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第十話 『 感謝いたしております 』

あらすじ:

悪夢は、過去の記憶からではなく、現在からやってくる。


アダムは深夜の病床で、かつての“スワン”としての罰を模した悪夢に襲われる。

裏切られ、包囲され、発砲され、そして処刑される夢——。

その一秒、二秒という“時間”が、やがて死のスイッチへと変わる地獄の中で、彼はようやく自分自身の行いと向き合うことになる。


目覚めた現実は静かで、だが容赦がなかった。

妹イヴは、兄の変化と沈黙を見逃さなかった。

記憶喪失の兄が起こすはずのない異常な行動。繰り返しチェックされる株価。

彼女は静かに論理を積み上げ、**“兄がスワン・アイデンテなら”**という仮説から、犯行と利益の構造を推論してゆく。


「——お願い。

どんな手を使ってもいい。

全部が終わったら、一緒に不幸になろう」


妹の言葉は、犯罪すら肯定するものだった。

けれどそれは、倫理の放棄ではなく、心からの願いだった。


そしてアダムはようやく悟る。

“罪”の意味ではなく、守るべきものの輪郭を。

記憶を失っても変わらなかった、“何よりも大切なもの”の存在を。


——たとえ道徳を捨て、理性を焼き尽くし、心を差し出しても。

何に尽くし、何を生きるのか。

“心より”大切なものが、世界にはまだあるのだ。

矯正が終わり、迎えの始まり。


「……では、最後に確認します。あなたは今回の服役を通じて、自身の行動にどのような再評価を加えましたか?」


広々としたカウンセリングルームに響く、無機質な問いだった。

女医のような白衣の人物が、事務的な声色でそう言った。音は弧を描くように反響し、対角線の席へと届く。


そこには、ドミトリ・オレヴァノフがいた。

憔悴しきった面持ちのまま、彼は皮肉な笑みを浮かべる。

手は所在を求めて宙を彷徨い、目は地面のなにもない点に吸い寄せられている。


「“貨幣は人を欺かない。ただし、人は貨幣でいくらでも欺ける”……そう思っていたよ。

でも今は違う。金は——私を見捨てた」


「反省の……言葉と受け取ってよろしいですね。記録にはそう記します」


「好きにすればいい。君たちにとって重要なのは、私が何を思っているかじゃない。“反省済みの罪人”というタグの整合性だろう?」


「企業と社会は、再犯リスクと体裁を重んじます。あなたの態度が“信用”の回復材料になるのです」


「信用ね……信用ってのは、“誰が最後まで小綺麗な表層を保てるか”、ってことだったんだな」


女医は無表情のまま記録端末を操作する。

その指先は人を評価する装置にすぎず、彼の言葉にはまるで興味を示さなかった。


「詩的ですね。ですが、あなたの“嘘”はすでに処理済みです。

社会は、再構築されたあなたのプロファイルを受け入れるでしょう」


ドミトリは両手で額を覆い、天井を見上げる。


「私はもう誰にも信じられていない。ただ……“買い戻された”だけだ」


「……では、以上で最終カウンセリングを終了します。

あなたは“更生済み”として記録され、本日付で出社となります」


静かな間が流れ、次いで女医は立ち上がった。言葉に感情はなく、ただ台本の行をなぞるようだった。


「ドミトリ・オレヴァノフ。刑務社を代表して申し上げます——」


「お勤め、ご苦労様でした」


毒にも薬にもならない言葉だった。

その無風の送辞を受けて、ドミトリ・オレヴァノフは社会へと“帰還”する。


