第二話 『 忘却の候 』
前回のあらすじ:
人類はかつて“青果”を口にした。
それは神に禁じられた、新たな感覚の種だった。
事故の混乱の中、青年は記憶を失い、銃を握り、死を目の前にする。
壊れた鼓膜、割れた世界、そして“戦場の幻聴”——
目に見えない何かが、確かに彼の神経を刺激していた。
暴走する囚人。
意味を超えて叫ぶ言葉。
自らの意思か、他者の“空気”か。
引き金を引いた瞬間、“新たな感覚”を受容してしまった。
青果は、ただ感覚を与えるのではない。
青果は、世界を書き換える。
彼はまだ、それを"受容"できなかった。
──目を覚ました。
接続、という語がふさわしい。眠りの彼岸から、現実という名の神経網へ再起動する感覚。
空気は無味無臭で、記憶もまた無垢だった。
口元には酸素マスク。管は、病室の壁へ向かって延びている。ピンク色のカーテンに囲まれた狭い空間の中で、俺は横たわっていた。
──赤色。
想起の速度は、感情の準備より早かった。あの囚人のツナギを染めた、飽和した赤。死の記号。それが胸の内側でざらりとした反応を起こした。
逃れる様に、視点をずらす。
視界の隅、サイドテーブルの上には花瓶。
中には一輪の青い花。群青。人工的な濃度。
どこか歪んで見えたが、指で触れると花弁は元に戻る。形状記憶のように。
──生きている。そう思った。
それは花のことなのか、自分のことなのか、わからなかった。
思考が沈むより先に、音がやって来た。
ヒールのクリック音。規則的すぎる足音が、病室のカーテン越しに鋭く反響する。
「はーい、アダムさん。入りますよー」
返答の余地を与えない声。
命令ではなく、予定通りの手続き。
カーテンが開かれ、白衣の女性が現れた。
束ねられた長い金髪が、波のように揺れる。
俺に一瞥もくれず、一直線に椅子へ座ると、紙とペンを取り出し、無言で何かを書き始めた。
足を組み、ヒールを脱ぎ、つま先で揺らす仕草には、場への支配が滲んでいた。
「……あの——」
「うわっ!?びっくりした……いきなり喋るな」
「なんで!?」
彼女は紙をくしゃくしゃに握り潰し、ベッドへ放り投げる。
そして、仄かに鼻を鳴らして笑った。
「……おはよう、"アダム・エデンソン"」
名を与えるような声色だった。
──アダム。
どうやら、それが“俺”らしい。
「回診の時間よ」
彼女は立ち上がり、カーテンの奥へ。
間もなく、無表情な男性ナースを連れて戻ってきた。
「起こしますね。苦しかったら教えてください」
彼の機械音声のような口調と共に、ベッドの昇降機構が静かに作動する。
身体に繋がっていた幾つかのチューブが、手慣れた手つきでまとめられていく。
上体が起き上がる。
初めて、自分の身体が“自分のものである”と知覚された。
胸部に幾重にも巻かれた包帯。腕には透明な管が幾本も突き刺さっていた。
──重症者。
その言葉が、身体よりも先に心に突き刺さった。
「私の声、聞こえますか?」
ナースが問いかける。しかしそれを遮ったのは、先ほどの女医だった。
「待って。GCSは良好よ。……さっき私が、確認した」
軽薄な声色が、突如として鋭利になる。
声帯が変わったのではない。発声の立場が変わったのだ。
「さてと──」
彼女はわずかに身体を傾け、タブレット端末を眼前に突き出す。
画面には《アダム・エデンソン》の文字と、いくつかの診断項目。
だが彼女は画面を一瞥もせず、まるで“弔辞”のように、滑らかに読み上げる。
「I度の熱傷、軽度の呼吸性肺損傷、肋骨の骨折、外傷性鼓膜穿孔……。貴方の身体に、刻まれていたものよ」
「鼓膜せんこう……?」
口にした瞬間、自分の声が耳に届く。無痛。
明瞭だった。あの爆音で焼かれたはずの聴覚は、なぜか正常だった。
「耳……治してくれたのか?」
俺の問いに、彼女は即答した。
「いいえ。自然閉鎖よ」
