第一話 『 拝啓 』
古来より、人類は進化を続けてきた。
サヘラントロプス・チャデンシスに始まり、ピテカントロプス、ネアンデルタール、そしてホモ・サピエンスへ。
彼らは二足で歩み、火を制し、言葉を操り、思考を巡らせた。
世代を超えて受け継がれてきたのは、ただのDNAではなく、「人類」という名の象徴だった。
では今、それを凌駕する"何か"が現れたとしたら——
我々は、その称号を、そう容易く手放すことができるだろうか?
……その問いに答えを出すには、ある救急車の横転から話を始めなければならない。
──救急車、観音開きの後扉が、沈黙の中で勢いよく開いた。誰の力も借りずに。
炎が既に、車内を炉内と錯覚させるほど整然と焼いていた。
暖炉、薪ストーブような錯覚。規則的に立ち昇る黒煙は、煙突すら持たぬまま、まるで人工物のように水平に伸びていく。
違和感。物理法則の裏切り。
それが、俺の意識を覚醒させた。
気づけば、世界は傾いていた。
頬を刺すアスファルトの粒子。
横倒しの車両。重力に従順な扉。
救急車ごと横転していたのだと、今さらのように知覚する。
仰向けに転がる視界の果てに、青が広がっていた。
真昼の群青。炎の赤に焼かれ、灼熱で濁っていた眼球が、ようやく色彩を取り戻していく。
──生きている。
意味もなく、そう思った。
──有るべき記憶が、無い。
備わった本能で、気づいた。
此処は何処で、俺は誰。忘却の彼方。
そんな誰もが聞いた台詞。
今の状況に不要な情報群が、無意味に残されていた。
次に、うつ伏せになった。首だけを動かし、視界の断片をかき集める。
交差点。二本の大通りが十字に交わる都市の要所。
無数の車両が放棄され、開きかけたドアからは、まるで“人間の不在”が覗いているようだった。
カーナビには『GPS信号を受信できません』の文字。
警察のバンが露店のショーケースに突き刺さっている。
この混沌に、秩序の意図は一切なかった。
人々は消失したのではない。逃げ出したのだ。
──俺も、逃げなければ。
腕を地面に突いた。
だが、走ったのは筋肉の悲鳴ではなく、異物感だった。
何かが刺さっている。肩口に。
ピンセットのように指を使って抜き取ると、針の跡から温かな血が風船のように膨らみ、破裂することもなく肌に馴染んでいった。
記憶を失い、どこか他人の肉体のような質感に、俺は恐怖すら抱けなかった。
──冷たい。
じわりと手のひらを濡らした感触は、単なる液体ではない。
路面の隙間から、溝をなぞるように冷ややかな血が流れて来た。
その流れの先には、人間が一人、倒れていた。
青白い衛生服。恐らく、救急隊員。
俺は、膝をつき、その傍らに歩み寄った。
「だいじょ、ぶ……っ!」
大丈夫か。そう声をかけようとした瞬間、脳を揺さぶる激痛が走った。
言葉が歪む。破れた鼓膜が、自分の声すら跳ね返してくる。
それでも、肩に手を伸ばす。
相手の死を拒むように、揺らした。
身体は、抗わなかった。
露わになった顔。
瞳は焦点を持たず宙を見つめ、鼻と口からは大量の血が流れ落ちていた。
口元には、血球の塊がこびりつき、
頭部には、直径一センチほどの銃創。
縁が内側に巻き込まれ、まるで人形に空けられた規格穴のようだった。
──撃たれている。
事故ではない。
殺意がこの場に在った。
思考が警告を発するより早く──
「動くなッ! 自動警察だ!」
裂帛の声。
破れた鼓膜にも容赦のない指令音だった。
咄嗟に顔を上げると、そこには重装備の兵士たち。
独創性豊かに改造されたライフル。
それを構えた警官が、弧を描いて俺を包囲していた。
銃口。
すべてが、こちらを向いている。
いや──違う。
この圧力は、俺に向けられたものではなかった。
ゆっくりと、振り返った。
いつの間にか、橙色の囚人服を着た男が立っていた。
音もなく。
いや、“受容できなかった”だけで、音はあったのかもしれない。
全身に入れ墨を施した腕が、拳銃を握っている。