「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」


長いため息。

それは溜息というより、放棄された熱が地面へ抜けていくような音だった。


刑務社の出口はあまりに簡素で、コンクリートの塊から無理やり穿たれたトンネルを抜けると、世界の輪郭はにわかに眩しさを取り戻した。


目の前にはゴミに埋もれた車道と、テントの残骸。

ホームレスの名残と野良犬の咆哮。

その一角に、一台の黒い車が停まっていた。


ゆっくりとウィンドウが開き、運転席の男が半身を乗り出す。


「よう、“兄弟”。お迎えだ」


その声に、ドミトリの肩がピクリと反応する。


「……できれば来てほしくなかったよ」


「そいつぁご挨拶だな……乗れ」


助手席のドアが開け放たれた。

ドミトリはわずかに躊躇しながらも乗り込む。扉が閉まると、車内は奇妙な沈黙に包まれた。


バックミラー越しに見える後部座席には、誰もいない。だがその空白が、かえって居心地の悪さを助長していた。


「私は……どうすれば?」


「“ママーシャ”に、出所挨拶ズドラーストヴィを言いに行くんだよ。——ご機嫌よう、とでもね」


「……気が重い」


「気は楽にしとけ。なぁに、形式的なもんさ」


ハンドルが切られ、車は音もなく走り出した。


出社後の最初の目的地は、何故か、服飾店。

停まったのは、街の高級テイラーだった。


ショーウィンドウには、仕立て上げられた数体のマネキンが行儀よく整列していた。

その衣はどれも、過剰なまでに丁寧で、均整の取れた虚飾に包まれていた。


「……こんな場所に何の用だ?」


ドミトリは訝しげに問いかける。


「落ち着けって。まさかその格好でママーシャに会うつもりか?」


言われて、ドミトリは自分の服に目を落とす。

スーツは“あの事件”のまま。

袖口には煤がこびりつき、どこか焦げ臭さすら残っている。

彼が逮捕された時から、誰の手によっても手入れされていなかった。


運転手の“兄弟”が先に車を降りると、ドミトリも従う。

扉のベルが古めかしい音を立て、店主が顔を上げた。


「……いらっしゃいませ」


年老いた店主は、すぐに客の素性を察した。

“普通の買い物客”ではないと、経験で理解していた。


「すぐにスーツが欲しい。この兄弟にだ」


「ビジネスでしょうか?フォーマルでしょうか?」


「ビジネス……いや、フォーマルだ。“ママ“に誠意を示せる黒いやつ」


「それでは、合う既製服を。サイズを確認させていただきます……ちょうど良い物がございます」


店主は一瞥しただけで、ドミトリの体型を見立てた。

その精緻な勘は、長年に渡って無数の“顧客”を測り続けてきた結果だ。


「袖を、どうぞ」


「ああ……」


腕を通すと、ジャケットはたしかに上等だった。

だが、袖丈がわずかに短い。仕立ては完璧に近いのに、どこか“仮”のような印象を与える。


「ここまで上等なものを……間に合わせで?」


「大丈夫です。お代は——不要ですから」


「……?」


唐突な言葉に、ドミトリは兄弟を見やる。

兄弟は鼻で笑い、話を逸らすように尋ねた。


「あー、娘さんは元気か?」


「おかげさまで。ようやく外を歩けるようになりました」


「よかったよ。自動警察には、心までは正せないからな」


「ええ。あの強姦魔が、まだのうのうとしていたらと思うと……」


「金持ちのボンボンも、今回は高くついたな」


「それもこれも、“ソロトフスカヤ”の皆さんのおかげです」


会話が終わると、店主は丁寧にジャケットの裾を整えた。