その言葉には、治療の成果に対する達成感も、安堵も、なかった。
ただ、結果を記録として告げるような、医学という名の宗教の言い回しだった。
タブレットの画面がふっと消え、ナースの手へ無造作に渡された。
「自然……待ってくれ。どれくらい、俺は寝てた?」
聞いた瞬間、時間というものが、体温のように自分から剥がれているのを自覚した。
彼女は一拍の間を置いて、言葉を落とした。
「一ヶ月。ちょうど今日で、ね」
長い。その語尾に込められた断絶は深かった。
「症状もすべて、その一ヶ月前に記録されたもの。今は、ほぼ回復状態にある」
記録。回復。すべてが客観語。
主語不在のまま進む文脈に、俺の“実感”だけが取り残された。
「……一ヶ月、昏睡状態だったってことか?」
その言葉は自分の声帯から出たものでありながら、他人の口から出たように遠かった。
彼女は一拍の思考を挟み、形式的な口調で切り出した。
「そう。後遺症を疑うには、十分すぎる時間……だから、定型確認を取るわ」
白衣の内側から、細身のペンライトが抜かれる。
それは医療用メスよりも冷酷な形状に見えた。
無言のまま、俺の瞳孔へと光が走る。
一瞬、視界が収束するような感覚があり、世界が白い斑点で埋め尽くされた。
「──今日が何年、何月か分かる?」
思考は揺らいでいた。
時間の概念すら、脳内で不安定に浮かんでは沈む。
「……クリスマスとか……おめでたい日じゃなさそうだな」
冗談めかして返したつもりだった。
だが声には、自分でも気づくほどの不安が滲んでいた。
「不正解。今日は、“貴方が目覚めた”おめでたい日よ。……じゃあ、誕生日は?」
沈黙が落ちた。
言葉ではなく、“分からない”という実感だけが、頭の奥に滲んでいた。
「……」
「答えられる?」
「……忘れた」
口から滑り出たというより、心のどこかから落ちてきた音だった。
彼女はすぐには反応せず、淡々と質問を続けた。
「──では、ここがどこか、分かる?」
「……病院。病室。病床。それくらいだ」
語る言葉の一つひとつが、自分の肉体から遊離していく感覚。
まるで誰か別の男が、自分の記憶を代弁しているようだった。
「じゃあ、私の名前は?」
その問いだけは、妙に刺さった。
「……初めまして、ではない?」
彼女の目元がわずかに揺れる。
伏せられた視線の中に、明確な失望が沈んでいた。
「……はあ」
空気を濁らせるような吐息が、感情の境界を冷たく撫でた。
「どうやら、限定的な健忘障害があるようね」
言葉は診断の形式を保っていたが、視線は明らかに検査官のものだった。
医者としての職能を超えて、彼女は“何か”を見ようとしていた。
「じゃあ──最後に、覚えていることは?」
質問の輪郭が、ぐらつく思考に投げ込まれる。
「……道路。事故があって、銃撃戦……それと——」
言葉は止まった。
映像だけが、脳の奥で再生された。
青果。
“感覚”が形を持ち始めたあの瞬間。
引き金を引き、人を殺そうとした瞬間。
──だが、それを“理解”していたかは別問題だった。
「なあ……俺は、何者なんだ?」
その問いは唐突に口を突いて出た。
だが、自分の中ではずっと回り続けていた疑問。
“自分”という構造物に空いた空白を、無理やり言語で埋めようとした試みだった。
彼女は一瞬だけ沈黙した。
言葉の重さを測るように、思考の天秤を動かしてから──
「……そこからね」
静かに、淡々と告げた。
「あなたはアダム・エデンソン。十九歳。男性。異性愛者。テラクリエイト社という建設企業に勤務していた」
それは履歴書の朗読のようだった。
いや、履歴書すら読まれる価値を持たない社会での、最後の“確認作業”にも思えた。
「……でも、ある日突然、職場で昏倒。
この病院に救急搬送される──はずだった」
「……はず?」
反復する問いに、彼女は頷くことなく、続きを編んだ。
