第2話[新] restart86.
2025.11.09 アプライドをEに切り替え。
大幅にシーンを完全版にしました。
よりよい品質でお楽しみください。
ガレージのシャッターがゆっくりと開き、油の匂いとともに赤いボディが姿を現した。
朝の光を浴びた2012年式トヨタ86は、昨日よりも鮮やかに見えた。
伊藤「なぁカナタ……。お前、あんだけ車のこと拒絶してたのに……どうする気だよ?」
カナタはしばらく黙ったまま、赤いボディに手を置いた。
カナタ「……もらうよ。お前の86を」
伊藤「へぇ……やっと決心ついたんだな」
カナタ「でもな、もし俺が……また誰かを失ったら……」
その声はかすかに震えていた。
伊藤「お前……」
伊藤はカナタの肩に手を置いた。
伊藤「お前だけじゃないよ。俺だって去年、ママを急に亡くしたんだ。……あの時は本当に怖かった」
カナタ「……ああ、そうだったな」
二人の間に重い沈黙が落ちる。
ガレージの天井から差し込む光が、埃の粒を照らしていた。
伊藤「なぁカナタ。だからさ、俺は決めてんだ。もう誰も失いたくない。だからお前が86に乗るって言うなら、全力で支える」
カナタ「……お前ってやつは、本当にバカだな」
伊藤「バカでいいさ。お前は一人じゃねぇんだからな!」
カナタは小さく息を吐いた。
胸の奥に溜まっていた重いものが、少しだけ軽くなった気がした。
伊藤「よし……じゃあカナタ。
今日は初めてお前が86を運転する日だな」
カナタ「……おいおい。いきなりかよ」
伊藤「当たり前だろ! 車は乗ってみなきゃ始まらないんだ!」
伊藤はキーを差し出した。
金属の冷たい感触がカナタの手に伝わる。
カナタ「これが……86のキーか」
伊藤「そうだ。お前が今日から持ち主だ」
カナタ「……もう一度、走りたい。あの時の親父のように……」
ブロォォォォォン!!
ボクサーエンジン特有の重低音がガレージに響き渡り、足元のコンクリートを震わせる。赤い86のフロントがわずかに揺れ、眠っていた獣が目を覚ますかのようだった。
かつてまだ小さかった頃、親父の膝の上に座らされ、ほんの一瞬だけハンドルを握らせてもらったことがある。子供の手には余るほど重いハンドルだったが、その感触は妙に鮮明に覚えていた。
ーーあのとき親父は笑っていた。エンジン音が耳に残り、窓の外の風景が光の粒になって流れていった。その記憶が今、赤い86の前に立つカナタの胸に蘇る。
カナタ「……これが……ハンドル……」
真ん中には堂々と86のエンブレムが刻まれていた。幼いころはただの飾りにしか見えなかったが、今はまるで自分を試してくる目のように感じた。
伊藤「ATだけど、この86にはパドルシフトがついてる。どうだ? 走ってみるか?」
伊藤の声は挑むようでいて、どこか優しさが混じっていた。
伊藤「……足回り、いいな……!」
発進前、二人は同時に86の後方を振り返った。
タイヤは朝露を弾きながら光を反射し、サスペンションはわずかに沈み込み、獲物を狙う獣のように身を低くしていた。
伊藤「こんなスゴイとはな……!」
手でタイヤのトレッドを軽くなぞり、その感触を確かめる。
ゴムの匂いとオイルの香りが鼻をくすぐった。
伊藤「……これが自分の車だったもの……。カナタ、こいつの未来を頼んだぞ」
カナタは無言でうなずいた。
ただの中古の86。だが今は違う――ここから始まる走りを託された相棒。
エンジンが低く唸りを上げる。
二人の視線が再び前方へ戻り、峠の先に広がる未知の道を見据えた。
カナタ「行くぞ、伊藤……」
伊藤「ああ、カナタ。こいつを思いっきり走らせてやれ!」
カナタはハンドルから手を離し、しばらく視線を落としたまま動かなかった。胸の奥に渦巻いていたのは恐怖か、それとも期待か。いや――両方だ。父を失ったあの日以来、エンジン音は自分にとって過去の象徴だった。だけど今、その音が未来への扉のように聞こえる。
伊藤「お前ならできる。お前が腹切カナタだろ?」
カナタ「ああ、……行くよ、伊藤」
拳を握りしめる音が聞こえた。
運転席に座り込むと、革シートの冷たさが背中に伝わる。車内にはオイルと革の匂いが混ざり合い、外の空気とは違う閉ざされた世界を作っていた。
伊藤「深呼吸しろ、カナタ。落ち着いてな」
カナタは震える手でハンドルを握り、ひとつ息を吐いた。
カナタ「……伊藤。俺、本当に大丈夫なのか?」
伊藤「お前なら大丈夫だ。信じてる」
その言葉が、カナタの中の何かを解いた。キーを差し込み、ゆっくりと回す。
キュルルルルルル……ブォォォォォン!!!
