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第三話 『 時下ますますご清栄 』

あらすじ:

病院のベッドで目覚めたアダムは、自らの記憶が欠落していることを自覚する。

彼に付き添う少女イヴは、自らを“妹”と名乗るが──記憶の裏付けがない。


担当医デブリードは、どこか皮肉に満ちたユーモアで彼を支える。

“社会的死者”となったアダム。

彼が出るのは、高層に築かれた都市の上層階ハイランド

そこは、倫理で統治される“企業による法治”が日常化した、規範なき秩序の街。


記憶を持たぬ男が手にしたのは、妹の笑顔と、錆びついた違和感だった。

彼は未だ、自分が“何を失ったのか”を知らない。

「お財布、ちゃんと持った? 最悪、金があれば助かるわ」


母のような声色だった。

それが彼女の地なのか、演技なのかは判別がつかなかったが──

少なくともその瞬間、彼女は俺の“保護者”だった。


「そんな子供みたいに……というか、金て」


「ほら、貴方の記憶は、保証されてないから」


冗談めかしたその一言は、しかし確かに事実だった。

笑いに変換されなければ、呑み込まれてしまう事実。

彼女はそれを、日常の言葉に翻訳する能力を持っていた。


ナースステーションの隅。

俺は出発直前、白衣のデブリードに呼び止められていた。


記憶を失った俺にとって携帯電話は、ただかけられた通話に出るための光る受話器でしかなく、社会的身分証明も持ち合わせていない。

病院への支払いは、どうやら口座から自動引き落としらしいが──問題は、今この瞬間の“現金”だった。


「未だに、現金文化って残ってるんだな」


ぽん、と薄い財布を手のひらで弾いた。


「最も古く、最も確かなもの。そう信用があるからね」


デブリードはそう言って、何でもないように笑った。


「……まぁ、理屈はわかる」


そのときだった。


「そうそう──」


思い出したように白衣の内ポケットを探りはじめた彼女を、俺は無意識に覗き込んでいた。


まさかそこから拳銃が出てくるとは──


黒金の塊が、彼女の手の中で重みを孕んで姿を現した。

現実にしては唐突すぎる絵面だった。


「行き先は富裕地域(ハイランド)