「自動警察の囚人護送車が、通行中に襲撃された。
その混乱の中で、あなたを乗せた救急車が事故に巻き込まれたの。犯人の中には、武装していた者もいて、建造物の崩壊も重なった。結果は、凄惨。
あなたは、自動車の爆破に巻き込まれた模様──と、警察は言っていたわ。」
“事実”ではなく、“記録”として語られる現実。
それは、虚構と現実のあいだに浮遊する真相の断片だった。
「……なんとなく、わかってきた」
理解したわけじゃない。ただ、“捕まった”のだ。
この世界が俺に貼り付けた物語に。
アダム。記憶喪失。
囚人との衝突と、殺しの衝動。
そして、それを知らないまま進む社会。
情報を把握したという意味での安堵。
だが、それはすぐに不安に書き換えられた。
「……でも、職場で突然昏倒って……そんなことが?」
「疑問は尽きないわね。あなたは割とワーカホリックだったし、体にガタが来たのかもしれない。
でも──忘れてしまった以上、真相を知る術はないわ」
それは真実ではなく、答えの放棄だった。
彼女は白衣の内ポケットに指を差し入れた。
その仕草は、まるで人体に装備された異常な収納装置のようだった。
取り出されたのは、一台のひび割れた携帯端末。
「会社から連絡があったわよ。代わりに、私が出たけど」
「……出た?」
「ええ、“クビ”ですって」
事務的で、残酷でもなかった。
ただの現象として、切断が告げられた。
「……クビ?雇用制度はどうなってるんだ?」
問いかけの先に、返ってきたのは空中をハサミで切るようなジェスチャーだった。
「雇用制度なんて、国家と一緒に、とっくに崩壊したわ。今は、個人が契約し、個人が契約を切られる時代よ。──チョキンとね」
軽快な言葉だった。
だが、その裏側には“保障”という概念そのものへの死刑宣告があった。
「……記憶なし。職なし。福祉なし。この世界で、生きていける気がしないな」
俺は、呟くように、降参を告げた。
「記憶さえ戻れば、何とかなるような気もするが」
「心配しないで。これから、何とかなるわよ」
彼女は笑った。
それは育児本に描かれた“理想の微笑”のようだった。
ただし、それが描かれたのは、おそらく冷蔵庫の扉の内側だったに違いない。
「今のあなたは──さながら、おっきな赤ん坊。
心配しなくても、赤子は勝手に育つものよ」
「……はい?」
少しだけ笑いかけてから、俺はふと気づく。
「……今更なんだが。アンタ、誰なんだ? 妙に親しげだが」
「私はデブリードマン。ここ、最先端医療技術社の総合診療医にして、貴方の主治医」
そこで言葉を止め、わざとらしく肩をすくめる。
「“美しくも新進気鋭”って肩書まで付いてるらしいけど……
“デブ”って呼んだら──もう一ヶ月、眠ってもらうから」
「……医療提供者とは思えない発言だな。──じゃあ、デブリド」
名前を口にしてみると、それは妙に収まりが良かった。
まるでこの病室の空気に合わせて調律された、担当者の呼び名。
「……まあ、以前と同じね」
彼女は言った。
そのやりとりを遮るように、無表情なナースが進言する。
「チューブ類の撤去、完了しました」
知らぬ間に、俺の身体から管が外されていた。
自分が“縛られていた”という事実よりも、その解除が告げられるまで“気づかなかった”ことのほうが、恐ろしかった。
拘束のない感覚。
それは人間が持つ最も古い自由の錯覚だった。
「意識が回復したのなら──これからのことを、少しずつ考えていきましょうか」
そう言われて、俺はベッドの手すりを握った。
足を床へ下ろす。
重力が、本当に俺に戻ってきているか、確かめるように。
だが──
「あ、待って! まだリハビリしてないから──!」
警告は、数秒遅かった。
身体が思うように支えられず、前のめりに崩れ落ちる。
溺れる者は、なんとやら。
カーテンに手を伸ばすも、レールから『ブチッ』と短く軽快な音がして、それは俺を裏切った。