赤い86のエンジンが目を覚ます。腹の底に響くような重低音がガレージ全体を揺らし、金属とオイルの匂いが一層強くなった。
カナタ「……これが……86の音……」
伊藤「どうだ? 心臓が鳴るだろ?」
カナタは言葉もなくうなずいた。胸の奥がエンジンと同じリズムで鼓動していた。
伊藤「軽くアクセル踏んでみろ」
カナタ「ああ……」
ブォン! ブォォォォォン!!
アクセルをわずかに踏み込むと、回転数が跳ね上がり、マフラーから乾いた音が弾ける。ボディが微かに震え、フロントの先端が上下に揺れた。
カナタ「すげぇ……体の奥に響く……!」
伊藤「お前の親父さんも、きっとこうして走ってたんだろうな」
カナタの目に一瞬だけ親父の笑顔が蘇った。風を切って走る影。助手席で笑っていた自分。あのときの記憶が胸を刺す。
伊藤「さぁ、行くぞカナタ!」
カナタ「おう!」
ギアをドライブに入れる。タイヤがゆっくりと動き出し、赤い86がガレージを抜けた。朝の光がボディを照らし、ルーフの赤が一瞬だけ眩しく輝いた。
町を抜け、車は山道へ向かう。舗装はされているが狭く、両脇には木々が迫っていた。朝の霧がまだ薄く漂い、視界の先を白く覆っている。
カナタ「……伊藤。この道は……」
伊藤「ああ。お前の親父さんが昔よく走ってた峠だ」
カナタの手が自然とハンドルを強く握りしめる。父が見た景色。父が聞いたエンジン音。
今、それを自分がなぞっている。胸が熱くなる。
伊藤「少し踏んでみろ、カナタ!」
カナタ「わかった!」
ブォオオオオオオォォォンッッ!!
アクセルを踏み込むと、赤い86が一気に加速した。背中がシートに押し付けられ、視界の両脇が流れる。
カナタ「うおおおおおおおっ!!!」
伊藤「ははっ! これが86の走りだ!」
急カーブが迫る。路肩にはガードレールが光り、外には崖が口を開けていた。
伊藤「ブレーキ! 外から大きく回れ!」
カナタ「了解!!」
タイヤがアスファルトを噛み、悲鳴を上げた。車体がわずかに横滑りし、カナタの腕にGがかかる。だが86は確実にコーナーを抜けた。
カナタ「すげぇ……車が生きてるみたいだ!」
伊藤「お前の腕も悪くない!」
その瞬間、またあの声が聞こえた。
???「ふふ……やっと火が灯ったね、カナタくん」
カナタ「……またお前か!一体誰なんだよ!?」
声は車内に直接響くようで、スピーカーからではなかった。しかし、どこか冷たく目を細めて見ているかのようだった。
???「今はまだ名乗らない。だけど覚えておいて。君と86の物語は、ここから始まるんだよ」
風が一気に強くなり、木々がざわめき、落ち葉が舞い上がった。まるで峠そのものが二人の走りを見ているようだった。
峠を抜けると視界が一気に開け、眼下に街と海が広がった。太陽が雲間から差し込み、赤いボディに光が反射して眩しいほどだった。
カナタ「……伊藤」
伊藤「なんだ」
カナタ「ありがとう。お前がいなきゃ、俺は一生走れなかった」
伊藤「礼なんていらねぇさ。お前は腹切カナタだろ? これからが本番だ」
二人は笑い、拳を合わせた。
ゴッ!!
