第七話 『 お引き立て 』
「こちら通信指令──201、応答せよ」
乾いた無線が、警事企業RePoliceの車内を震わせた。
応答は一拍、呼吸の間を置いて返る。
「201、応答中。どうぞ」
「○時○分。ミンテージ実貨幣統制社・中央支店より非常通報。
強盗の可能性。場所はハイランド、○○区△△一丁目四番。至急、現地確認を」
「201、了解。現在地から南へ三百──直行する」
運転席の警官がサイレンスイッチに指をかけた。
赤色灯が点灯し、都市の騒音とは異質な警報音が、街の皮膚を逆撫でした。
「犯人は1名との報告。銃器所持の疑いあり。
市民との接触は極力回避。状況確認を優先せよ」
「了解。201、現場到着次第、続報を送る」
*
数分後、車体は歩道の縁石を跨ぎ、目的地前で停車する。
ブレーキのきしみより先に、隊員が報告を送った。
「こちら201。現場到着。外観に異常なし。店内の視認不可。
通行人の避難誘導を開始する」
「了解。後続部隊が向かっている。建物外周を警戒。無線開放し、接近は避けよ」
助手席の隊員がガンラックからライフルを引き抜いた。
非殺傷型──液体金属弾。
薬室を確認し、同僚と目を合わせる。
「通行人の避難完了後、正面封鎖を行う。201、待機中」
「本件、重大事案コード91として進行。
後続到着次第、突入せよ」
車のドアが開き、彼らは都市の静寂へと歩み出た。
「《リポリス》は通報から二、三分で姿を見せる。
初動は交通遮断と人員誘導、それから建物の包囲──ああ、ちょうどあそこらへんに止まる」
ファーストがフロントガラス越しに指を差した。
言葉は説明ではなく、演出に近い。
車はミンテージ中央支店の向かい、駐車場に潜ませてある。
助手席の俺は、その指先を追うように首をかがめた。
「……せま。アンタの車、せまい」
「おい。これがな、俺のイースト・マッスル様だ。ヴィンテージ。マッスル。
乗せてもらってるだけありがたく思え」
「ダッシュボードに足も乗せられない」
「乗せるなバカ」
狭さは戦闘機のコックピットのようで、もはや車というより兵器に近い。
車体の腹の奥から、呻くような低周波が立ち上がっていた。
過去に遺された金属が、未練のように空気を揺らしている。
「……時代は変わった」
ファーストが言った。口調は説明というより、反芻だった。
「価値観は更新され、銃弾はもはや実弾ではない。
撃つことは殺すことではなく、制圧を意味する行為になった。
犯人が一人であるとわかれば、警官数人で突入するだろう。
その合理性に、死の確率など考慮されない」
「リポリスねえ……」
俺は小さく言った。
「自動警察の実働隊なら、見たことがある」
ファーストは答えず、窓の向こうに目を凝らしている。
その姿が静かすぎて、思考が空白に沈んだように見えた。
「……どうした?」
「いや、なんでもない」
彼は眼差しを戻し、言葉を再開する。
「リポリスは自動警察の下部企業。ミンテージの契約相手だ。
本家がシェアを独占してるせいで、世間の目も集中しすぎる。
彼らはその“一枚岩”に綻びをつくる名目で生まれた。
だが、出来立てほやほやの企業に、重大事件をどうこうできる力は無い。だから実銃事件と分かれば、自動警察が出てくる。……エキスパートだよ、奴らは」
「じゃあ、奴らが来る前に逃げるのか?」
「逃げられない。包囲されたら最後、撃ち伏せられる。
そのリスクは計画段階で計上済みだ」
「じゃあ、どうやって?」
「……おいおい。計画書を読んでないのか?」
「再確認だ」
ファーストは、指先でハンドルをトンと叩いた。
ピアノを弾くように、無音の鍵盤を鳴らす。
「金庫室の床に、大穴を開ける」
言葉だけで聞けば、冗談めいていた。だがその抑揚は冗談を拒否していた。
「液体金属で腐食させるのか?」
「扉と外装は無理だ。プラチナ合金とカーボン系複合材。腐食不可能」
ファーストは言い、顎で自分の後部座席を示す。
「見てみな」
狭い車内。身をよじらせて振り向くと、ダッフルバッグがひとつ、突っ込まれている。
ファスナーを開くと、粉末──銀灰色の粒子がパックに詰められていた。
「火薬か?爆発させるんだったか」
「いや、溶かす。混合粉末だ。アルミニウムと酸化鉄。おまけに着火剤のマグネシウムリボン。
着火すると、テルミット反応が起きる。
温度は──3000度。鋼鉄を、バターのようにする」
「それで床を?」
「そう。次に、金庫室を密閉する」
ファーストの口調は、すでに手順を追体験するかのように滑らかだった。
「内部が燃え、酸素が不足する。
そのタイミングで、床下から新鮮な酸素が流れ込む。
そうすれば──爆発が起きる。バックドラフトだ。
床が破れ、人ひとり通れる穴が出来上がる」
俺は座席に戻って、彼を見た。
「……金庫室の下に、空間があるのか?