崩れる身体。倒れた視線の先。
──カーテンの向こうに、誰かがいた。
「え、え? え!?」
少女だった。
困惑したように、こちらを見つめていた。
水色の髪。
それよりも少し淡い、水色の入院着。
病室の淡い色彩と同化するその姿だけが、俺にとって色物だった。
「あっ……どうも。最近こっちに入った、アダムです。よ、よろしく……」
自分でも驚くほど“刺激しない話し方”をしていた。
まるで何かを壊してしまいそうな、精巧にできた御人形の様な気配が、彼女にはあった。
背後から、呆れたようなため息が落ちてきた。
「その子はあなたの妹、"イヴ"よ」
「……マジ?」
「じゃなきゃ、幼女と相部屋にしないでしょ」
「……確かに」
世界が、ゆっくりと拡張した。
──俺の世界が、カーテン一枚分、広がった。
──それから、時は数日流れた。
「ふ“ん”ッ”──ッ!」
呻きにも似たその声は、第一声にして第一撃だった。
あるいは、“戦争”の始まりの咆哮だったのかもしれない。
寝たきりだった身体は、基礎訓練を経て、ようやく立ち上がる許可を得ていた。
今日からは歩行訓練。
地面に足を刻む行為が、これほど大仰に思えたことはない。
デブリドがそばに立ち、静かに見守るイヴは少し離れた位置から、車椅子の上で沈黙していた。
俺は、リハビリ室に鎮座する平行棒の“祭壇”に手をかけた。
その金属の質感は、希望と拷問の中間にあった。
両手でそれを握りしめ、非力な足に命令を下す──
「……歩け、歩きえええあああああちっ、ちぎれるッ! 下半身、千切れちゃうからぁぁ!!」
もはや情けなさすら芸術の域だ。
「はいはい、深呼吸してー!」
デブリドはパンパンと手を叩く。
まるで飢えた魚を煽る漁師のように。
「──あっ」
次の瞬間、俺はバランスを失い、ハーネスに吊るされたまま、宙ぶらりんになっていた。
「……なぁ、ここ“最先端医療技術社”なんだよな?
だったら、もっと未来的なマシンとかクスリとか──」
「私はこう考えるの。……それで、本当に良いのかと」
予想外の返答に、言葉が詰まる。
「……おいおい、個人の人生観で患者を振り回すのか!? セカンドオピニオンを希望する!」
たまらずイヴの方を見ると、彼女は当然のように頷いた。
「私も、自分の力でやった方がいいと思う」
「サードを探すしかない……!」
もはや涙目だった。
だが、その時のデブリドの表情は、いつもの軽薄を脱ぎ捨てたものだった。
「──漁法を知らない者は、漁師にはなれない」
唐突に、詩のような言葉が降ってきた。
「一つの漁法しか教わらない者には、他の魚の味はわからない。
自分の脚で、歩き方を学ぶこと。
そうでなきゃ、何者にもなれないわよ」
世界を規定する言葉だった。
社会の辞書には載っていないが、現実を貫く語彙。
「……何それ、ことわざか?」
呆れるように尋ねる。
「未来に引用される金言。しかも──私の」
彼女は鼻を鳴らした。
「パンがなければ、お菓子を食べればいいんじゃないのか?」
皮肉混じりに引用したのは、俺の方だった。
格言合戦に一矢報いたつもりだったが──
「──じゃあ、どうやってケーキスタンドまで歩くのかしら?」
彼女は平然と返してきた。
その語彙は、最早レトリックではなく“訓練の続行”を意味する隠語だった。
「赤ん坊が、二足で歩けると思ってるのか?ハイハイで行くしかないだろ」
苦し紛れに捻り出した言葉。
彼女は肩を竦め、表情に薄く勝利の気配をにじませた。
「主張だけは、一人前ね。赤ん坊の」
「……ハハ……はぁ……」
笑ったつもりだったが、それは乾いた吐息に近かった。
「──じゃあ、もう一度。全力でやり切ったら、今日は切り上げましょう」
デブリドは装置を操作する。
吊られた身体が再び平行棒の前に移動していく。
蛍光灯の反射が、床の上で二重に揺れていた。
