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第五話 『 平素 』

あらすじ:

教会裏、機械仕掛けの自販機がひとつ、液体金属に溶けて崩れ落ちた。

その傍らで、記憶を失った男は、誰かの“旧い知己”を名乗る者と銃を交えていた。

付き纏う殺人衝動。

マグナム弾が空気を引き裂き、即席の冷却弾が肉を抉った。

それは暴力という形式での“照会”だった。


男は消えた。

残されたのは、記録に存在しない病名——ペルゲ病。


この世界において、“記録されないもの”は、存在しないもの。

だがその病にこそ、彼の“妹”と称される少女の命は関わっているという。


医師の手により肩を整復されながら、彼は静かに言葉をこぼす。


「何も知らずに生きるのは、嫌なんだ」


それは自己確認ではなく、選ばれた過去への、予感だった。

──翌日。


再び足を運んだファストフード店には、前夜の余熱がわずかに残っていた。


昨日、妹と笑い合ったテーブル。

冷えたカーディガンの内ポケットに、再装填された拳銃が沈黙している。


肌に馴染み始めた金属の質量。

もはや“所有物”ではなかった。これは、俺の一部だった。


無人のカウンター。

タッチパネルで完結した注文システムは、客という匿名を均質に処理していく。

昼時の雑踏と脂の香りが、あの日の緊張を嘲笑するようだった。


だが、空間の一角に──異物がいた。


客観的には、どこにでもいる中年男。

だが俺の目には、空気の輪郭を歪ませるような“不自然さ”を纏っていた。


彼は、ドラム状のフライドミートを噛みちぎっていた。

その粗暴な所作に、イヴの繊細な食べ方が逆照射される。


──吐き気がした。


俺はゆっくりと、彼の向かいに腰を下ろした。


「……来たのか」


「想定外だったか?」


「いや。願ったり叶ったりさ」


言葉は軽いが、油に濡れた眼差しは俺を観察していた。


俺はテーブル下、布越しに銃を構える。

交渉は、信頼から始まらない。


「“ペルゲ病”──あれは、何だ」


昨日から、ずっと喉の奥に引っかかっていた言葉を吐き出す。


デブリドですら知らなかった病名。

だが、こいつは違った。


「おいおい、いきなり核心かよ。そういうとこ、女に嫌われるぞ?」


「こう聞いて欲しいのか。“アンタは誰だ?”」


「そうこなくては」


男──名乗り出すそれは、食べかけの肉を呑み込み、油に濡れた指先を差し出した。


その親指を舌でゆっくりと撫でながら、言った。


「俺の名は《ファースト》。訳あって、“ペルゲ病”と名付けた奇病を追ってる」


「ふうん。じゃあ、がんばれよ──」


俺が席を立とうとした瞬間、手首を掴まれた。


「おいおい、どんだけせっかちだよ。そんなんじゃ、人間にもモテないぜ?」


「俺はな、病の“実態”と“治療法”をお前が握ってると思って来たんだよ。

 ──でも、いま“追ってる”って言ったよな?」


「ああ。事実だ」


「ってことは……お前自身、何も分かってない。そうだろ?