その音が朝の峠にこだまし、赤い86は静かにエンジンを冷まし始めた。
カナタはハンドルに手を置いたまま、しばらく動かなかった。
胸の奥で何かが確かに始まったと、そう感じていた。
カナタ「伊藤……あれは……」
山道の入口に、一台の黒いシルビアS15が停まっていた。
低く構えたボディ、砲弾のようなマフラー。朝の冷気の中、エンジン音だけが獰猛に響いている。
伊藤「あれ……S15だな。ヒルクライムの常連だ......!」
運転席から降りてきたのは、短髪にサングラスの青年だった。無言でカナタの赤い86を見つめ、口の端をわずかに上げる。
???「……新顔か?」
カナタ「……ああ。俺は腹切カナタだ」
???「へぇ……名前は派手だが、腕はどうかな?」
挑発するような声。シルビアの青年は再び車に乗り込み、エンジンを吹かした。
ブォンッ!!
鋭い音が朝の峠にこだまする。
伊藤「カナタ、どうする? 初めてのヒルクライムだぞ」
カナタ「やるさ。ここで退いたら腹切カナタの名が泣く」
二台は峠のスタートラインに並んだ。
S15のマフラーから白い煙が上がり、赤い86のエンジンが低く唸る。
伊藤「カナタ、焦るな。最初は抑えて、二本目のヘアピンから攻めろ」
カナタ「わかってる。……行くぞ」
緊張が車内を満たす。カナタの手のひらに汗が滲み、ハンドルがわずかに滑った。
???「3……2……1……GO!!」
ブォォォォォォン!!!
二台のマシンが同時に飛び出した。
タイヤがアスファルトを噛み、煙が後ろへ舞う。
カナタ「くっ……速い!」
S15が先行し、直線で距離を取る。ターボの加速はNAの86を一気に置き去りにする勢いだ。
伊藤「カナタ、焦るな! 峠は直線じゃない、コーナーだ!」
カナタ「わかってる!」
一つ目のヘアピン。
カナタ「ブレーキッ!!」
タイヤが悲鳴を上げ、赤い86がアウトから飛び込む。S15はインを閉め、ラインを譲らない。
カナタ「くそっ……!」
だが伊藤の声が飛んだ。
伊藤「次のS字で詰めろ!ブレーキを少しだけ遅らせろ!」
カナタ「了解だッ!!」
S字カーブ。
カナタはアクセルを抜き、ブレーキをほんの一瞬だけ遅らせた。
車体が揺れ、Gが横から体を押し潰す。
カナタ「うおおおおおおッ!!」
赤い86がS15のテールに張り付いた。
助手席で伊藤が見守る。
伊藤「いいぞカナタ!そのまま食らいつけ!」
二本目のヘアピン。
伊藤「ここだ、カナタ! 外から回り込め!!」
カナタ「行くッ!!」
ブレーキ! ハンドルを切る!
タイヤが煙を上げ、赤い86がS15の外側から迫る!
S15ドライバー「なにっ......!?」
インに構えていたS15がわずかに膨らむ!
カナタ「抜く!!」
赤い86が外から食い込み、並びかけ――
ブオオオオオッ!!
ヘアピンの立ち上がりでついに前に出た!
伊藤「やったぞカナタ! トップだ!!」
カナタ「まだ終わっちゃいねぇ!」
残り三つのコーナーを攻め続け、
赤い86がついに峠の頂上を駆け抜けた。
ゴォォォォォォォン!!