もう一方の腕が、俺の首に回され──
銃口が、こめかみに押し付けられた。
「黙れ黙れ黙れ黙れッ!こいつを殺すぞ!!」
狂った怒声。意味と情動が乖離していた。
皮膚を締め付ける腕の圧力。
それは現実感を喪失させるには十分だった。
「……武器を下ろして」
女性の声だった。静かで、それでいて抗えない指示。
その主は、周囲の中で唯一、重武装の中に冷静を保った存在だった。
ライフルを腰に下げ、両手をゆっくりと開く。
それに倣って、他の隊員たちも銃口を下ろしていく。
「黙るわけにはいかない。この状況を終わらせるには、対話が必要……でしょう?」
その口調には、揺るがない理性と、抑えきれない支配力が混じっていた。
「ごごご……ごめんなさい。違う、がう、そうじゃ、ない、私は、違う。違う……お前らとは違う。がう、ライオン、強い、私、私は、強い、ごめんなさい。強くて、ごめんなさい。さい、サイ、強い。」
囚人の声は、崩れたラジオのようだった。単語は一つひとつバラバラに鳴っているのに、どこか連なりを持っていた。
「大丈夫。謝らなくていいの。……話をしましょうか。貴方はダニエル…囚人番号D2765よね?」
女性は歩く速度ではなく、言葉の速度で距離を詰める。
「そうだ。私はダニエル……ダニエル・カラクル。D2765341975868896は、ダニエル・カラクル。
違う、27898989898989は、ダニエル、違う、違う違う違う違う——」
「……はい?」
「違う違うッ!私は、番号じゃないッ!!」
「──あぁ、ね。皆ごめん、交渉は苦手なの」
瞬間、会話は壊れた。
男は取り乱す。
銃口が、再び一斉に向けられた。
緊張の糸が、音を立てて弾ける寸前で──
先に動いたのは、女性の方だった。
三点バースト。軽やかな連射音。
すべてが正確に、男の額に命中した。
だが──
「五月蝿い!煩い!うるさいッ!!」
男の額からは、液体化した弾丸が、血とは異なる重さで垂れていく。
まるでそれが“効いていない”かのように。
彼は仕切りに、銃声の騒がしさについてがなり立てた。
「痛覚を受容していない!」
女性の声が鋭く響いた。
「お前らが始めたんだ……人質ななななんて──必要ない」
男が呟いた、次の瞬間、俺の身体は空を舞っていた。
羽交い締めにされたまま、軽々と投げられる。
車のフロントに叩きつけられた衝撃が、脳を揺らす。
聞こえたのは、車の盗難防止アラーム。ガラスの破砕音。
「騒がしい。喧しい。騒騒しい。けたたましいッ!」
鳴らした根源の怒声。
続いたのは、隙を見つけた警官隊の銃声。
男は、撃たれ続けても止まらなかった。
反動は、足踏みの為の初動でしかなく。
受け入れるかの様に、銃弾の雨を仰いだ。
「囂しい」
雨で空気が切られる中、男が呟いた。
弾丸は彼の周囲を飾るだけの装飾に変わり、
ついには一人の警官のバイザーが撃ち抜かれた。
殺された彼は、辺りに無差別に撃ち散らかし、崩れ落ちた。
──男の銃弾だけが、人を殺せる。
俺は、地面を這うようにして車の陰に逃げ込んだ。
「ソイツは音に過敏だ!刺激するな!」
出過ぎた警告をしてしまった。内容は既に明快。
警官らも、それには気付いていたはず。
ただ、警察の無力感が伝染し、居た堪れなくなったのだ。
警告が反響し、裏付けの様に、男の銃弾が車体に飛んできた。
過ちは俺を冷静にした。
──どうするべきか。逃げ出すべきか。
次の手が、生死を分つ。かもしれない。
視界の端にふと、暖炉が映った。いや、救急車。
別角度から晒された車体、それは不自然だった。
出火元は車内、車外にその痕跡は無い。
──まるで誰かが、意図して火を放った様だった。
しかし、そこだけが現実だった。
──ふと、声がした。
「今の状況で、何処の何を見ているんですか?」
不意に耳元で囁かれ、心臓が跳ねた。
隣には、あの女性隊員。気づかぬうちに、俺の隣へ滑り込んでいた。
「いつから……?」