 治療法も、症状の全容も。──つまり、“ペルゲ病”は、まだお前の中ですら名前にすぎない」


ファーストは、ため息をつくと──俺の腕を撫でた。


脂ぎった掌。


摩擦はなく、ぬめりだけが残った。


「……気持ち悪ッ!?」


「言ったろ? 俺ら“で”、探すんだよ」


「……俺ら、だと?」


ファーストの言葉は、警告でも提案でもなかった。

それは、すでに前提として立てられていた“条件”だった。


「記憶喪失なんて……恥ずかしくないのか?」


言葉の切れ端のように、ファーストはナフキンを投げて寄越した。


俺はため息混じりに席へ戻り、手首を拭った。

脂の膜が皮膚に残る。


「──“病を追ってる”ってのは、どういう意味だ」


「先は、昨日も言ったように、表じゃ語れないことだ。

 ……着いてこい。ここを出る」


彼は残された食べ物を意にも介さず立ち上がり、店のドアを開いた。


ファーストの後ろ姿に、無意識に脚がついていった。

否応なく──というより、すでにそれが前提だったかのように。


奴は無言のまま“垂直交通”に乗り込んだ。


エレベーターというよりは、都市そのものを貫く“昇降器官”。

動脈のような軌道に沿って、俺たちは下降していく。


「……高所恐怖症だったな」


窓の外を見ながら、ファーストが言った。


「──俺を知ってるらしいな」


「ああ。昨日も言ったろ?」


情報は、すでに俺の背中より先を走っていた。


──この男は知っている。

──どこまで知っているのか。


問いは浮かぶが、答えは得られなかった。

ただ、エレベーターは下へ下へと滑り込む。


扉が開いた。


眼前に、透明の海があった。

あの日、教会の前から見えた海とは比べものにならないほど近かった。


湿り気を帯びた塩の匂いが、鼻腔を満たす。


足元には、崩れかけた舗装。

道端にはゴミ、あるいは“人の痕跡”のようなものが散乱していた。


「ここは、貧困地域ローランド。貧困層の最前線。

 海面上昇によって切り捨てられた都市の“下地”さ」


富裕地域ハイランドとは真逆、か」


「ここの住人は、記録にも記憶にも残らない。

 だが、ここにしかない情報もある」


歩道脇、歪んだ化学繊維のテント。

熱と腐臭、燃え残り、誰かの咳。


文明の“底面”だった。


ファーストは、物見遊山のように歩を進めた。

やがて、コンクリート製の低層構造物の前で足を止めた。


「ここだ」


ボタンが押され、錆びた重厚扉が開いた。


「……これも垂直交通か?」


「正確には、“かつてのエレベーター”。──乗れ」


狭い箱の中。

向かい合う形で立つ。


扉が閉じ、即座に降下が始まる。


重力が、身体の中から抜けていくようだった。


「これは、どこに行く?」


「お前、質問多いな。記憶喪失ってやつは、みんなそうなのか?」


「……聞いてるんだよ」


「スタビリテの地下層、内部地域インサイド


「インサイド──?」


「そう、都市の臓腑。制度の影。記録の余白」


エレベーターは、なおも降り続けていた。


都市は、積層でできている。

過去の上に、現在が乗り、未来はその重みによって歪められていく。


──“インサイド”とは、かつて沈んだ都市の断面だった。


海中から奇跡的に呼吸を許された空間。

空調が残り、構造が保たれ、だが光だけが死んでいる。


「別名、掃き溜め。日の目を浴びられない人間が、最後に吸い込まれる場所だ」


電子音。

扉が滑るように開く。


見渡す限りのオフィス。

フロアに並ぶデスク。破れた書類。焼けた端末。

それらは誰かの“過去の作業”ではなく、“見捨てられた記録”だった。


「……人っ子一人いないな」


「人が住むインサイドもある。だが、ここは違う。“俺ら”専用だ」


その“ら”に含まれるものを問う暇もなく、俺は誘導された。


ミーティングルーム。

会議と呼ぶには空虚すぎる空間に、ただ、テーブルと椅子だけが残っていた。


ファーストは、崩れるように椅子へ沈み込んだ。

俺も、椅子を引いて腰を下ろす。


「……ここで話す理由があるのか?」


「ここは痕跡が残らない。デジタルの目も耳も届かない。都合がいいんだ」


「犯罪者の常套句だな」


俺が鼻で笑って言うと、奴の顔だけが笑っていなかった。


「──聞いたことはないか?」


「政府が機能を失った時、誰が病を定義する?」


「……それは、医師でも学者でもない。“患者自身”だ」


俺は言葉を失った。


「そうさ。ペルゲ病を解明するには、企業を動かす必要がある。

 だが、金がなければ企業は動かない」


ファーストは、ジャケットの内ポケットから一通の封筒を取り出す。


──切手。手書きの宛名。

一見して、ただの“私信”。


「偽装か」


「電波は誰に盗まれてるか、わからん時代だからな」


俺は、イヴの言葉を思い出した。

“手紙は、真心が伝わるから好きだ”