そんなバカな設計、あるわけ……」
「ちっちっちっ」
ファーストが指先を振る。揶揄のリズム。鼻にかかる皮肉。
「この都市を忘れたか? スタビリテは廃墟の上に立ってる。
構造物の死骸の上に、再生した都市だ。
ミンテージの下には、旧い建築物がある。
つまり──インサイド。
金庫室は外部からの侵入を防ぐため、半地下に造られてる。
結果として、旧層と接してるんだ」
「じゃあ、下から盗めばよくないか?」
「誰かがそう思ったんだろう。だから下の階層は潰された。
各フロアの床を取り除いて、30mの空洞をつくった。
……地獄のような吹き抜けだよ。落ちれば一巻の終わり」
「なら一巻が終わるじゃないか」
「安心しろ。お前は死なない」
「いや、死なないってことが問題じゃない。
怪我すらしたくないんだが」
ファーストは笑わずに笑った。
手元のシフトレバーに触れ、車を路上へと滑らせる。
──計画はすでに、走り始めていた。
*
──実働部隊を乗せた黒いバンが、
都市の心拍に似たリズムで震えていた。
車内。
四名の隊員が、揺れる座席の中で黙していた。
誰も語らず、誰も鼓動を漏らさない。
ただ、スピーカーのように命令だけが、一名の女性隊員の口から再生されていた。
「以下、伝達。
対象施設はミンテージ実貨幣統制社・中央支店。
犯人は契約企業RePoliceの警備員4名を銃撃し、無力化。
生存警備員の証言より、犯人は『実弾式拳銃』を所持している」
隊員たちは、命令の意味を問わない。
言葉は、従うためにある。
ライフルの弾倉が外され、装填が確認される。
黒いグローブが、弾帯のロックを弾く。
「現在、犯人は施設バックヤード──金庫室に侵入、占拠状態。
人質1名。
通信信号を確認済みのため、ジャマーは稼働中」
車内の空気が硬化する。
殺気ではない。任務だ。
暴力は、この中では手段に過ぎない。
「案件分類:交渉非対応・強制制圧対象。
発砲許可済み。制圧優先。目標の確保は副次とする」
ある者はヘルメットの内側に指を差し入れ、バイザーを固定した。
また一人は、チェストリグに固定された『自動警察』のワッペンを指でなぞった。
そこに誇りはなく、ただ責務だけが宿っている。
「突入経路:施設北側 第一接近ルート。
映像補正モードON、暗視・遮蔽下での突入を許可。
C2プロテクター装備。
閃光弾の使用は現場判断に委任」
「再確認──
犯人は“旧型致死弾”使用の可能性あり。
制圧完了後、即時現場封鎖および記録遮断を実施のこと」
指揮官の声は、女であるという情報さえ意味を持たないほど、機械的だった。
バンが減速した。
車体が左右に揺れ、そして沈黙の中で停止する。
「──状況、開始」
号令と同時に、後部ドアが跳ね上がる。
隊員たちは訓練された無音で飛び出した。
ライフルを構え、隊列を成しながら、施設の外周を滑るように移動していく。
足音、気配、息遣い──すべてが遮断されていた。
だが。
その時だった。
建物の内部。
密閉された空間から、遅れてやってきた衝撃波が、空気を突き破る。
──爆発。
一瞬で、空間の密度が変わった。
音の前に、風が肌を裂いた。
地面が揺れた。
建物の窓が震え、埃が噴き上がった。
隊員たちは止まらない。
それは想定内だった。
すべての異常は、“記録”されなければ、異常とはみなされない。
「突入開始」
指揮官の声が、崩壊しはじめた都市の境界に、次の命令を焼きつけた。
自動ドアが開く前から、隊員たちはそこに滑り込んでいた。
反応は指先より速く、命令よりも正確だった。
「自動警察だ!」