「さっきから。遠くで呼びかけたのに、応答がなかったので。……私のこと、分かります?」
「……さっき、撃ってた人だろ」
「それ以外の答えを予想したんですが。まあ、正解です」
「はい?」
状況は最悪だったが、彼女の声音だけは妙に落ち着いていた。
「部隊の継戦力が限界です。交通は完全に麻痺しており、増援も見込めません。……撤退します。同行を」
「あの狂人を放置して逃げるのか?」
「放置ではありません。対処不能、です。痛覚が切られ、実弾も所持している。対して、ウチの通常弾では、痛めつけるのが関の山ですから。」
「ウチ?通常弾?……アンタら、何者なんだ」
「“自動警察”。このエリアの警務権は、我々の契約範囲。個人によって雇用される、刑事企業です」
「……なるほど。わからん。」
俺の口から、現実に対する拒否反応のように、言葉が漏れた。
都市の機能は国家ではなく、企業へ移譲されているらしい。
「……それにしても」
彼女の言葉が、唐突に切り替わる。
「ここの地盤、保ちません。事故による衝撃で構造が破壊されています。崩落は、時間の問題で──」
「は……?」
その言葉とほぼ同時。
地面が、悲鳴を上げた。
アスファルトが、真下から持ち上げられるように爆ぜる。
空気が震え、爆風が押し寄せる。
次の瞬間、彼女が俺に覆いかぶさった。
反射的に俺の腕を押さえつけ、そのまま──落ちた。
崩れゆく地盤。割れるコンクリート。鉄骨が悲鳴を上げる。
俺たちは、その裂け目の中へ叩きつけられた。
──着地の衝撃で、空気が肺から奪われた。
「……っ!」
俺の下にいた彼女が、苦しげに喘いだ。
背を強打したのか、呼吸は浅く、喉がかすれる音しか出ない。
「おい……大丈夫か!? 呼吸が……!」
「っ……吸え、ない……」
彼女の肺が潰れかけていた。
応急処置の知識など持ち合わせていない。だが、助けてもらったのだ。何かしなければ。
「くそ……!」
そのとき、銃声。
近くで、発砲音が連続して響く。
一発、また一発。
そして、静寂の中に響く、異質な一発。
──奴だ。
「……」
俺は息を殺した。
『ガシャッ』
足元で、破片を踏みしめる音。
そして──
「何なんだよ、お前は……」
血に濡れた囚人服。
額の傷は、まるで神話の戦士の印章のように輝いていた。
無言で、彼は銃を、倒れた彼女に向ける。
俺の姿には目もくれず。
どうやら、警察を殺すことが目的らしい。
「──黙って殺させるかよ」
咄嗟に、奴の腕へ噛みついた。
銃口が逸れ、弾丸は地面を抉る。
反動で視界が揺れる。
二人して瓦礫の斜面を転がり落ちる。
奴の拳銃が、地面に転がった。
その隙に、俺は手を伸ばした──
──拾った。
奴は、すぐに俺の背後から組みついてくる。
銃を構え、威圧する余裕などない。
俺は、肘で奴の脇腹を何度も打ちつけた。
……効かない。
奴はそのまま俺を持ち上げ、車の残骸に叩きつける。
フロントガラスが蜘蛛の巣のように割れた。
俺は、地を這うようにして逃れた。
左腕が痛む。
だが、拳銃だけは──握っていた。
奴は、静かに、確実に近づいてくる。
取り戻すつもりだ。武器を。
──もう、これしかない。地獄行きで構わない。
寝そべったまま、銃口を向け、引き金を引いた。
反動が、指を突き返す。
銃身から昇る白煙が、真っ直ぐに天を裂いていく。
命中──
腹部から、赤が花開いた。
真紅の染みは、橙色の服を呑み込み、地面に滴り落ちた。
──花が咲いた。
あまりにも唐突だった。
血溜まりに、もう一輪の紅が重なった。
本当に咲いていた。信じて欲しかった。
視界はおかしくて、脳は狂っていた。
しかし、幻覚ではなかった。
しおらしい花弁、がく、葉、茎には実体があった。
──銃声。爆発音。咆哮。風切り音。弾丸の唸り。
それらが、唐突に“聴こえ”始めた。
鼓膜は破れていたはずだ。なのに、音が──鮮明すぎるほどの精度で、脳を撃つ。
生きた音。死んだ音。これから殺す音。殺しに来る音。
それらは、もはや“知覚”ではなく“侵食”だった。
