第九話 『 心より 』
※センシティブな表現が登場します。
ご不快に感じられる方は、読み進めにご注意ください
あらすじ:
アダムは自らを“スワン・アイデンテ”と名乗った。
名を捨て、偽りの人格を纏い、彼はミンテージ実貨幣統制社に潜入する。
目的は、奪うことではない──
燃やすことだった。
金庫室の紙幣に火を放ち、テルミット反応で床を穿ち、
バックドラフトで開いた闇へと身を投じる。
焼け落ちたのは貨幣、そして古の制度だった。
その爆発を受け、警察企業《RePolice》と、自動警察の実働部隊が現場を突入する。
しかし、制圧が完了した時、金庫室は空だった。
残されていたのは、焼け焦げた床と、闇へと繋がる穴だけ。
制度は表向きの秩序を装い、報道は『真実』を告げる。
奪われたものはあった──名と、時間。
引き換えにアダムは、名実共に、自らの在るべき位置を果たした。
ローランドの焚き火の傍で、彼は衣服と腕時計を投げ入れる。
架空の姿と、奪った時間の象徴。
それらは火に飲まれ、灰となり、夜の都市に溶けた。
──焼却したのは貨幣で、手にしたのは沈黙。
ただ、電波には「スワン・アイデンテ」という名だけが流れ続けていた。
自動警察の本社ビル。
廊下の蛍光は静脈のように延び、缶コーヒーの金属臭が空調に揉まれて薄く漂っていた。
若い制服警官と、中年の背広警官が立ち話をしている。ちょうど話の継ぎ目で、若者が口火を切った。
「最近、実銃案件、続きますね」
「……ああ。社長も“良くない流れだ”って顔に出てる」
「ミンテージ社の件、死者は出なかったんですよね?」
「出てない。ただ——前の囚人護送車襲撃は別だ」
「……?」
「うちの人間が死んだ。しかも社長の直轄部隊からな」
「え、あの強戦力の?」
「R9だ。R9-ARMS。全員、実銃でやられた」
「犯人は?」
「主犯——護送車から逃げた囚人は爆発で死んだ、らしい。だが——」
「——だが?」
「襲撃犯は見つかってない。……で、先日の事件だ」
「繋がってる、と?」
「現場で回収された武器、あれもR9製。護送車襲撃と同じ型だ」
「……そりゃ社長も危惧しますよ。手練れで、テロ。道具まで同じなら——」
『——同じなら?』
背中に、第三の声。二人は反射で振り向き、息をそろえて敬礼した。
廊下の白光の端に、デペイズマンが立っていた。
彼は若い警官の肩に軽く触れ、わずかに身を屈める。
「同じなら、どうなる?」
汗が額を滑り、若者の喉仏が上下した。
「同じなら……武装組織による警察企業の崩壊もあり得る、と思います」
無表情のまま、デペイズマンは一度だけ頷く。
「——有望だ。状況が見えている」
柔らかな笑みだけを残して言った。
「盗み聞き、失礼。お二人はどうか、死なないでくださいね」
彼は踵を返し、廊下を去る。縮む背に、二人はもう一度敬礼を送った。
*
自動警察特別捜査部、部室。
ドアが開く。空調の白い音のなか、打鍵、靴音、短い咳払いが粒立っていた。
そこに手拍子が二度。
「皆さん。ミンテージ社の案件は中止です。解散、規定通りに」
デペイズマンの声は、命令というより決定のアナウンスだった。
社員たちは一拍遅れて彼の顔を見、それから言葉どおり身体を動かしはじめる。
「ちょっと! デペイズマンさん!」
携帯を握ったまま、九が駆け込む。背広の肩に走る皺が、その急ぎを物語る。
「これはこれは……九社長」
「“これはこれは”じゃありません。これは何ですか」
「貴女のお仕事を、代わりに」
「私はまだ案件を取り下げていません。指揮命令権は私にあります。越権です」
「では——貴女の口から、どうぞ」
彼が掌で視線を誘導する。
そこには、社長と大株主のラリーを観客のように見守る部下たち。顔には不安、姿勢には従順。