 たぶん大丈夫。でも“念のため”ってやつよ。……扱い方、忘れてないわよね?」


「まあ、それは大体……」


受け取ったそれは、意外なほど軽かった。

もしくは──俺の記憶が重すぎたのかもしれない。


「こういうのって、使うのも、使われるのも、どっちも気が重い」


「安全のために持つの。過剰じゃないわ。

 いまどき、自衛のために武器を携帯するのは常識。

 病院の外は自由。でも帰ってきたら、ちゃんとセキュリティゲートを通ること」


「……了解」


銃を眺める俺に、デブリードは頬杖をついて視線を投げた。


「液体金属弾よ。死にはしないけど──ちょっと……いや、まあまあ……病院送……うん、結構痛い」


痛みの程度を釣り上げるそのオークションが、妙に現実的だった。

優しさは、こういう不器用さに宿るのかもしれない。


「……その液体金属弾って、実弾と何が違うんだ?」


前から気になっていた疑問を、ついでに口にする。


「ここ“安定のスタビリテ”では、政府が崩壊した後、旧来の実弾は廃止されたの。

 当時、過剰な移民と武装侵入が日常化していて、政府は暴力の“殺傷性”を消そうとした。

 代わりに採用されたのが、非殺傷の液体金属弾──物理的には弾丸。でも中身は“痛みだけ”を伝える武器」


「……それだけ聞くと、平和的っぽいな」


「実際はね、暴力の“演出”だけが残されたってわけ。

 抵抗力は弱まって、実弾の脅威性は増したけれど、死人は減った。」


彼女の言葉は静かだったが、そこには、現実の表面をなぞるだけでは見えない“裏”があった。


「その液体金属弾は、特殊なガリウム化合物でできてる。発射されると、熱と圧力によって空中で液状化するわ」


デブリードは、まるで化学実験の教師のように語る。

その声音は軽いが、内容は想像以上に物騒だった。


「非貫通だから、まだ安全。でも──金属を急激に腐食させる性質があるから、下手に撃たないでね」


「腐食……なんか、すげぇな……」


返事をしながらも、どこか他人事だった。

現実というより、異世界の兵器のように感じていたからだ。


「……待てよ。国家が存在しないなら、この島の刑法はどうなってる? 誰かを撃ったとして、それって罪になるのか?」


俺は、唐突に湧いた不安を口にした。

フィクションであってほしいが、これは現実の話だ。


「法律の話は、少し長くなるわね──」


「じゃあ、やっぱり──」


「かいつまんで話すわ」


逃げ腰の俺を、彼女は軽く遮る。


「この地域の法執行は“自動警察”という企業が担っているの。法治国家ではなく、利潤企業による治安維持。人々は同意している前提で、買い物に含まれる取引税や、企業に対する“シャバ代”によって組織が維持されてる。つまり、あなたも知らないうちに、その企業に“出資”しているのよ」


「……俺、今のうちに知らずに犯罪とかしてないか?」


「彼らが定めるのは、“倫理法”と呼ばれる規範。人間の精神と行動を指標にしている。あなたの精神が健全なら、まず違反にはならないわ」


「ふぅ……良い子でよかった……」


俺は安心して息を吐いたが──


「……」


デブリードの視線が、静かに疑いを投げかけていた。


「自動警察といえば──あなたの病室に、青い花が飾ってあったでしょう?」


「花? ああ、あったけど……急だな」


「それ、あなたが目覚める前に、自動警察の社長が置いていったものよ。“巻き込んだことへの謝意”だとか。ただ、直接会えなかったから……また改めて、って言ってたわ」


「ずいぶん前の話だな……でも覚えておくよ」


“社長”と聞いて思い浮かんだのは、筋骨隆々の厳つい中年男だった。

その男が、病室に入ってきて、青い花をそっと置いて立ち去る。

──どう考えても、ホラーの一場面にしか見えなかった。


「お"、お兄ちゃーーん!」


廊下の向こうから、イヴがこちらへ手を振っていた。

……というより、車椅子を勢いよく転がして、半ば暴走していた。


「遅いよー! 廊下、長いんだから! 片道だけで、疲れちゃう!」


慌てて、俺はデブリードから受け取った拳銃を、そっとズボンの後ろへ隠した。


「悪い、悪い」


手刀を切って、形式だけの謝罪を添えながら、イヴの車椅子の背に手を添える。


「待って、ハイランドは標高が高い。冷えるかもしれないわ。羽織って行きなさい」


そう言って、デブリードは自分のカーディガンを俺の肩にかけた。

何気ない仕草だったが──その直後、耳元で囁かれる。


(銃が、丸見えよ)