声がロビーの静寂を貫いた。
そこに応答はなかった。人影もない。
ただ、制度の声だけが壁に反響して返ってきた。
隊員たちはロビーを抜け、バックヤードへの扉を左右から包囲する。
「マスターキー」
女性隊員の指示に、ひとりが背からブリーチングショットガンを抜き取る。
銃口がロック機構に押し当てられ、瞬間、鋼鉄が火花を散らして崩れた。
間髪なく、別の隊員が扉の向こうに飛び込み、クリアリングを開始。
命令の余韻が空間に残る前に、全員がその後へ続いた。
廊下を抜け、階段を降下する。
熱気が空間の密度を変えていた。
それはもはや、人の営為があるべき環境ではなかった。
金庫室前。
ひとりの男がいた。
高級なスーツ。背筋の通った佇まい。
だが、その姿には何かが欠けていた。中心のようなものが、抜けていた。
「跪け!」
命令が響く。男は両手を上げ、膝をついた。
「な、なんだ、あんたら……?」
「黙れ」
背後から制圧。両腕が縛られ、引き倒された。
部隊の視線は、その先に移る。
金庫室──黒い煙を吐き、熱を噴き出す空間。
人が生きられる条件を拒絶した、制度の心臓部。
「フラッシュバン」
ひとつの指示。
手榴弾が放物線を描き、黒煙の中へ吸い込まれていく。
閃光。爆音。
その瞬間、視覚と聴覚は制度の所有物となる。
「ブリーチング!」
「自動警察だ!」
声とともに隊員たちは突入。
一斉に分散し、部屋の隅々を確認する。
しかし。
「……いない」
沈黙。
空っぽの金庫室。
焼け焦げた床。灰に埋もれた空間。
ただひとつ──煤の中に浮かぶ、“穴”がそこにあった。
煤に塗れた床面が、まるで切り取られたように抉られていた。
その深さは、光の届かない境界へと続いている。
「社長」
声に応じ、女性隊員が前へ出る。
銃のフラッシュライトが、穴の内部を照らす。
何も見えない。闇だけがあった。
彼女はケミカルライトを折り、ぽとりと穴へ投じる。
数秒の沈黙。
──着水音。
底面は、水だった。
「状況終了」
その言葉は、誰に向けられることもなく、
ただ暗黒へと吸い込まれていった。
──数時間後、報道が流れた。
“ミンテージ実貨幣統制社・中央支店にて、実銃を使用した武装強盗が発生。
犯人は金庫室に侵入後、内部の紙幣を焼却し、現場から逃走。
金品は一切持ち出されなかった模様”
静かな声で、アナウンサーが読んでいた。
その語調に、感情はなかった。
報道の最後。
男の名前が告げられた。
──『スワン・アイデンテ』。
俺が選び、演じた“無辜の他者”の名だった。
それは記録され、拡散され、アーカイブされた。
報道とは、記憶の供養である。
*
俺は、ニュースアプリの液晶を静かに閉じた。
夜の都市に、光がまたひとつ減っていた。
ローランドの鉄橋下。
塵だけ残った焚き火に、数人の影が群れていた。
誰も名前を問わない。誰も意味を要らない。
バッグから、脱いだ衣類を取り出した。
安物の合皮。架空の容姿。
そして、ドミトリの腕から奪った時計──
金と時間の象徴。
「……金品は持ち出さなかった模様、か」
その声と同時に、手にした時計を、炎の中へと落とした
衣が火に飲まれ、金属が熱で歪む。
チチッと音がして、内部の歯車が爆ぜた。
その音を聞いていた誰かが、笑った。
俺は何も言わず、焚き火に背を向けた。
足跡は、もう残らない。
ただひとつ、灰だけが風に乗って、夜へと消えた。
焼却したのは貨幣で、手にしたのは沈黙の時間。
無灯火な都市の電波には、ただひとつ──
犯罪者スワン・アイデンテを称える言葉だけが、静かに流れていた。