九は一瞬だけ躊躇い、すぐ息を整えて言う。
「解散。通常形態に移行、あるいは別部署に移動して」
役職者の号令が散り、室内はみるみる空になった。
残った二人。九の眼差しは冷い刃だった。
「そんな目で見ないで。分かっているでしょう? ミンテージの悪行が露見した以上、世論は犯人寄りに傾く。解決の見込みもないまま糾弾するのは組織としての自傷です」
「犯人は実銃を所持している。前回はうちの人間が死んだ。……相手が犯罪者なら、何をしても良いのでしょうか?」
「今回は発砲していない。おそらく発射機構のない飾り。撃たない実銃を携えるリスクは高すぎる。これは道徳ではなく市民の願いの話です」
「偽物でも、作るには本物が要る。本物が流通している。——不正義ですよ」
デスクに腰掛けたデペイズマンは、室内を一瞥してから静かに継ぐ。
「九社長。自動警察は正義の祭壇じゃない。人の悪事を糧に利潤を得る、営利企業だ」
「……否定しません」
「古来、人は奇術師を火にくべ、真実を覗く者を縛り、斬ってきた。正しさなんて風潮だ。違いますか?」
「でも、それは殺してきた側の言葉です」
「ほう」
「私たちは、過去を過ちと断じられる地点に立っている」
「……一本取られましたね」
九が背広の襟を指先で正す。
その所作が終わるのを待って、彼はもう一つだけ置く。
「道徳行為は結構。しかし今、人々が自動警察を見放せば、あなたの正義はもっと困難になる。正義は手段であって、目的ではない」
「それはあなたの目的でしょう。会社があなたの所有であることに異論はありません。ですが、私にとっては——過程こそ目的です。どうか工程だけでも享受させてください」
「……いいでしょう。私は株主、指揮命令権は無い」
「では、失礼します」
九がドアへ向かう。
背に、彼の声。
「九社長。正義の話になると、交渉が実にお上手だ」
「……これを交渉とは呼びません」
「では?」
「ただの——我儘です」
九は一歩だけ下がり、センサーの範囲から外れる。
言葉が扉の外に届いたかどうかは、誰にも分からない。
*
ファーストの車は、巨大な格納庫の前で止まった。
ギアが切られる音が心地よく車内に広がり、静寂が落ちる。
外気は乾き、金属の匂いが鼻の奥で粒になる。ドアが鈍い音で閉まった。
「おい、もっと丁重に」
「……悪い」
車体越しの軽口。俺は彼の背に続く。
シャッターが上がり、白い光が床を撫でた。
中は、異様だった。
木製パレットの上に、立体的に積まれた現金の塊。
側面は透明フィルムで巻かれ、緑の肖像が幾層にも覗く。数えて三十塊近い。
「……これ」
「ああ、“俺たち”の分け前だ」
「いくらだ」
「二十億ドル」
桁は思考を追い越し、現実が口を開ける。
(……これ、夢じゃないか?)
「これだけあれば、中流十万世帯を一生養える。富裕層なら七代は無職で構わない」
言葉の桁が、ある少女の顔を脳裏に呼び出す。
「よく稼げたな」
「ミンテージの不祥事と杜撰な警備が露見、株価は暴落。対照的に電子通貨は急騰。
——主犯の俺たちは、インサイダーし放題だ。レバレッジ十倍なら、この程度」
「レバレッジ?」
「少ない元手で大きく張る仕組みだ。損も益も十倍」
「じゃあ、二億張ってたってことか」
「まあな」
ファーストが現金の角を小突く。
塊は微動だにしない。生気のない肉が叩かれたような音がした。
「しかし、よくこれだけ換金できたな。怪しまれずに」
「骨は折れたが、今回はロンダリングすら要らない。楽なもんだ」
俺も塊のフィルム越しに指を這わせる。
印刷された誰かが、こちらを見て笑う。
——待て。
なぜ、現金なんだ。
この量、この見せ方。わざわざ格納庫に山積みにする意味は?