そのやり取りを見て、ドミトリはようやく悟る。


この“礼服”は、贈り物ではなく報酬だ。

感謝を彩るための衣裳なのだ。


「……また来るよ」


兄弟の言葉と共にドミトリは店主に一礼し、再び車に戻る。

後部座席には先ほどと同じく、誰かが“座っていない”。

だが、だからこそ——気味が悪かった。


「そんじゃあ、ママーシャのとこへ行くぞ」


車は再び走り出す。

行き先は、都市の外れ——港湾地区。

たどり着いたのは、海辺の広大な施設だった。


沈みかけた建築物の屋上には簡易の堤防が設けられ、複数の貨物船が係留されている。


沿岸では、胴長ウェーダーに身を包んだ男たちが黙々と作業していた。

彼らが重機で甲板に積み上げている金属箱の中身が、単なる荷物ではないことは、ドミトリにも経験からすぐに理解できた。


「着いたぞ」


兄弟は言うと、ギアをパーキングに入れ、目配せだけで降車を促した。


ドミトリはふと、ルームミラー越しに後部座席を一瞥する。

そこにはやはり、誰も座っていなかった。


だがその“空虚”は、埋まっていた。


海風に晒されながら歩き出すと、波の音とカモメの声が混在する、奇妙な静寂が辺りを包んでいた。


錆びた金属の階段を一歩ずつ登ると、格納庫の社務所が姿を現す。

その扉の上では、監視カメラがギョロリとこちらを凝視していた。


ドアが開く。


迎えに出てきたのは、港の労働者とは異なる、無駄のない身なりの屈強な男たちだった。

彼らは無言のままドミトリを身体検査し、異常がないことを確認すると、軽く頷いた。


金属製の扉の先に現れたのは——外観とは裏腹に、異質すぎる空間だった。


整然と磨かれた白い床と、冷たい金属の壁。

まるで医療施設か、あるいは衛生管理の徹底された研究所のような内部。


中央に鎮座するのは、一台の巨大な機械。

紙を送り、印刷し、裁断する。

吐き出されるのは、一枚、また一枚の100ドル札。


ここは「造幣所」——

そして、「偽装された現実」の中心だった。


「……」


その機械の前に、一人の少女が立っていた。

背筋を真っ直ぐに、揺れるプラチナブロンドの髪。

くすんだ灰色のレトロなワンピースに、黒い革手袋。

足元には、杖。それを支えにしてはいない。


彼女の名は——ママーシャ。


「ドミトリ・オレヴァノフ。お勤め、ご苦労様です」


「いえ……すべては、ママのおかげです」


ドミトリは深く頭を垂れる。

年端もいかない彼女に対して、彼はまるで王に謁見するかのようだった。


「今回の件は……誠に、申し訳ありませんでした……」


「いえ。謝罪は不要です」


声色には温度がなかった。

それは赦しでも怒りでもない。単に記録された言語にすぎなかった。


「自身の保釈金だけでも、必ず返します」


「……では、それはしてもらいましょうか」


「はい……!」


ドミトリは、そこにかすかな赦しを見た。

彼女はそんな彼にゆっくりと近づく。


「今日、私があなたを呼んだのは——謝罪を求めるためではありません。

誤解させてしまったのなら、謝ります」


「……では?」


「“スワン・アイデンテ”についてです」


空気が変わった。


その名が発せられた瞬間、空間から重力が加算されたかのようだった。


「あなたが彼について知っていることを、すべて教えてください」


ママーシャの言葉には、命令でも懇願でもない、静かな圧があった。


「……自動警察には、何も提供していません」


「えらいですね」


「若い男でした。十代後半……声でわかりました」


「若者、ですか」