エンジン音が山にこだまし、カナタの初めてのヒルクライムは幕を閉じた。
カナタ「……やった。俺が勝ったんだな」
伊藤「ああ。お前の走りはもう本物だ、腹切カナタ!」
カナタはハンドルを握ったまま、しばらく息を整えていた。
胸の奥で何かが熱く燃えていた。
赤い86のボンネットから、まだ熱を帯びたエンジンの音がかすかに響いていた。
ピシッ……ピシッ……と冷めていく金属が鳴る音が、レースの終わりを告げている。
勝利の余韻が残る山の頂上に、ゆっくりと一台の白いハイエースが近づいてきた。
作業用の工具箱が荷台に積まれ、フロントガラス越しに見える男の顔には深い皺と、油に染まった手のひらがあった。
エンジンが止まり、ドアが開く。
山村「でかしたな」
低いがどこか温かみのある声だった。
男はツナギ姿で、手にはオイルの匂いが染み付いている。四十代後半ほどか、日に焼けた肌と鋭い眼光が印象的だった。
山村「俺の名前は山村だ。自動車整備をメインに仕事しているんだ。またオッサンが若者に負けちまったな」
彼の視線は赤い86に注がれていた。
まるで古い友人を見るような目。車の鼓動やわずかなエンジンの異音すら、耳で感じ取っているかのようだった。
カナタはハンドルから手を離し、運転席を出る。
カナタ「……腹切カナタ。」
その名を口にする声には、まだ勝利の熱が残っていた。
伊藤も助手席から降りてくる。
伊藤「伊藤翔太だ」
山村は二人を見比べ、ゆっくりと頷いた。
山村「腹切カナタに伊藤翔太……若いのに大したもんだ。あのS15に勝ったのは久しぶりに見たぜ」
彼は工具箱に手をかけ、ボンネットを指差した。
山村「……エンジン、まだ熱が残ってるな。ちょっと見てやろうか?」
伊藤「ああ、頼む」
山村が工具箱を開けると、金属の匂いとオイルの香りが一気に広がった。
彼の手際は無駄がなく、手が車の中を泳ぐたび、カナタは目を奪われた。
カナタ「……プロだな」
山村「整備士だからな。けど車は機械だけじゃねぇ。ドライバーの気持ちが伝わるんだ。お前の走り……しっかり伝わってきたぜ」
カナタは言葉に詰まった。
自分の走りをそう言われるのは初めてだった。
伊藤「なあ山村さん。この86……まだまだ走れるか?」
山村はボンネットを閉じ、ニヤリと笑った。
山村「走れるさ。だが……もっと上を目指すなら手を入れなきゃな。腹切カナタ、お前の相棒になるならなおさらだ」
カナタ「俺の……相棒」
その言葉が胸の奥に響いた。
山村はハイエースの運転席に戻り、エンジンをかけながら言った。
山村「これからも走れ。お前の走り、まだ始まったばかりだろ」
ハイエースはゆっくりと去っていく。
排気ガスの匂いが薄れる頃、カナタと伊藤は赤い86を見つめていた。
伊藤「なあカナタ。次はどうする?」
カナタ「決まってるだろ……もっと上へ行く」
彼の瞳には、次の峠の光が映っていた。
山村はボンネットの前で手を止め、ふと遠い目をした。
その瞳には今の赤い86ではなく、もっと古い――過去の景色が映っているようだった。
山村「……懐かしいよ。昔、ニャンコのツアラーVに……ちとせのZをいじってた頃がな……」
カナタ「……何か言いました?」
山村は一瞬だけカナタの方を見たが、すぐに視線を外し、ボンネットを軽く閉じた。
山村「いや、何も……」
その声にはわずかな寂しさが混じっていた。
彼の肩にかかるツナギの袖が風に揺れ、山の空気が油の匂いを運んでいく。
カナタは眉をひそめた。
確かに聞いた名前――ちとせ。だが、何のことなのかは分からない。
伊藤は工具を片付けながら、ちらりと山村の横顔を見た。
伊藤「山村さん、昔の話ですか?」
山村は口元だけで笑った。
山村「さぁな。ただの昔話さ。若い連中には関係のないことだ」
彼の目の奥に、エンジン音と夜の峠を映すような光が宿っていた。
だがそれはすぐに消え、また整備士の穏やかな表情に戻る。
カナタ「……」
カナタは何も言わなかった。だが心の奥で、山村が過ごした過去の走り屋たちの物語が、いつか自分の前に現れる予感だけが強く残った。
風が峠を吹き抜け、赤い86のボディが一瞬だけきらめいた。
赤い86が峠の上りを駆け抜ける。
エンジンの鼓動がボディ全体に伝わり、朝の冷たい空気が窓の隙間から吹き込んできた。
カナタ「……まだ行けるな、伊藤」
伊藤「おう、カナタ! さっきのS15より速いぞ、このペースは!」
フロントタイヤが路面をかきむしり、カーブを抜けるたびに背中に強烈なGがかかる。
ステアリングを切るカナタの目は鋭く、まるで峠そのものを射抜くようだった。
その時だった――
ドオオオオォォォン!!
