は振り向かずに答えた。
彼女の視線はポルシェの仕様書が書かれたメモに落ちていたが、その声には揺るぎない芯があった。
花「うん、、、打倒、黒川」
淡々と告げられたその言葉に、伊藤は目を見開いた。
花は続ける。
花「相馬戦でも芦ノ湖でも、結局あいつにしてやられた、、、、」
「でも、、もう次は違う、、、次は私が前を走る、、、今度こそ、、、」
その時、店内の空気がピリリと引き締まった。
桜の香りがふわりと漂う。
優しげな香りの奥に、覚悟の鋭さが混じっていた。
花の背中には、山吹の名を背負う者としての意地が宿っていた。
伊藤「......そっか、、、なら俺もやるよ。俺は俺で、次こそ誰にも負けないって決めてるから、、、」
花はようやく伊藤の方を見た。
頷き合うその瞬間、言葉はもういらなかった。
2人は、それぞれの戦場へ向けて、静かに走り始めていた。
裏のガレージから聞こえてくる、妙に陽気な声と足音。
ちとせが工具をぶんぶん振り回しながら、軽トラの荷台の上でぴょんぴょん跳ねていた。
ちとせ「ばんざ〜い、来戦出れないから遊べるぞ〜!もへもへ〜!!!」
「ふふふ〜♪ おじさんは〜今日は雪を降らせる予定ないから〜溶け放題だよ〜☆」
伊藤「なにあれ、、、?」
花はそっと横目でちとせを見て、何事もなかったように目線を戻す。
花「無視無視。」
伊藤「え、いいの?あれ絶対店長でしょ……」
花「気にしたら負けだよ、、、日常が壊れるから、、、」
伊藤が半笑いになりながら肩をすくめる中、
ちとせは再び軽トラの荷台でバランスを崩し、くるっと一回転して着地していた。
ちとせ「雪の精たちよ〜!おじさんに遊びを捧げるのだぁ〜あはは」
芽衣「……おじさん、うるさい。」
花「……芽衣が喋った。」
伊藤「すごいなこの店……」
桜と草の香りが混ざる春の風の中、
今日もヤマブキモーターズは、どこか愉快で、どこか真剣に回っているのだった。
ヤマブキモーターズの裏手にあるガレージの扉が、ギィ……とゆっくり開く。
その隙間から、赤いジャケットの影が差し込む。
カナタ「やあ、来てたんだ伊藤。」
伊藤「カナタ……!」
カナタはスッとガレージ内に入り、ちらりと白いGRスープラや草色の992を見渡す。
カナタ「随分、にぎやかだな……この店。」
花「まあね、、、イヨちゃんもいるし、芽衣もいるし……あと、あのおじさんも。」
ちとせ「呼んだぁ〜? おじさんだよ〜☆」
伊藤「やっぱり自称なんだねそれ……」
カナタは苦笑しながら、伊藤のスイスポの横に歩み寄る。
カナタ「で、どうだ?マシンは。次に向けて……仕上がってきたか?」
伊藤「……まだこれからだよ。でも、ちゃんと決めてる。」
カナタ「ほう?」
伊藤「俺は松島戦、ブースト変えて、セッティング詰めて、全部ぶつける。」
花は伊藤を見つめながら、小さく頷く。
花「私も黒川を絶対に……倒す。」
その言葉に、カナタは少し目を細めた。
カナタ「……じゃあ、俺は相川をやるさ。」
三人の視線が交差する。
その横で、ちとせがひとり巨大な雪玉を作り始めていた。
ちとせ「バトル?そんなのより雪玉の方が重いんだぞ〜☆いっけぇ〜〜!!」
ゴロゴロゴロゴロ……!
芽衣「……おじさん、静かに。」
静かに、次の激戦に向けてそれぞれの想いが交錯するヤマブキモーターズの午後だった。