俺の知るファーストは用心深い。
会議は地下、計画書は梱包した手紙の体裁。
記録に残る媒体は使わず、犯行後は報酬受け取り以外で会わない。
——注意散漫じゃないか?
「なあ、ファースト」
「ん、なんだ」
「なぜ、現金なんだ」
「おいおい、分からないのか?」
火が点く。タバコの先が赤く瞬き、煙が紙幣に匂いを移す。肺から白が吐き出され、言葉になる。
「お前を嵌めるためだよ」
「……は?」
次の瞬間、腰から銃が抜けていた。
『突入開始!』
轟音。シャッターが割れる。
銃口がこちらを向く。改造されたライフルが闇の歯列のように並ぶ。
「何故だッ!」
俺は撃つ。液体金属は装甲をただ小突くだけ。
反撃の火線が走り、空気が裂ける。
無効を悟ると、近くの塊を引きちぎり、現金を宙へ撒く。
紙片の雨が弾道を乱し、飛沫のように散る。
通路を縫って逃げる。角を曲がる。ひとりが立ちはだかる。
ライフルの構えに体当たりし、バイザーの内側へ銃口を押し込み——撃つ。
『パン』『パン』。
鈍い音。相手が落ちる。
後方の足音が迫る。
その身体を盾にして屈む。
しかし背に一発が刺さる。
肩。焼け付く。世界が傾ぐ。
「あ”ぁ”あ”!」
塊に倒れ込み、縋る。
紙が崩れ、床に見放される。
前も後ろも塞がる通路。
その向こうから、彼女が現れた。
「アダム・エデンソン。貴方を逮捕します」
九。
テレビの画面の人形めいた輪郭が、現実の焦点に寄ってくる。
「おかしい……こんなの、おかしいだろ」
喉の奥から、惨めな反論が零れた。
「おかしい? おかしいのは、貴方の頭ですよ」
「うるせえ!」
自分の声に、自分が驚く。
「俺は……アダムじゃない。アダムじゃない!」
「スワンだと? スワン・エデンソン」
「なんで、なんで、なんで……」
思考は泡立ち、言葉は泡になって弾ける。
「記憶喪失なんだ! あの男が持ちかけなきゃ、俺は——」
「実行したのは、貴方です」
「あいつが悪いんだ!」
「あの人が悪い?」
「そうだ! 信じてくれ」
「ごめんなさい。交渉は苦手なの」
銃撃が始まった。
「痛”い”ッ! い”た”い”!」
雨のように、しかし雨より秩序だって降る。
骨が軋み、皮が剝け、筋肉が裂ける。
「死にたくない……」
やがて銃声は止む。
「貴方は、こういうものを他人に向けて撃っていました」
九は諭す。俺はただ謝ることしかできない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
視界の隅で、拳銃が転がる。
手が伸びる。拾う。
寝そべったまま、狙い、引き金。
白が空間を裂く。
バイザーが割れ、誰かが無差別に撃ち散らして崩れ落ちる。
「人殺し」
「犯罪者」
「何なんだよ」
声が空気に混ざり、語彙が刃になって刺さる。
「黙れ。……黙れ、黙れ。黙れぇ!」
さらに一語が刺さる。
「アンタみたいな快楽殺人鬼と、一緒にするな」
——気づく。
これは、俺の言葉だ。
警官たちは、俺だった。
バイザーの向こうも、九の顔も、すべて俺だった。
袋が被さり、手足が縛られる。
光が遠のく。
歩かされる。
布の裂け目から差す光が、儀式の白さで瞼を焼く。
縄が首にかかる。
「嫌だ! 死にたくない!」
地が無くなる。
——一秒。
——二秒。
ギチッ。
乾いた音。
自由落下にして二十メートルほど。
反動で首が折れ、二秒という数字が、俺を死に変える。殺す。
それしかできないから、ただ揺れた。
*
「……はぁ、はぁ」
目が覚めると、病室だった。
カーテンの向こうはまだ暗い。
消毒の匂いが、現実の輪郭を戻してくる。
全ては夢。それを理解した瞬間、涙が出た。