現実は、二重写しのように脳へ伝わってきた。
“まだ踏み出されていない一歩”──それを、睨む。
「ふ“ん”ッ!」
踏み出した、つもりだった。
──だが現実は、ハーネスが軋む音だけが正直だった。
予定通り、訓練は打ち切られた。
吊り下げ具から身体を解放するのに、思いのほか時間がかかった。
その遅延が、敗北の実感を余計に深めた。
「私、先に戻ってるね」
イヴがそう告げ、車椅子の輪を回した。
小さな背中が、遠ざかっていく。
俺もデブリドの肩を借り、遅れて車椅子に乗せられる。
「自分で戻れる?」
「……いや。手が痺れてて無理だ」
その言葉だけが、今の俺の現実だった。
彼女は何も言わず、廊下を押し始める。
渡り廊下。午後の光が窓を通じて静かに落ちていた。
その空間の静けさが、かえって“何か”を語り始めている気がして──
俺は、尋ねた。
「……イヴは車椅子だが、リハビリしないのか?」
沈黙が、わずかに揺れる。
「彼女は──わからないの」
「……わからない?」
意味を測りかねて問い返す。
デブリドは、少しだけ歩を止めた。
「症状は……一言で言えば、自己崩壊。
足も、完全ではないけど、機能していない。
自己免疫疾患に似る所もあるけど……それとも違う」
「自己崩壊……?」
「最初で最大の異変は、ある朝だった。
彼女は、突然、歩けなくなっていた」
呼吸が浅くなる。
続きが、知りたくなかった。
「原因がわかる?」
「免疫疾患なら……骨が脆くなって、
骨折してた……とか?」
「不正解」
言葉に刺があったわけではない。
むしろ、優しすぎる“否定”だった。
廊下の途中。人影のない場所で、彼女は歩みを止める。
「──足の骨の一部が、消失していたの。
一晩のうちに。それはもう、魔法のように」
背筋に冷たい感触が走った。
その現象は、科学でもオカルトでもなく、**“現実”として語られた**。
与太話ではなく、報告として。
「……治る見込みは?」
「わからない。
政府が崩壊した今、治療法が存在しない奇病は、 患者自身が動かすしかない。
資金を集め、研究企業を動かす。
一企業をね。──もちろん、安くはない」
「……大衆病なら、みんなで治療法を探せるけど……
奇病なら、全部ひとりで背負うことになるのか。
──とんだディストピアだな」
「でも、イヴは一人じゃなかった」
その一言で、彼女の声の温度が変わった。
それは説明ではなく、証明だった。
「貴方は、イヴを救うために私を頼った。生活を切り詰め、彼女と同じ病室に移り住んだ。
最初は、変な患者が来たと思ったわ。でも──そう簡単に真似できることじゃない」
──怖くなった。
記憶の彼方に追いやられた“俺”という存在が、他者の言葉で呼び起こされる。
イヴが見ていた兄は、今ここにいる俺とは別人だったかもしれない。
そんな考えが、胸の奥に、冷たい風のように吹き込んだ。
「……記憶を失う前の俺は、そんなに……妹想いだったのか」
「──過去なんて関係ないわ」
その否定は、優しかった。
「イヴは、“今の”あなたをちゃんと慕ってる」
言葉の温度に、かすかな救いを感じた。
だがその直後、別の言葉が脳裏をよぎる。
『我々は形です。素粒子のパズル。死とは、形の崩壊。二十一グラム分の形状変化。人命の終端です』
──あの狂った囚人の声。
だが今となっては、狂気とは思えなかった。
記憶を失う前の自分と俺は、果たして何グラム異なるのか。
「手が回復してきた。もう、一人で押せそうだ」
「そう? じゃあ、私は戻るわね」
実際には無力のまま、でもそうしたかった。
自立というには程遠いが、せめて“ひとりで戻る”という形式だけでも手に入れたかったのかもしれない。
彼女は意図を察し、何も言わずに廊下を引き返していった。
病室に戻ると──
「おかえり」
イヴの声が、空間に灯をともした。
その一言で、ここが“俺の居場所”だと、なぜか自然に思えた。