「なのに、小慣れていた。まるで社内構造を理解していたかのような……いや、違う。

あれは、犯罪に特化した動きでした。人を撃つことに躊躇がない。全てが、プログラムされているようだった」


「前科者……?」


「時間を異常に気にしていた。警察突入の直前に脱出し、爆弾以外の方法で金庫を破壊。地下は水で満たされていた」


「計画的だった」


「そして銃——扱いに慣れすぎていました。まるで訓練されたガンマンのように」


ママーシャは顎に指を添えたまま、数秒の沈黙を置く。


「……それだけですか?」


「まだひとつだけ、心当たりがあります。

——奴は、私の金時計を奪っていきました」


「時計?」


「時間を確認するために。高価な物だったので……換金しているかも」


「……なるほど。探してみます。似た品が流通していないか」


彼女はわずかに満足げな頷きを見せた。

その仕草を見て、ドミトリは思わず口を開く。


「スワン・アイデンテを……捕らえるつもりですか?」


「ええ。その通りです。

やはり“九”とかいう、自動警察の下げマン女は、社会的体裁を保つため、捜査を放棄しているようですので」


その語尾には、かすかな怒気が含まれていた。

それは、彼女の“少女らしさ”を確実に消し去っていた。


「ドミトリ……セーカ、ってわかりますか?」


ママーシャの声が、ふいに変質した。

先ほどまでの事務的な口調ではない。問いかけるようでいて、断罪を予感させる温度を持っていた。


「セーカ……?」


ドミトリはその言葉を復唱した。


「“正貨せいか”。

然るべき共同体、そしてその共同体に属する人々の信頼と制度的裏付けによって貨幣としての価値を保障されたもの。……でも、ここで刷られているのは、もう“正貨”ではありません」


「……っ」


「焼かれた現金は——また刷ればいい。

けれど、信用は、刷り直せないのです」


それは、ドミトリの心臓をゆっくりと絞めつけるような言葉だった。


「ミンテージ社の不正な搾取構造が露見し、信用は地に落ちました。

そして私は——それを回復させる“義務”を負っています」


「……本当に、すみませんでした」


再び深く頭を下げるドミトリ。

しかし、謝罪はもう無力だった。


ママーシャは近寄り、手袋越しに彼の袖をなぞる。


「出所という晴れの日に、こんなにも厳かな喪服を纏わせるなんて……誰の発案でしょう。

——きっと、イワンですね。まったく」


「いえ……彼は、気遣ってくれたんです。

それに、上等な服です」


「……そう、ですか」


少女は杖を脇に挟み、ドミトリのネクタイに手をかける。

緩んだ結び目を整えるように、その根元を指先で撫でた。


けれど次の瞬間、彼女はそのネクタイの先端を掴むと、造幣機のローラーへ——


「っ!?」


突如として、ネクタイは強大な力に引き寄せられた。

ドミトリの体が前方に引きずられ、膝を床につかせられる。


見れば、ローラーは止まっている。

造幣機の安全装置が作動していたのだ。

それでもその一瞬で、ドミトリの全身は恐怖に塗り潰されていた。


「ママーシャ!?な、何を……!」


「わかるでしょう?」


その声は、少女のものではなかった。

理知的で、冷酷で、すでに生者の倫理を離れた存在の声だった。


「信用を取り戻すために最も効果的な方法——それは、“罪を、処罰した”という事実を、演出することです」


「ふざけるな!貴方だって、非倫理的だと知っていたはずだ!

私は……私は組織のために、利益を生んだ!」


「利益……?