「何だよ、俺が被害者ぶって……」
吐き気が喉に戻る。
「お兄ちゃん……」
カーテンの隙間から、イヴが覗いていた。悲しみの色。
彼女は自分で車椅子に移ってきたのだろう。
「ど、どうした。こんな時間に」
冷たい汗を拭い、白々しい声が出る。
「ひどく、うなされてた」
「……ごめん」
「なんで謝るの?」
「起こしたから」
「そうじゃないでしょ」
車椅子が小さく回り、カーテンが押し分けられる。
窓外の街明かりが、彼女の輪郭を一層ずつ起こしていく。
「お兄ちゃん、悪いことしたでしょ」
心臓が跳ねる。
「なんで——」
「怪我、治ってるはずなのに、またベッド。不自然だよ」
「いや、それは——」
「それに」
言い訳が喉で石になる。
「私は、人生の大半をお兄ちゃんと過ごしてる。微細な変化はすぐ分かる。
——地震計の針みたいに」
誇らしさと悲しさが同居する微笑。
「ねえ、悪いことはしちゃいけない。
道徳は、人間に与えられたいちばんシンプルなルールだから」
彼女は手すりを掴んで身を乗り出し、俺のベッドに這い上がる。
近い。俺の呼吸が、彼女に触れる。
「ニュースのスワン・アイデンテ——お兄ちゃんでしょ」
「頼む、誰にも言うな」
自分でも分かる。最悪の台詞だ。さらに惨めになる。
「言わないよ」
彼女は静かに言い、理を積む。
「最近、テレビで株価ばっかり見てるから、考えたの。
もしお兄ちゃんがスワン・アイデンテなら——って」
「……」
「スワンはミンテージの現金を焼いた。異常だけど、意味はある。
お兄ちゃんには強い社会思想はない。記憶喪失だった。テロでは説明できない。
——つまり、これは利益のため」
「一企業が、記憶喪失の人を使う? ない。もっと小さい単位で。
唆す人間は一人で足りる。大きな見返りがあれば、リスクは取れる」
「見返りはどこから?
ミンテージの不祥事が露見すれば株価は落ちる。現金を焼けば信用は地に落ちる。代わりに電子通貨企業が上がる」
「毎日株価をチェックするお兄ちゃんは、誰にも会わずに、最高値そのものを“合図”にできる。
合図が立てば、どこかの誰かが売り抜ける。——それが報酬」
彼女は首を傾げた。
「……どうかな?」
「……天才だな」
「それって——私のため?」
「違うんだ」
「そっか。じゃあ、何のため?」
「きっと……自分のためだ」
「きっと?」
「過去の自分か、今の自分。……どちらかの」
短い沈黙。
アスファルトを切るタイヤの音が、遠くで細く鳴る。
「でも、いいの。お兄ちゃんの行為は、どうせ回り回って私のためになる」
「そんな綺麗なもんじゃない。俺はカスだ」
「カスでも大好きだよ」
彼女は、力の抜けた俺の手を握る。
その弱さが、優しさの形に見えた。
「私にとって、法律も道徳もルールもマナーも、どうでもいい。
いちばん大事なのは、自分の心」
「私たちはキャラクターじゃない。生きてる人間。
時に間違うし、意味のない行動もする。
一貫した“誰かの産物”じゃない」
彼女はことばを置き、まっすぐに見る。
「だから、あえて言うね。お願い」
「死にたくない。助けて、お兄ちゃん。どんな手を使ってもいい」
「だから、全部が終わったら——」
「一緒に不幸になって?」
それが本心だと、即座に分かった。
同時に、思い出す。かつてのアダム・エデンソンが唯一守りたかったもの、大切を。
記憶喪失でも関係ない。
やるべきことは残っている。
守るべきものはまだここにある。
何を代償にしても——
俺の道徳を。道理を。肉体を。痛みを。精神を。
そして、心を差し出しても。
“心より”大切なものが、まだ辛うじて息をしていた。