──それが、真心を隠すための道具になっている。


俺は封を切る。

中から一枚の計画書。


──『ミンテージ実貨幣統制社 襲撃』。


……犯罪だった。


誰がどう言おうと、そこにあるのは“攻撃”という意図。

それはペルゲ病の真実を暴くためという名目を纏いながらも、

確かに、**社会を壊す側の力学**を持っていた。


「……本気で言ってるのか?」


「他に方法があるか?」


静かな問いだった。

だが、選択肢は提示されていなかった。


──文面の冒頭に、狂気があった。


「貨幣を統制する企業って……銀行強盗かよ。正気か?」


声に棘が混じる。

だが、ファーストは一瞬の間も置かず、俺を見据えて言った。


「これは、“俺たち”で練り上げた計画だ。もし正気じゃないとすれば──お前もだ」


「イカれてる」


「最後まで、読めよ」


促され、目を走らせる。

紙の端、注釈のように挿し込まれた文字が目を撃った。


──『バックドラフト現象』


火災現場の封鎖空間に酸素が流入した際、爆発的燃焼を起こす現象。

それは、かつて俺が……“ダニエル”を葬るために使った知識だった。


マイナーな概念。日常で出会うことはない。


「……俺は、これを知ってる。見たことがある」


言いながら、背筋が冷える。


「だろ?」


ファーストは、当然のように頷いた。


「──アンタは、昨日この書類を持ってたから、教会に入らなかったんだな。

 いくら偽装していても、警察の網にはかかる可能性がある」


「それもあるが……俺の愛銃はマグナムだ。

 誰が見ても異常な武装者。自動警察の視線を避けるには不適格すぎるだろ?」


言い終えると、ファーストはジャケットの内側からマグナムを取り出し、机に置いた。

──俺の肩を貫いた、忌々しい鉄塊。


「……そして、ここには“R9-ARMS”を使うと書いてある。実銃があるのか?」


「知ってるのか?」


「昨晩の会見で聞いた。違法な致死性銃器リーサルウェポン。社長の“イチジク”が出てたやつだ」


「なら、話は早い」


ファーストは立ち上がり、部屋の隅へと歩く。

壁の換気口。ボルトを素手で回し、蓋を外す。


中から現れたのは、白と黒の混合フレーム。

威圧的なフォルムの拳銃。


──R9-ARMS。そのレプリカ。


「実銃じゃないが、外見は完璧に再現してある。

 この形を見て、逆らえる人間はいない」


ファーストは銃のグリップを俺に向ける。

だが、俺の手は動かなかった。


それは──既視感に似ていた。


この銃を、俺は知っている。


“ダニエル”が持っていた。

警官を殺した銃。

俺が撃とうとした銃。


──人を殺すための銃だった。


手を出せなかった。


「……これを実行するのは、俺一人なのか?」


「当然だ。実行するのはお前。

 ここまで御膳立てしたのは俺。助かるのは、お前の妹。それで十分だろ?」


問いは、言い訳のようだった。


ファーストは銃を置き、書類を並べ、静かに座り直した。


机の上に、“選択”が整列していた。




「──受け入れられない」


俺の声は、紙と銃に囲まれた空間に、湿った硝煙のように漂った。



「は? 妹を助けたくないのか? 記憶を失って、家族愛も喪失したか?」


ファーストは嗤い、煽る。


「助けたい。──けど、これは“犯罪”だ」


「犯罪なら、助けないのか?」


「他に道はある。信頼できる医者がいる」



ファーストは、深くため息をついた。



「……余程、俺に片棒を担がせたいらしいな。

 ──アンタがペルゲ病を追う動機は何だ?」


俺は尋ねた。


「昔、俺の妻がそれで死んだ。知りたいのさ、あの病の正体を」


淡々とした声だった。

あまりに、あっけなかった。



「だがな、これは記憶を失う前の“お前”が出した答えでもある。今のお前より、状況はよく見えていたはずだ」


「──なら、そいつは気を違えてたんだ」


「世の中は“相対”と“不平等”で出来てんだよ。幸福は、他者の不幸という比較軸がなければ測れない。だが、お前の妹は罪を犯したわけでもないのに病んでる。不平等だ」


彼は、淡々と、世界の冷酷を解説してみせた。


「なら、お前も加担すればいい。苦しむ者を減らす側に回れよ」


「……それは、道徳のパロディだ」


「だから?」


あまりにも白々しい返答に、言葉を失った。



──俺は、罪を犯す気はない。



かつて“ダニエル”を撃とうとした過去がありながら、日常を取り戻した。

デブリードは言った。イヴにとって、俺は“薬”だと。


なら、その“処方箋”として生きる。


記憶を失っても、かつての“アダム”として。



「先の知れない妹を放って、記憶も他人も関係ない企業刑務所で生き直す気はない」


「……チッ、根性なしか」


俺は書類を封筒に戻した。

指で糊を馴染ませ、封を閉じる。


机に滑らせて返した。