這うようにベッドに戻る。
もう、その動作すら“習慣”になり始めていた。
イヴはベッドに腰かけ、何かをノートに書いていた。
その姿には既視感があった。思い出せない記憶の輪郭のように。
「何を書いてるんだ?」
「んー? 手紙の練習」
視線は紙から外れない。
筆圧が紙の奥へ沈むたびに、彼女の言葉もまた“形”を刻んでいくようだった。
「メールじゃダメなのか?」
純粋な問いだった。
だが、彼女は鋭く返した。
「携帯の暗証番号忘れて、もはや受話器と化した。そのお兄ちゃんが言う?」
「……一本取られた」
情けなく頭をかく。
だがその仕草も、自然だった。
「ま、要するに──この時代に手紙ってなんで?ってことだよね」
イヴはすぐに察したように、答える。
「でも、みんながやってないことって、逆に楽しいでしょ。
それに、手紙って“形”があるから。必死で書いた気持ちとか、文字に乗るじゃない?
ちゃんと届いたら、嬉しくない?」
彼女の横顔は、どこか時間の外側にあった。
まるで、過去から抜け出してきた人類の原型のように。
「……恋人か?」
軽口を叩いてみせたが、それは空気を和らげるための逃避だった。
「もー、何でそうなるかなー」
イヴは肩をすくめて笑った。
「──あっ、そうだ」
突然、思い出したように身を乗り出す。
サイドテーブルの引き出しを開け、何かを取り出す。
「手、出して」
差し出すと、彼女は俺の“左手”だけを選び取り、何かを巻きつけた。
「……これは?」
「ミサンガ。願叶のお守り。私が作ったの」
白とピンク、紫の糸が交差し、一本の組紐になっている。
その細かさは、時間と祈りの証だった。
「前にもあげたことあるんだよ? いつも着けてくれてた。
前のは……無くしちゃったみたいだから、新しいのを」
──ごめん。
その言葉は喉まで来たが、代わりのものを選び取る。
「……ありがとうな」
「ううん。私の自己満足だから。
願い事をして。切れた時、叶うから」
「……そうだな」
“イヴの病が治りますように”──その願いが浮かんだが、軽々しくは言えなかった。
「じゃあ……“記憶が戻って、本当の意味でアダム・エデンソンになれますように”とかか?」
イヴは黙って聞いていた。そして──問いかける。
「……お兄ちゃんは、スワンプマンって覚えてる?」
突然の問いだった。
まるで俺の言葉の“本質”を検査するような、沈着な探針のように。
「いきなりだな……。確か──ある人間が死んだ直後に、まったく同じ見た目・記憶・性格を持つ存在が偶然生成されたとしたら、それは“同じ人”って言えるのか、って哲学だろ?」
イヴは頷く代わりに、静かに問いを返した。
「──お兄ちゃんは、スワンプマンになりたいの?」
その言い方には、どこか“覚悟”のようなものが含まれていた。
「どういう意味だ?」
本当に、意味がわからなかった。
それが、自分への問いであるにも関わらず。
「お兄ちゃんは、自分が“忘れた”ことを理解してる。
つまり、アダムは最初からアダムで、今は記憶を失ったアダムでしかない。
──本当の意味でアダム・エデンソン“になりたい”っていうのは、記憶の喪失も知らない、一繋ぎの自分になりたいってことでしょ?」
言葉の解像度が高すぎて、一瞬、思考が止まった。
「……待ってくれ、妹の頭脳についていけてないんだが」
「つまり、記憶喪失も経験の一部。
忘れたことも含めて、今ここにいるお兄ちゃんが、お兄ちゃんなんだよ。
だから──その願いは、必要ないよ」
「……そうか?」
「そうだよ」
その声には、確信があった。
彼女にとって“俺”は、すでにスワンプマンではなかった。
俺は諭されるように、また別の願いを考える。
「──じゃあ、世界平和、かな」
「スケールでか……自分のこと願いなよ」
「叶わなかったら、一生この腕に巻かれてるんだろ?