……そういうことか。

彼女には全て見えているらしい。


手刀で感謝の意を示すと、俺はイヴの車椅子を押しながら病院の出口へと向かった。


──都市の縦軸へ向かう旅が、始まる。



「すご〜い!高〜い!」


「オェッ……気持ち悪……」


垂直交通(エレベーター)の中。

はしゃぐイヴと、真っ青になっている俺。

地上から空へ──俺の忘れていた新たな交通インフラは、容赦なく数百メートルを打ち上がった。


ここは、高度な縦積み社会が選んだ“移動”のかたち。

ビルほどの箱の中には、病院の待合室のようにベンチが並び、人々が目的地を待ち侘びていた。


「お兄ちゃんって、高所恐怖症なんだね?」


「逆に、怖くない意味がわからん……落ちたら即死だぞ……」


イヴは俺の弱点を見つけると、愉快そうに口元を緩めた。


「でもさ、恐怖症って──

 高層建築に適応するために人類が獲得した、新しい進化かもしれないよね」


「こんなの、俺が退化したか、イヴが進化してるかのどっちかだろ……」


吐息まじりに呟く。

この場所に、俺は住める気がしなかった。



エレベーターは数駅に停車しながら、やがて目的地にも到着した。


俺は重心を確かめるように、靴で地面を二度踏み鳴らした。


「大袈裟だなぁ」


イヴがくすっと笑った。

足音に、地面が答えた気がした。


「金持ちはみんな、こんな高いところに住んでるのか?」


「まぁ、アニマコアの病院も似たようなもんだけどね。

 高い所に土地を持つってことは、海面上昇の影響を受け難いってこと。

 つまり、“半不変の価値”を買ってるの。お金がある人は、みんな上へ行くよ」


「……どうにも気がしれんな」


俺は理屈を蹴飛ばすように言って、歩き出した。


──そこには、まったく別の空間が広がっていた。


無機質で巨大なモニュメント。意味のわからない水を噴き出す人工泉。

黒シャツにデニムジャケットの中年男。真冬のような気温にも関わらず、肩を露出したまま颯爽と歩く女性。


彼らの歩き方には、ある種の“余裕”があった。

物理的な高さと、社会的な高さが、同義であるかのように。


都市の裂け目から覗く空。

ビル群の隙間に差し込む広告光と、煌びやかな車列。


だが、空気は……濁っていた。


「なんか、空気が違うな……。めちゃくちゃ鼻くそ溜まりそうだ」


「もー、やめてよ。乙女にクソとか言う?クソお兄ちゃん」


「!?」


イヴは笑った。

だが、彼女の目も──どこか、濁った空を見つめていた。


互いに言葉を投げ合いながら、その空気を浄化する。

会話が、車椅子の軋みを滑らかにした。


「──空気といえば」


イヴが、何かを思い出したように呟く。


「街の外、海の上って、人がいないから空気が澄んでるらしいよ。

 また行ってみよう?」


「……気が早いな。

 今日はまだ、目的地にすら着いてないってのに」


そう言いながら、視線を向けた先──


「……ああ。見えた」


「あっ、ほんとだ!」


そこにあったのは、広大な場に不自然に存在する“らしからぬ教会”だった。


ブロックを狂ったように敷き詰めて整地された広場。

その中央に鎮座する石造の建物。石段。石柱。

まるで裁きを下すために存在する西洋の裁判所のような威容。


だが、その背後には、全面鏡張りのモダン建築が寄り添うように建っていた。

アンマッチどころか、視神経に矛盾を突きつけるような混成。

だが奇妙なことに──一周回って、納得させられてしまうバランスだった。


ガラスの外壁には、まだ昇ったばかりの太陽が反射していた。

何にも遮られることなく、強く、鋭く。


その反射の先、建物の反対側には──


「うっわ、海だ。……すげーな」


「えぇ!? そっち!?」


イヴのツッコミが響いたが、俺は目を離せなかった。


そこには、圧倒的な“青”が広がっていた。


遥か下方には、さっきまでいた街があった。

海際には、海面上昇で水没した旧市街の建造物が、水面下から頭を覗かせていた。


人工のように直線的な水平線。

透明に近い空気が折り重なり、景色全体を霞が包んでいた。


「……おぇ。やっぱ気持ち悪……」


「こんな早いデジャヴある?

 ていうか、病院からだって、海は見ようと思えば見えるのに!