それで損なわれた信用を、あなたが回収できると?」


ママーシャは腰のホルスターから一丁の拳銃を抜いた。


R9-ARMS。実弾仕様。

本物だった。


スライドが滑らかに後退し、薬室に弾が装填される。

少女の小さな手には不釣り合いなその銃口が、ドミトリの額に突きつけられる。


「怖いですか?」


その声はあくまで静かだった。


「怖いですよね。だって“見て”いるから」


トリガーにかかる指。

引き金が動き出す前、ママーシャは続けた。


「壁に飛び散る脳漿。吹き出す動脈血。気管に詰まった血液が、最後の呼吸で泡立つ様……」


「っ……は、はぁっ……!」


ドミトリの呼吸が乱れる。脳が身体を制御できなくなる。


「あなたがミラー越しに“見ていた”から、後部座席の兄弟は、あなたを穏やかに殺せなかった」


「……!」


彼女の声に、確信が混じる。


「経験は人を過剰にします。

——けれど、同じ目に合わせるのは、少し酷ですね」


彼女は銃を下げ、ホルスターへと戻す。

そして手袋をゆっくりと脱ぎ始めた。


現れたのは、カーボンファイバー製の義手だった。

その機械的な指が、微かに軋みながら動く。


「最後に、面白いものを見せてあげましょう」


彼女は義手でピースサインを作った。

次の瞬間——その指の間に、青白い電流が走る。


『バジッ』


まるで、人間に装着されたスタンガンだった。


「そ、そんなものが……」


ママーシャは造幣機のパネルに近寄る。

義手を擦り合わせるようにして、より強い電荷を帯電させる。


パチパチと、空気が焦げるような匂いが立ち込める。


「それじゃあ——さようなら」


静かに、冷たく。


「今までの働き、感謝いたしております」


そして彼女は、帯電した手で制御パネルを触れた。


造幣機が起動した。


ローラーが唸りを上げて回転を始めた。


ドミトリの身体は、その間隙——数センチの間に無理やり引きずり込まれる。


骨は折れ、皮膚は引き延ばされ、声も出ない。

人間だった“何か”が、機械のなかでただの物体へと変貌した。


ママーシャはその様子を、何の感情も浮かべずに見ていた。


やがて造幣機が止まり、静寂が戻った。

ママーシャは義手を撫でるように戻し、手袋を装着し直すと、ゆっくりとポケットから携帯端末を取り出した。


小さな電子音のあと、電話はすぐに繋がる。


「片付けました。早くこのチンカスを処理して下さい」


『……どのように?』


「そうですね。自宅にでも吊るしておいて下さい。喪に服した格好でしたし、自殺って体裁で」


『了解』


「ああ、でも完全に自殺とは思わせない程度に。死体の状況が凄惨なので、うまくバランスが取れるでしょう」


彼女は造幣機に詰まったままの“それ”を見やり、かすかに笑みを浮かべる。


「ソロトフスカヤ・シンジケートが制裁した、と。そう受け取れるように」





《ニュース NTN》


ミンテージ社、不正発覚で信用失墜

電子通貨銘柄に資金流入、株価急騰


ロポリス経済を支えてきた現金発行企業 「ミンテージ実貨幣統制社」 による不正形態が、内部情報によって露見した。

一連の情報は、容疑者「スワン・アイデンテ」が関与した犯行に伴って拡散され、瞬く間に金融市場を震撼させている。


これにより、同社が掲げてきた「正貨の裏付け」は失われ、現金そのものへの信頼が急速に崩壊している。


市場は即座に反応した。現金資産を手放す動きが加速し、代替手段として複数の電子通貨銘柄が買い込まれている。


特に 「ゼノペイ社」 や 「オルタコイン・グループ」 の株価は一日で**前日比+47%**と記録的な上昇を示し、電子通貨セクター全体の時価総額は過去最高を今もなお更新し続けている。


経済学者たちは、今回の事態を「貨幣史の転換点」と指摘する。


「現金は社会的契約に基づく幻想にすぎない。スワン・アイデンテによって、その虚構が剥き出しにされた。信用は、より透明で追跡可能な電子台帳へと移っていくだろう」

(金融大学准教授)


街頭では、現金を焼却する市民の映像までもが拡散されている。

「紙切れに何の意味がある?」と叫ぶ声は、かつて国家が保証した価値体系が音を立てて崩れ落ちる現場を象徴している。


この不正を告発することになったスワン・アイデンテの動機は依然として不明だ。だが彼が点火した火種は、通貨システムの根幹を焼き尽くし、社会を電子通貨中心の新たな秩序へと駆り立てている。