「そうだな。俺は──“アダム・エデンソン”じゃないかもしれないし、そうである必要もない」


──それは、自己放棄ではなく、仮のアイデンティティに対する拒絶だった。



俺は一秒でも早く、ここを去るつもりだった。

いや、ファーストという異物を、この視界から消し去りたかったのかもしれない。


「……わかったよ」


彼はようやく、折れるように言った。


「でも、気が変わったら、架電だけしてくれ」


ジャケットの内側から、小さなメモ帳を取り出す。

滑らかに指が動き、千切られた紙片が手渡される。



「……公衆電話でいいなら、頭の片隅に入れとく」


「それで十分だ」


俺は何も言わず、背を向けた。

“ファースト”という名の選択肢を、背後に置いて。


地下空間を出る。

酸素のにおいが変わる。




──閉鎖空間インサイドを抜け、街はまた日常の表情を取り戻していた。


暗闇の先で、息をしていた。


皮肉だった。

どれだけ地下で世界の構造を理解したつもりでも、太陽の下では何も変わっていなかった。




扉を開けると、声が出迎えた。


「あっ、おかえり」


それは、俺の中の“現実”の輪郭だった。


病室はすでに、イヴだけの個室に変わっていた。

俺はその片隅、客用の椅子に寝袋を敷いて、そこを自分の場所としていた。


言葉にできないほどの安心があった。

そして、それは“脆い”という実感でもあった。



「仕事……どうだった?」



イヴは気遣うように問いかける。

職探しの名目で、俺は外出していた。

数ヶ月の休みを得て、それは急務だった。



「うーん、今日は……な」



答えにならない応答。

それでも彼女は、黙って頷いた。


俺はふと、その顔色に目を凝らす。



「どうした? なんか、変だぞ」


「え……?」



その声音に、体温より高い“熱”の兆しが混じっていた。

病床に近づき、頬を指先で触れる。


熱かった。


「……デブリドを呼ぶ」


ナースコールの子機を握り、押す。

電子音が鳴り、廊下の奥で靴音が響きはじめた。


だが、それよりも早く、イヴの声が届いた。


「ねぇ……お兄ちゃん」


か細く、震えるような声だった。



「私のせいで、負担かけちゃって……ごめんね」


「何の話だよ?」



とぼけた。

でも──わかっていた。


彼女がずっと抱えていたのは、**生きることへの遠慮**だった。

ただでさえ細い体で、誰かの心に“存在”として乗っている自覚。



「私がいなくなったら、もっと自由に」

「そんなこと、言うな」



遮った。

あまりにも脆くて、聞きたくなかった。


病室の扉が開く。

ナースが現れた。


「どうしました?」


「妹に、熱があるようなんです」


言葉は自動的に出た。


やがて、デブリードが呼ばれ、白衣のまま病室に現れる。


彼女は、無言でイヴの元へ寄り、

聴診器を耳にかけた。


イヴは抵抗せず、静かに衣服を開けた。


その仕草を、俺は見届けない。


無言のまま、病室を出る。


壁際に背を預け、時間の通過を待った。


──そして、デブリードが出てくる。



「不定期な発熱症状ね」


デブリードの声は、壁に投げかけるように低かった。


「……病のせいか?」


「ええ。断言はできないけれど──よくあることよ」


俺は、うなずくことすらできなかった。


「……ペルゲ病について、何かわかった?」


それは、真正面からの問いだった。

彼女は、最初からこの言葉を言うためだけに廊下へ出てきたのかもしれない。


「……あの病名は、ある男が個人的に呼んでいた。

 同じ症状で死んだ者がいたらしい。だが、医学的には何も──ない」


「……そう」


デブリードは、それ以上追及しなかった。

それだけで、すべてを理解していたようにも見えた。


「イヴは……やばいか?」


「わからない。でも、このままでは“よくない”ことだけは言える」


残酷だが、それは誠実な診断だった。


そのとき、ポケットで小さな震えが起きた。


──着信音。


ズボンの内ポケットから携帯を引き出す。

液晶には、たった一語。


『オフィス』


……まさか、ファーストか?

《インサイド》のどこかで、電波を拾ってかけてきたのか。


「……もしもし?」


「アダムさん? レンタルオフィスの件でご連絡を——」


「……?」


電話の相手は、無関係の人間だった。


だが、それはそれで、奇妙だった。


*


病院から徒歩数分の距離にある、無機質なビル。

その一角で、俺はオフィスの“オーナー”と名乗る男と向かい合っていた。


「記憶喪失、ですか。それは困りましたね……」


「申し訳ない。自分が、こんな部屋を借りていたなんて知らなかった」


「こちらとしても困っていましてね。アダムさんの口座から、今月分のレンタル料が引き落とせなかったんです」



……口座残高が、ない?