対向車線の奥から、鋭いエンジン音が近づいてきた。
青いボディが木々の隙間から一瞬だけ見え、次の瞬間、青白いライトがカナタたちの目に飛び込んでくる。
伊藤「なっ……青いWRX……!?」
カナタ「スバルか……しかもSTiモデルだと……!」
ブォォォォォォン!!!
青いWRX STiが対向車線から姿を現し、赤い86とすれ違いざまに重低音を響かせた。
ウイングが朝日を反射し、フロントバンパーの開口部から覗くインタークーラーが一瞬だけ光る。
カナタ「くっ……速いな……!」
WRX STiのドライバーは片手で軽くハンドルを切りながら、赤い86を一瞥して通り過ぎた。
無駄のないライン取り、車体のブレのなさ――ただ者ではない走りだった。
伊藤「カナタ、あの動き……只者じゃねぇ。峠慣れしたプロだ」
カナタ「次の上りで来るな……俺たちの後ろに……」
バックミラーにはすでに青い閃光が見えていた。
峠の対向車線を駆け抜け、やがて後方から迫る獣のような存在感。
カナタ「来いよ……WRX……!」
伊藤「次のバトルは始まっちまったな、カナタ!」
赤い86と青いWRX STi。
二台のマシンが峠の上りで出会い、物語はさらに熱を帯びていく――。
ブォォォォォォンッ!!!
青い閃光のようなWRX STiが、赤い86の前を一瞬で駆け抜けた。
いや、駆け抜けたというより――消えた。
カナタ「はや……っ!!」
わずか数秒前まで確かにそこにいたはずの青いボディは、もうバックミラーの中にもいない。
残っているのは焦げたタイヤの匂いと、耳の奥に焼き付いたターボの甲高いホイールスピンの音だけ。
伊藤「さすが……! あれはもう領域そのものを超えている……」
二人の視線の先、峠のさらに奥――
濃い緑のカーテンの向こうで、青い閃光はすでに次のカーブを抜け、さらにその先の道へと消えていった。
カナタはしばらくハンドルを握ったまま動けなかった。
エンジン音すら遠くに聞こえるほど、胸の鼓動が自分の耳の奥で暴れている。
カナタ「……あれが……本物の走り……か」
伊藤「お前の86も悪くねぇ。だが今のWRXは……まるで峠そのものと一体化してた。人が運転してるって思えない走りだ」
カナタはバックミラーを見た。だが、そこにはもう何も映っていなかった。
風だけが峠を駆け抜け、赤い86のボディに朝の光を反射させる。
あの青い閃光は本当に存在していたのか――そう疑いたくなるほどの速さだった。
カナタ「……いつか追いつけるのか、俺は」
伊藤「追いつけるさ。お前が腹切カナタならな」
ハンドルを握るカナタの手に、再び力がこもった。
次に走るとき――そのときこそ本当のバトルが始まる。
カナタと伊藤を乗せた赤い86が、峠を抜けて広い直線に出た。
前方に見えてきたのは、見晴らしの良い展望台のパーキング。
朝の光に包まれたそこは、まるで走り屋たちの聖地のようだった。
カナタ「……すげぇな、伊藤。車が……山ほどいるじゃねぇか」
伊藤「おう。ここは夜になるともっと集まるんだ。峠を攻め終わった連中のたまり場だな」
駐車場には数十台ものスポーツカーが並んでいた。
深いブルーのスカイラインGT-R R34に
白い失敗作と言われ続けて何度も立ち上がってきたGT~R R33。
往年の名車スープラ80型、白いボディに大きなウイング。
黒いシルビアS13、赤いRX-7 FD3S。
最新型のGR86やZ34、そして古めかしいが丁寧に手入れされたAE86トレノまで。
車体からはまだ熱が立ち上り、ボンネットの金属が陽炎のように揺れている。