 ──今日の目的は、そっちじゃないよ!」


再び視線を教会に戻す。


あの場所に入るというだけで、なぜだか肺の奥が緊張する。

理由もなく、名前も知らない“圧力”が胸を押していた。


「……俺、別に信者ってわけじゃないしな」


「え? 私もだけど? 前のお兄ちゃんも違ったし」


「……じゃあ、なんでここに?もう帰る?」


「いいから、入りなよ。てか、みて。ね?」


押し切られるように、スロープを登った。


館の入り口は、白く光沢のある無機質な素材で覆われていた。

近代建築の中に、意図的な“感情の排除”が埋め込まれているようだった。


立ちはだかるのは、巨大なセキュリティゲート。

横一列に並ぶそれらの奥には、銃を帯びた警備員が、呼吸すら排除するかのように沈黙して立っていた。


磨かれた木目の床に、視界が飲み込まれていく。


静謐。密閉。選ばれた空気。


そして、俺たちの名を呼ぶ声が、その空間に染み込んだ。


「こんにちは。“イヴ殿”。“アダム殿”」


その声は柔らかく、しかし確かに俺たちの個人情報に到達していた。


現れたのは、青白い際服に身を包んだ、小柄な老人。

丸眼鏡のレンズが、神のように光を反射する。

目の奥には、数千の記録を処理してきた目があった。


「お二人とも、お変わりないですかな?」


「こんにちは、神父様。私は変わらずです」


イヴは、まるで“旧友”に接するような敬意を込めて挨拶した。


俺もそれにならい、首を軽く畳んで会釈を返す。


……が、どこか居心地が悪かった。

まるで、自分が“記録される側”に回ったような、そんな緊張が背中を這い上がる。


「兄の方は──記憶喪失ですが」


「!?」


俺の事情が、神父の前に暴露された。


「ほう……“記録”を失うとは。お気の毒に」


その言い方に、上っ面な同情はなかった。心から他者を思う気持ち。

いや、むしろ“欠落したファイル”を見るような冷静さだったかもしれない。


「しかし、心配は無用ですぞ。

 生きてさえいれば、人は記録し続けることができる。

 それこそが、我々の信仰なのですからな」


神父は近づき、俺の背にそっと手を添えた。

その掌には、祈りとも、検証ともつかぬ“目的”があった。


「え、ええ……あの、すみません。恐縮なんだが……あなたは?」


「私はクレル。そう堅くならず、クレル爺とでも呼んでください。

 この“ロゴフェイス教会”の司祭であります」


「ロゴフェイス?」


「ロゴスとフェイス──つまり“言葉”と“記録”を尊ぶ信仰であります。

 神は、人間の記録の中にのみ宿るのです。

 詳細は、中でお話ししましょう」


その言葉を合図に、クレル神父は手を掲げてゲートの向こうへ招いた。


従うように、俺たちは前へ進んだ。



「武器をお持ちの方は、こちらのトレーにどうぞ。退出時に返却されます。お持ちでなければ、ゲートをお通りください」


無機質な声で説明するセキュリティ。

彼のプレートキャリアには、“自動警察”の紋章が縫い込まれていた。


刑事企業。防犯企業。命の請負人。


俺は言われるがままに、ズボンの後ろから拳銃を抜き取り、無言でトレーに置いた。


「上着を羽織っている方、ボディチェックをお願いします。手を開いてください」


ルールは明白だった。

体を探る手は訓練されており、動きに一切のためらいがなかった。


視線を逸らすと、目に入ったのは、壁に掲げられた一枚のポスター。


『実銃・実弾撲滅運動!

いかなる所持・使用・製造も違法!

貴方の武器は──非致死性ですか?