「ですから、今週中にお支払いいただけない場合は、オフィスを明け渡してもらうしか……」



彼は事務的にそう言うと、プラスチックの名刺一枚を残して去っていった。


残された俺は、目の前のスライドドアを見つめた。


光を反射する曇りガラス。

中は一切見えず、ただ“自分がここを借りていた”という情報だけが、無根拠に突き刺さる。


知らないはずの記憶の遺物。


……この扉の向こうに、過去の“俺”がいるのかもしれない。



オフィスの扉は、俺の静脈を認証し、滑らかに開いた。


──そして、閉じた。


まるで“選択”を封じ込めるかのように。


中は、静かだった。

だが“沈黙”ではなかった。

むしろ、“何かが今も進行している”という圧があった。


視界に広がるのは、紙の山だった。


書類ではない。

──細かく裁断された紙片たち。


中には、まだ稼働中の電子裁断機もある。

いくつも、無造作に転がっていた。


壁には、一枚だけ“生きた”紙が残されていた。


『ミンテージ実貨幣統制社 襲撃』


──あの文字列。


見たはずだった。たしかに、昨日。



「……冗談だろ」



壁から紙を引き剥がす。

自分でも驚くほど、雑な手つきだった。



「こんなもの、どう処理すればいい?」



俺は裁断機のひとつを手に取り、紙片を挿し込もうとした。

だが──動かない。


──すでに満杯だった。


「中身を……出すか」


シュレッダーを開け、中を逆さにする。



紙片の洪水。

だが、その中に混じって、“音の違う物体”があった。


──ドシャ。ガシャ。


鈍い箱の音。

中では重々しい何かが、揺れている。


指先が触れたものは、ただの立体ではなかった。


それは──弾薬箱だった。


『ウィンチェスター社製 12ゲージ液体金属散弾』


──ショットガン用の弾薬。

表記には、“子供の手の届かない場所に”と書かれている。


それは、**俺が子供ではないことを告げるメッセージ**にも思えた。


「……」


脳裏に、可能性が蘇る。

“弾”の使い道を、俺は知っている。


俺は、紙片の山を蹴り散らした。

破られた情報の雪崩。


その下に、何かがある気がした。


──予感ではなく、“既視感”だった。


手が、ある包みを掘り当てる。

慎重に剥がす。


そこにあったのは──


──**銃だった。**


実体のある、“意志なき選択肢”。


それは、自分が“選ばなかった側”の未来が、なおも息をしている証明だった。


──ショットガンがあった。


それだけでは、なかった。


5.56mm口径のアサルトライフル。

9mmのサブマシンガン。

.45ACPのハンドガン。


──秩序の埒外が、そこに整然と並んでいた。


恐る恐る他の裁断機を開封していく。

紙片の海の底から、弾薬のラベルが次々と現れる。


5.56mm、9mm、.45口径。

それらは、**予定調和のように存在していた。**



「……戦争でもする気かよ」



笑うしかなかった。


誰がどう見ても、これは**“個人の防衛”の域を超えていた。**


これを所有した者は、大犯罪者だ。

それはかつての“俺”だったのか?


──沈黙は、肯定だった。


頭を抱える。

頭痛がする。

ここにあったのは、過去の遺産ではない。**現在進行中の罪**だった。


「……処分できない」


そう結論した。


──“それ”を見られたら、終わりだ。


オフィスのオーナーの声が蘇る。


『ご入金いただけない場合は、退去いただく他ありません』


このままでは、誰かに“ここ”が開けられる。




──金が必要だ。

誰かの命じゃない。ただ、“今”をやり過ごす金が。




視界の隅、デスクの上に固定電話。


受話器を拾い上げる。

耳に当て、ゆっくりと深呼吸する。


──紙片。ファーストから渡された番号。


一桁ずつ、ゆっくりと押していく。



──最後の数字を押した瞬間、呼び出し音の向こうから、声が届いた。



『それがあってこそ、我々はここに在る。

 結果が生まれたという意味において──“必要悪”だったと、そう考えますな』



神父の声だった。

都合の良い、神の代弁者。



──善い結果のためならば、悪を肯定できる。


それは、犯罪者の論理だった。



俺は、息を飲んだ。


「……もしもし?」


ファーストの声。



「あの話だ」


「なあ、心変わりが早すぎないか?」



その声の裏に、隠しきれない“喜び”が滲んでいた。


ファーストは笑っていた。




そして、俺の“平素”は──とっくの昔に崩れていた。


崩壊の音は、ようやくこの耳に届いたばかりだった。

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