だったら、難しい願いでいい」
「なんだかなぁ……」
聖人ぶったつもりはなかったが、イヴは不服そうにため息を吐き、
再び手紙の練習に戻っていった。
けれど、そのまま言葉を終えるには、俺の中に“何か”が残っていた。
「……でも、平和を願うってのは──」
彼女の言葉がふと漏れる。
手を止めずに、つぶやいた。
「事故、よほど堪えたみたいだね」
そのひとことで、何かが決壊した。
「あぁ。……救急車が事故にあったとき、銃撃戦に巻き込まれたんだ」
口にした瞬間、取り返しのつかない感覚が喉を通過した。
イヴは、書く手を止めてこちらを見た。
その眼差しは、聞く準備ができている者のそれだった。
「うん」
続きを促す、柔らかい音。
「……銃を持ってた犯人は、完全にイかれてた。
“うるさい”“うるさい”って叫びながら暴れて、まるで、世界そのものに恨みがあるみたいで」
「……うん」
「でも──ある瞬間、俺……そいつの気持ちが、わかっちゃったんだよ」
沈黙が落ちた。
それは、同意でも拒絶でもない“間”だった。
けれど、その“間”こそが、俺に続きを語らせた。
「妙な音が聞こえた。戦闘機、銃声、雄叫び──誰かの悲鳴。
その時、あの場所が……“戦場”に思えた」
その感覚は記憶じゃなかった。
もっと奥深く、神経の繊維に直接刷り込まれた“風景”だった。
「その空気が……俺の中に入ってきて……」
“人を殺せと命じられた”──
そんなこと、言えるはずもなかった。
「空気が? お兄ちゃんに?」
イヴは、優しく繰り返した。
その声が、問いというより“通訳”のように聞こえた。
「……ああ。ヤバいって思ってさ、逃げたんだ。そしたら──近くの車が、爆発した。
あれは……本当に、危なかった」
「へぇ〜」
イヴは無邪気に頷いた。
その反応の無垢さに、俺の冷や汗が皮膚に張りついた。
たぶん、俺は自分の中の“説明できない何か”を、
誰かと──この妹と、共有したかったのだろう。
「そういう時に、“何か”が助けてくれたような気がして。だから……神様って、いるのかもな」
呟きのように言った。
「あ、そういう話? 第六感の話かと思った」
「……おい、嫌なこと言うなよ」
「?」
俺は“感覚”という言葉に、過敏になっていた。
その単語の重みと影に、無意識に怯えていたのかもしれない。
──しばらく、間があった。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
イヴの声が、改まった調子を帯びていた。
「お兄ちゃんがちゃんと歩けるようになったら──
私の車椅子、押してくれない?」
静かな、でも確かな願いだった。
「街を歩きたい。……私、行きたい場所があるんだ」
その言葉に、なぜだか“未来”の形が宿っていた。
「……記憶喪失のお兄ちゃんなら、街も新鮮で楽しいんじゃないかな」
「……あぁ。じゃあ、デブリドがOKって言ったら──」
「やったぜ」
許可も出ていないのに、もう喜んでいた。
その笑顔は、ただただ安らかで、“今”を照らしていた。
──だが。
**その約束が、俺を大きく変えることになるなんて、その時の俺は、まだ知らなかった。**