誤った使用は“不幸”を招きます。』


やわらかな書体に、鋭利な意図が混ざっていた。


それは──**優しさを装った脅迫**だった。



単に、ゲートを通過しただけだった。

だがその先の空気は、急に湿度と重さを纏いはじめる。


「こちらへ、どうぞですかな」


クレル神父の案内に従い、俺たちは廊下を進んだ。

道中、光は徐々に失われ、沈黙が支配する空間に変わっていく。


その沈黙に耐えきれず、俺は言葉を放った。


「ロゴフェイスって、人間の“記録”を信仰する、みたいに言ってたよな……どういう意味なんだ?」


「我々は、地球温暖化により土葬の土地を失ったキリスト教徒が集まり生まれた信仰ですな。

 火葬が主流になったことで、イエスによる“復活の肉体”を失うことになった。

 そこで、人は死後に何を残すかを考えたのです──」


彼の声は静かに、しかし奥底に確信を宿していた。


「人間が生きた記録こそが、その人の魂であり、再生への鍵。

 記録は保存され、祈られ、後世に継がれていく。

 それこそが、我々の信仰ですな」


「……じゃあ、神は? 神そのものは信仰の対象じゃないのか?」


「もちろん、信じておりますとも。

 神がこの世界を創り、生命を与えたという“記録”が、この世界の至るところに遺されている。

 それこそが、格別な尊敬と信仰の対象ですな」


歴史そのものが、彼らにとっての経典なのだろう。

過去を知り、残すことが、祈りになる──そんな宗派があっても、不思議ではない。


「ここは、その信仰を“見る”場所ですな。

 我々の教会は、さながら非営利の博物館。

 展示された記録は、すべて人類が辿ってきた“痕跡”ですな」


「前に一度、来たことあるよね?」とイヴが言った。


「ああ……でも、まったく覚えていない。というか、一度だけで、俺らを覚えている?」


「貴方方の名前は、しっかりと記録されておりますな。

 名前とは、最も原始的な記録でありますから」


──罪悪感のようなものが、静かに胸に浮かんだ。


「……すみません。あなたのことも、俺、完全に忘れてました」


「気にすることではありませんな。

 忘却と記録は、常に隣り合わせの現象。

 生物に、永遠の記録は不可能です。

 ──ですが、“保存”は、可能ですぞ」


神父の語尾とともに、視界がひらけた。


柔らかなスポットライト。

展示台に立つ、幾つもの“ヒトのかたち”。


そして──最も手前に立っていた“それ”は、明確に異質だった。


「こちらが、神話的前駆者プレアンソロプス・ミュティクス

 我々が考える最古の“人類”ですな」


……俺は絶句した。


ヒトではない。

ヒトらしいものですらない、猿だった。


「これが……原初の人類、だと?記憶が確かなら、最古はサヘラントロプスのはず……」


「かつては、サヘラントロプス・チャデンシスが最古とされていましたな。

 しかしそれは、あくまで“骨”と“化石”の話。

 これは違う。“精神”を持っていた生物なのですな」


「精神……?」


「原初の進化とは、形状の変化ではなく──

 **精神の段階**なのですな」


神父は、サヘラントロプスと並べられた展示に手をやった。


「見た目は似ておりますが、プレアンソロプスは、外界を“分節”し、選択的に反応する“新しい考え”を得ていた。

 それが“進化”の兆しだったのですな」


「一体、何が猿と──その、プレアンソロプスを分けた?」


俺の問いに、クレル神父は、まるで既に準備していたかのように答えた。


「“感覚”ですな」


心臓が、ひときわ大きく脈打った。

それは、聞き覚えのある言葉だった。

──いや、聞き覚えではなく、**感じた記憶**があった。


「猿と人類を分かつ最初の分岐点。

 それは、肉体の形ではなく、精神の構造──

 目に見えない“知覚の階層”に存在していたのですな」


「……どんな感覚だったんだ?」


問いかけは、どこか怖さを孕んでいた。


「“メタ的感覚”──セマノシスですな。

 それは、五感のいずれでもない。

 “感じていることを感じる”という、感覚の上に浮かぶ意識です」


「……セマノシス」


呟くように言ったのはイヴだった。

彼女の目が、展示の猿と人の間にある“裂け目”を、まっすぐに見つめていた。


「“自分が何かを感じている”とわかる、その感覚の獲得。

 それが、人類最初の進化……ってことですよね?」


「流石はイヴ殿。良き記憶力をお持ちですな」


クレル神父は目尻を緩めて、肯定の意を表した。


「そこから人間は、感じることを定義し、知り、分類し、記録する。

 ──果てなき探求の旅路が始まったのですな」


神父の言葉は、展示よりも展示的だった。


俺は気づいた。


俺の中にある世界は、まだ“猿”に近いのかもしれない。

この場に立っている俺と、展示された古代人の間にあるのは、**時代差ではなく、認識の断絶**だった。