風が吹くたびにオイルとタイヤの匂いが混じり合い、峠の匂いが一層濃くなった。
カナタ「古いのも新しいのも……みんなここに集まってるのか」
伊藤「車種も年代もバラバラだが、ここにいる連中は同じだ。走るために生きてる奴らばかりだ」
駐車場の隅ではボンネットを開け、エンジンルームを覗き込む走り屋たちがいた。
煙草を片手に次の走りの段取りを話している者もいれば、コンビニのカップラーメンをすすりながらタイヤの溝を確認している者もいる。
車の色もエキゾースト音も違うのに、不思議とそこには一体感があった。
伊藤「なぁカナタ……お前の86もあそこに並べようぜ」
カナタ「おう……」
二人は赤い86をゆっくりと駐車場に入れた。
他のスポーツカーたちと並ぶその姿は、まだ若いが確かな存在感を放っていた。
ブォォォォン……
赤い86GTが展望台のパーキングにゆっくりと入っていく。
走り屋たちの車がずらりと並ぶその場所は、まるで小さなサーキットのピットのような熱気に包まれていた。
古びたAE86トレノが隅に鎮座し、その横には白いRX-7 FD3S。
R34スカイライン、スープラ80、S15シルビア、Z34、そして最新のGR86まで――世代も型式も違うマシンたちが一列に並び、ボンネットからはまだ熱気が立ち上っている。
カナタ「……ここに停めるぞ、伊藤」
伊藤「ああ。こいつが仲間入りする瞬間だな」
赤い86GTのエンジン音が低く唸り、走り屋たちの視線が一斉に向けられた。
誰も言葉を発しないが、その空気には確かに“新人”を迎える緊張と期待が漂っていた。
カナタは慎重にハンドルを切り、二台の間に車体を滑り込ませる。
キュッ……
タイヤが小さく鳴き、86GTがぴたりと停まった。
隣の黒いR32のドライバーがちらりと赤いボディを見て、わずかに顎を引いた。
伊藤「……見られてるぞ、カナタ」
カナタ「分かってる……」
窓を開けると、外の空気が一気に流れ込み、オイルとタイヤの匂いが鼻をついた。
ボンネットから上がる熱気が車体を揺らし、朝日が赤い塗装を一層鮮やかに照らす。
伊藤「……いいな。ここからが始まりだ」
カナタ「ああ……腹切カナタの走りのな」
86GTのエンジンが止まり、展望台のパーキングに新たな赤い影が加わった。
ドオオオオォォォンッ!!!
黒いNSXは展望台の入り口で一瞬だけ姿を現したかと思うと、停まることなくそのままフルスロットルで下りのコースへ突っ込んでいった。
ブォォォォォォンッッ!!!
タイヤがアスファルトを強烈に掴み、黒いボディがカーブをなめるように駆け抜ける。ヘアピンに差し掛かっても車体は微動だにせず、獣が山を駆け降りるような俊敏さと安定感。
走り屋A「なっ……止まらねぇ!?」
走り屋B「完全に次元が違ぇ……速すぎる!!」
エキゾーストの金属的なサウンドが山肌に何度も反響し、余韻だけを残して黒いNSXは下りの闇へと消えていった。
ヴォォォォォン……ヴォォォォン……
遠ざかるエンジン音が次第に小さくなり、やがて静寂が訪れる。駐車場にいた走り屋たちは誰一人として声を出せなかった。まるで夢のような一瞬だった。
伊藤「カナタッ!」
振り返る伊藤の瞳に、消えていった黒いNSXの残像が焼き付いていた。
カナタ「ああ……俺たちの86伝説は、ここから始まるんだ……!」
赤い86のボンネットに朝の光が差し込み、カナタの瞳に新たな火が宿った。
誰もがその炎がこれから何を生み出すのかを知らない――だが確かに、物語は今、動き出した。
ヴォオオオオォォォォォンッ!!!!