・・・


画面の中で、株価が騒いでいる。


緑と赤の点滅が、高音域の電子音と共に上下し、グラフの尾は俺の知らぬところで着実に山を作ってゆく。


「また上がってるな」


誰にも届かぬ独り言を、ベッドの上でこぼした。


映っていたのは、ミンテージ社ではない。

その競合他社。電子通貨セクターの中心銘柄。


——それは、俺が燃やしたものの“対価”だった。


紙幣が火に包まれた瞬間、通貨の価値はデータの波へと転移した。

俺の手で。いや、“スワン・アイデンテ”という名の衝動の手で。


「事件とか株価とか……そんなの見て、楽しい?」


イヴがパンをジャムの小容器に突っ込んだまま、軽く呆れたように俺を見た。


「楽しい……っくはないな」


平坦な声を装って返す。

本音は、何も感じていなかった。

ただ、自分の行動がこの数字を生んだという事実が、脳の奥底に熱を孕んで沈殿していた。


昼食の匂いがする。けれど俺の腹は動かない。

かわりに、デブリドから渡された鎮痛剤を一粒、水なしで飲み込んだ。


口内が苦くなり、のどを通った瞬間、痛覚が音もなく消えていく。

まるで、神経が“感覚の更新”を停止したかのようだった。



「というかさ、なんでお兄ちゃん急にベッド戻ったの?」


「……いや、腰が痛くて。さすがに椅子で寝るのはキツい」



脚色された理由を口にする。

真実は言えない。

“夢”の中で、自分がどれだけのものを焼いたのか——それが現実と繋がっていることを、言えるはずがなかった。


イヴは「ふーん」と言いながらも、表情には何か引っかかるものがあった。


その直後。


テレビの音声が切り替わった。

感情の無い電子音が、ニュース速報を告げる。


・・・


《速報》


ミンテージ社幹部のドミトリ・オレヴァノフ氏、自宅で死亡


不正搾取関与後、保釈直後の急死に波紋


本日未明、ミンテージ実貨幣統制社 元中央支店長の ドミトリ・オレヴァノフ氏(52) が、ハイランド内の自宅で死亡しているのを近隣住民によって発見された。


オレヴァノフ氏は先週、ミンテージ社における不正な現金搾取に関与していた容疑で、自動警察によって逮捕されていた。

その後、刑務社を通じて多額の保釈金を支払い、数日前に釈放されたばかりだった。


インターネット上では、同氏の不正関与を糾弾する書き込みや誹謗中傷が連日拡散されており、社会的信用は地に落ちていた。

自動警察は、現場の状況や遺書の有無を踏まえ 「自殺の可能性が高い」 として捜査を進めている。


今回の急死は、ミンテージ社の現行形態崩壊に拍車をかける形となり、市場関係者からは「一連の騒動を象徴する出来事だ」との声も上がっている。


・・・


血液が逆流するような音が、頭の中で膨張した。


「……は?」


現実の語彙として最も空虚な言葉が、口から漏れた。


ドミトリが——死んだ?


画面に映るのは、あの顔だ。

スーツ姿の肖像。

「自殺の可能性」との字幕。

住民による発見。

ネットの誹謗中傷。


だがそんな外的情報は、全て脇に置かれた。


俺が、殺したんだ。


間接的に?

結果的に?

——違う。


俺が引き金を引いた。

俺が火を点けた。

俺が“選んだ”。


彼を犠牲にすることで、この経済構造に風穴を開けるという計画を。


昔、人を殺そうとしたことがある。

あの時の俺には、大義があった気がした。

少なくとも、自分の立っている場所が“正義”だったと信じられた。


だが今は違う。


今の俺は、誰のためでもない。

何かを“正す”わけでもない。

ただ、自分の内なる「正義ごっこ」に誰かを巻き込んで、命を奪っただけだ。


「お兄ちゃん?」


イヴの声が、遠くから届く。


「なんか、様子が変だよ?」


「……別に」


答えながら、ポケットの中の鎮痛剤をもう二錠、指で弾いて口に投げ入れる。


痛みから逃げたいのではなかった。

“感じる資格”すら失った気がしたからだ。


……いや、やっぱり前者かもしれない。


神経を麻痺させれば、心もそのうち沈黙するだろう。


——それでも。

それでもなお。


俺は、この感覚を捨てることができなかった。

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