その気づきは、静かに──だが確実に、孤独を運んできた。


「……その様子だと、まだ記憶が戻りきっていないようですな」


クレル神父が、まるで医師のように診断する。


俺は否定も肯定もせず、イヴの車椅子を押した。

のそのそと、次の展示へと足を進める。


そこには、過去の人類の営みを再現した環境模型が広がっていた。


中世ヨーロッパ。古代エジプト。日本の戦国時代。近代アメリカ。

──そして、旧石器時代。


そこでは、獣に近い人々がマンモスに罠を仕掛け、弓を構えていた。


その構造は正確に再現されていた。

弦の張力、鉉の復元力、飛翔のための角度。

──それは、“感覚の記録”だった。


知覚が、武器を生み、武器が文明を生んだのだ。


だが、さらに奥へと進んだその先に──展示は、急激に表情を変えた。


銃声。爆発音。風を切る唸り。咆哮。


それらが、空気を震わせるように“聴こえ”始めた。


「……ここは、記録されるべきではなかった営み。

 戦争の記録ですな。

 ──これは、第二次大戦」


クレル神父の言葉は、明らかに重たかった。


その場には、浅い塹壕を模した通路があり、

左右には、戦場を模した模型が連なっていた。


形の異なる軍服を着た人形たちが、互いに銃口を向けていた。

それは単なる展示ではなく──**怒り、恐怖、敵意**という“感覚”そのものが凝縮された空間だった。


地べたに伏せた兵士。

ライフル越しに世界を覗く青年。

顔を伏せ、震える民間人。

死んだふりをする者。


その全てが──記録されていた。


組み合いになり、滑り落ちないよう細工されたナイフで、相手を確実に殺す者。


──そして、自らの拳銃で、自らの命を絶つ者。


その空間は、死という感覚で満たされていた。


「……この展示を、見せたかったの」


イヴの声が、その空気を裂いた。


「どうして、これを?」


「お兄ちゃん、事故のとき“戦争の音”が聞こえたって言ってたよね」


「ああ」


「ここに来た時も、言ってたんだ。

 音なんて鳴ってないのに。

 ……これが、記憶を取り戻すきっかけかもしれないって思ったの」


彼女は、俺の記憶を取り戻すために、ここに連れてきた。

それがどれだけ考え抜かれた判断か、今ならわかる。


「──どう? 何か、感じる?」


「……ただ、嫌な感じだ」


「そっか……」


静かに、イヴの期待がしぼんでいくのが分かった。


だが──

俺は、嘘をついていた。


本当は、音が聞こえていた。

あの時と同じ、金属の衝突。叫び。破裂。焼け焦げた空気の匂いまでも。


──人間の殺意が、人形の瞳から立ち上がってくる。


『人々は争いを繰り返す。その時、躊躇しない者が勝利する。

 勝つための進化。本能が殺しを正当化する感覚──それこそ、我々だけが手にした“青果”です』


ダニエルの声が蘇る。

あの狂った囚人の言葉が、耳ではなく、内側から滲み出てくる。


その進化の条件が、“殺すこと”だったとしたら──

この展示に並ぶ兵士たちは、間違いなく進化の果てにいた。


それを記録したのが、素性を知らぬ人間だったというだけで。



「アダム殿。次の展示は、記憶に残っているかもしれませんぞ。かなりのインパクトですからな」


クレル神父が、そう言って誘導した先は──サイロのように円柱型の巨大な空間だった。


空間の中心に、光が差している。

そこには、水槽のような透明な構造物が鎮座していた。


その中に浮かんでいたのは──


「っ……!? これは……?」


言葉が先に口から飛び出した。


「これは、“最後之核爆弾ファイナルファイア”。

 あり得た第三次世界大戦の遺物ですな」


「第三次……?」


俺の記憶では、戦争は二度だった。

その記憶すら、どうやら“古い”らしい。


「地球温暖化によって、国々は住む場所を失い、人々は彷徨いました。

 それは、“戦争の自然発生条件”とでも言うべき事象でしたな。

 この爆弾は、争いの果てに、“争いを止めるため”に生まれた兵器ですな」


「止めるため?加速ではなく?」


「……この爆弾は、“ファットマン”と呼ばれる男が創造したものですな。

 その破壊力は、このスタビリテ島すら壊滅させ得る規模。

 それが人々に“共存”という選択肢を突きつけたのですな」


「そんなに……」


俺は息を飲んだ。

先ほどの展示とは異なり、この“沈黙する爆弾”には、逆に語りすぎるほどの重さがあった。


「なぜ、こんな危険なものがここに?」


「今の時代、“国家”も“責任者”も存在しませんな。

 誰も欲しがらず、誰も保管しない。

 かといって、解体も容易ではない。

 ゆえに──記録者である我々が、非営利の管理下で保存しておりますな」


理屈は分かった。

それは確かに、“信仰”として筋が通っている。


「……なるほど。“悪しき記録”も、記録には違いないってことか」


「その通りですな。

 忘れることと、葬ることは違います。