カナタと伊藤の赤い86GTが峠の上りを走っていると、どこからともなく甘く伸びるような声が響いた。
???「カナタく〜ん……今行くからね〜?」
カナタ「……な、なんだ!?」
声と同時に、冷たい風が峠全体を切り裂いた。まるで吹雪がこの真夏の峠にだけ突然現れたかのように――。
ブオオオオオオオオォォォンッッッ!!!!
白い閃光がバックミラーの奥から襲いかかる。
ボディは純白、鋭いフロントマスクを持つRZ34。だがその周囲には白銀の嵐のようなオーラが渦を巻き、空気さえも凍らせる絶対領域が漂っていた。
伊藤「なっ……吹雪を纏ってやがる!!」
次の瞬間――
ギュワアアアアアアアアアアア!!!!
白いRZ34が赤い86GTの横を凄まじい風圧とともに抜き去った。
視界が一瞬で真っ白に染まり、まるで時間が止まったかのような錯覚がカナタを襲う。
カナタ「うぐっ……!!? な、なんだ今のは……一瞬、凍ったかのようだった……」
フロントガラスに霜のような結晶が一瞬だけ広がり、次の瞬間には何事もなかったかのように消えた。
伊藤「ああ……今の……なんだったんだ? さっきのNSXよりも……凄まじいオーラが……」
遠ざかっていく白いRZ34。そのテールランプが赤い閃光のように峠の下りに消えていく。
伊藤「……しかも、さっきのスバルブルーのWRXも、今のZも……地名ナンバーが全国の登録にないやつだったな……?」
カナタ「……風越村……か。地図にも存在しないナンバー……なんなんだ、あの峠は……」
峠に残ったのは、冷たい風と謎だけだった。
カナタ「今度は下りだ……!!」
赤い86GTのブレーキランプが一瞬だけ光り、次の瞬間にはギアが落とされ、エンジンが低く唸った。峠の頂上から見下ろす下りのコースは、闇と朝靄の狭間に包まれていて、その先がどこまで続くのかすら見えない。
伊藤「今度は前にも後ろからも……視界には全く何も見えないな」
窓の外を見やる伊藤の顔に、にやりとした笑みが浮かんだ。
伊藤「この瞬間こそ……最高のひとときってもんだな」
前方には闇、後方には静寂。
聞こえるのは自分たちのエンジン音と、遠くで鳴く鳥の声だけ。
カナタ「行くぞ……!」
ブォォォォォォンッ!!!!
赤い86GTが下りの1コーナーへ飛び込んだ。
ブレーキが火花を散らし、ローターが赤く焼ける。
タイヤが悲鳴を上げながら路面を掴み、車体はまるで重力を裏切るようにコーナーを抜ける。
伊藤「いいぞカナタ! お前の走りだ!」
ハンドルを切るたび、視界の先に新しいカーブが現れ、86のエンジンが吠えるたび、速度計の針が暴れるように跳ね上がる。
カナタ「この感覚……! 誰もいない峠を下る、この瞬間……!!」
赤いテールランプが、暗い下り道をひとすじの光のように駆け抜けていった。
下りのカーブを抜けた先、赤い86GTは一瞬だけスピードを落とした。
朝靄のかかった峠は静かで、遠くの鳥の声とエンジンの微かな唸りだけが響いている。
伊藤「……カナタ……」
助手席から伊藤の低い声が聞こえた。
フロントガラスの向こうには、まだ誰もいない峠の道が続いている。
カナタ「ああ……ここからだ、伊藤……」
カナタの目が真っ直ぐに前を見据える。
夜明けの光が赤いボンネットに反射し、フロントガラス越しに二人の瞳を赤く染めた。
カナタ「俺たちの……86伝説がな」
ブォォォォォォンッ!!!
アクセルが踏み込まれ、再び赤い86GTが峠を駆け下りていく。
タイヤが火花を散らし、エキゾーストが吠え、伝説の始まりを告げるようにエンジン音が山々にこだました。
次回第3話 オープンカップ