 我々の務めは、過ちの“形”を見せることなのですな」


イヴが、感嘆の息を吐いた。


「……素敵なお仕事ですね」


「ありがとうございますな。イヴ殿」


空気が、少しだけ和らいだ。


だが──その隙を縫うように、俺は訊いた。


「神父。もし、存在しないほうが良かった記録があるとしたら──

 人類は、“禁断の果実”を食べない方が良かったと思いますか?」


問いに込めたのは、教会の真意……あるいは、ダニエルの思想との照応。


クレルは一拍置き、ゆっくりと語った。


「……創世記の話ですかな。

 私個人としては、それを“悪しき記録”とは捉えておりませぬ。

 それがあってこそ、我々はここに在る。

 結果が生まれたという意味において──“必要悪”だったと、そう考えますな」


「……必要悪」


その言葉が、脳内に静かに沈殿した。


良い結果のためならば、過ちも許される。

そういう感覚が、自分の中に“最初からあった”気がした。

だが、いつ、どこで、誰に対してその感覚が必要だったのか──思い出せない。


「アダム殿に、知っておいてほしい記録の案内は以上ですな。

 あとは、ゆっくりと他の展示をご覧くださいな」


クレル神父は、そう言って一礼した。


「ありがとうございます、神父様……ごほっ、こほっ……」


イヴが感謝の言葉を述べたあと、咳き込んだ。


「大丈夫か? もう結構時間が経ったな。

 何か飲み物でも買ってくるよ」


俺はイヴの傍らに膝をつき、心配を込めて言った。


「神父。すみません、近くに自販機とかってありますか?」


「この教会の外、すぐ右手にございますな」


「ありがとうございます。少しの間、妹のこと、お願いします」


この空間で、彼女を一人にしても良いと思える人物は、神父以外にいなかった。


「安心なさいな。ここは安全ですな」


クレル神父の静かな声が残った。


俺は一礼し、教会を後にした。




外の空気は、日差しが斜めに傾き始め、昼の終わりを告げていた。

カーディガンの下、拳銃が重さを主張している。


セキュリティは一度預けた武器を、規則がゆえか再入場の予定があっても、さっさと返してきた。

──まるで、“忘れるな”と言わんばかりに。


周囲を見回し、人気のない建物の影へ。

そこに、ぽつんと並んだ自販機の列があった。


「何を買うべきか……」


味なんてどうでもよかったが、何か“意味のある選択”をしたかった。

選択肢は、なぜかいつも、味気なく並んでいる。


──そのときだった。



「何してる?」



不意に、背後から男の声が落ちた。


振り返ると、いつの間にか隣に立っていた男がいた。


白髪交じりの無精髭。年季の入った黒いシャツに、色褪せたデニムジャケット。

街では見かけないタイプの“違和感”が、眼前にいた。



「……飲み物を買おうとしてるだけだが?」



俺は答えながら、自然と後退した。

変な奴が接触してきた。

視線を泳がせ、逃げ道を確認する。



「……何を言ってる?」



男は、微笑みすら浮かべて、意味不明な返しをした。


その瞬間、脳裏にノイズが走る。

──この男、どこかで──



「……アンタ、垂直交通エレベーターの前で見た」



既視感が輪郭を持ち始めた。



「……ここまでずっと、尾けていたのか?」



男は沈黙し、代わりに距離を詰めてきた。


俺は即座に腰の拳銃へと手を伸ばした。





「──動くな」





男は一歩止まり、手を上げる。



「おいおい……凄むなよ。俺だよ。トモダチじゃないか」



「“トモダチ”? ストーカーの新しい言い換えか?」



「いや、ただ連絡が取れなかっただけで……偶然見かけたからな……お前、携帯壊れたのか? 忘れたのか?」



「言い訳はいい。携帯が機能しなくても、着電はわかる。

 ──お前からの連絡はなかった」



沈黙。



その沈黙の質に、俺は銃口を上げた。




「おいおい……シャブでもやってるのか? 丸腰の人間に銃を向けるなんて、正気かよ」



「“丸腰”か? 本当に?」




俺は言葉を重ねながら、視線を男の動きに合わせる。




「……あんたは俺たちの後をつけたが、教会の中には入らなかった。障壁があったとするなら、セキュリティ。

 入らなかった理由は──“武器”じゃないのか。

 武器を持ってて、それは誰かに渡したくない物か、見せられないような物」


「……ふぅ。なるほど」


男は肩を竦めた。


「その読み、嫌いじゃない。いや、好きでもないが」


その言葉の裏に、どれだけの真実があったかは不明だった。

だが、少なくとも──**俺は、見知らぬ誰かに“記録”されていた**。


俺が失ったものを、奴は持っていた。


そして、何かを“選ばせる”顔をしていた。


物語は、まだ何も始まっても、終わってもいない。

──そう告げるように。

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