「何だこれ……うるさい! うるせぇええッ!!」
耳を塞いでも意味はない。
それでも俺は、蹲った。
──だが。
「……あなたにも、聴こえるんですね?」
声がした。
あの男だった。撃たれ、崩れ、血に染まりながらも、神の像のように跪いていた。
神聖な風貌は、先の狂乱とは違うベクトルで狂っていた。
「私たちは今、同じ青果を共有しているんです」
「セーカ……青果? 何を言ってる?なぜ死なない?」
「アダムとイヴは、禁じられた果実を口にしました。そして、新たな感覚を得た。羞恥、罪悪、死の恐怖。──それら感覚こそが、人間を人たらしめるのです」
噛み合うはずのない話が——噛み合い始めた。
「黙れ……異常者の妄言は聴きたくない」
「神が果実の罪悪感を受容していた様に、人は、より多くの感覚を受容することで、神に近づける」
男の言葉は、明晰だった。あまりに理性的で、先ほどまでの錯乱がまるで演技だったようにさえ思えた。
「我々は形です。素粒子のパズル。死とは、形の崩壊。人が死ぬとき、二十一グラムが失われる。
それは排泄、呼吸、血流の変化──しかし、本質は違う。
それは二十一グラム分の形状変化。人命の終端です」
「やめろ……!哲学を事実だと主張するのか…!?」
「人間がこの二十一グラムの壁を突破し、さらなる形を得るには、禁断の果実に似る感覚の種、“青果”が必要なのです。
生きながら、新たな知覚を得る──それが、我々の進化。私たちの進化です」
「違う……こんなのは、進化じゃない」
「進化ですよ。あなたは、さっき引き金を引いた。新たな感覚に触れた。それは、もう戻れない場所に来たということ」
「何故、俺に誑し込むんだ…!?」
「何故、人間が命を育み、慈しむのか、それと同じ問いですね。まぁ、私たちはもう"違う"のですが」
「頭の中に新たな常識があって…経験がそれを否定してる…!?怖い……怖い……!」
「人々は争いを繰り返す。その時、躊躇しない者が勝利する、勝つ為の進化。本能が殺しを正当化する感覚、私たちだけが得た青果です。怖がってはいけない」
「黙れ。黙れ。……黙れえぇ!!もう喋るなッ!!」
「受け入れなさい——ほら、もう五月蝿くて、勝ちたくて、殺したくて、堪らないでしょう?その気持ち、わかります。私だけが、貴方の良き隣人です」
「アンタみたいな快楽殺人鬼と、一緒にするなッ……!!」
「は?」
そう言って、彼は俺に馬乗りになり、喉を締めた。
「生物は進化するべくして生まれる。私の生まれを否定するのですか?」
顔には理性の仮面があった。
介助者のような微笑みで、俺を殺そうとしていた。
「くっ……苦しい……!」
視界が滲む。
酸素が欠乏し、意識が遠ざかる。
「どうやら貴方は進化──、向いてないですよ。」
その言葉が、教師のように厳しく、優しかった。
だが、それは命を断つ者の口から発されたものだった。
──次の瞬間。
目を見開いた俺の視界にあったのは、
理性を失った“顔”だった。
「殺す殺す殺す……殺すうぅぅぅぅう!!」
耳障りな絶叫とともに、仮面が剥がれ、異常な正体が再登場する。
俺は気づいた。
──感覚、常識が違えば、"正常"が違う。
俺は反射的に、地面に落ちていた拳銃の空砲を掴み、
その頭に叩きつけた。
男が体勢を崩す。
俺はその隙に身を起こし、這うように逃げ出した。
予備の弾倉を警戒し、奪われまいと空砲を握り込む。
──陰。影。車の残骸へと身を潜める。
数秒前の出来事が、記憶として曖昧だった。
(……いま、俺は……何を“受容”していた……?)
その時、確かに新たな感覚が芽吹いていた。
銃声は祝砲めいたクラッカーとなり、
硝煙を吐いたバレルは、願い事をしたケーキキャンドルのように視界を焼いた。
消えたはずの火は、瞬きをしても、まだそこにあった。
気づけば、ズボンに濡れた跡。
得体の知れぬ恐怖が、形として残っていた。
──あの女性は。
思い出した。彼女を放置していた。
(……まずい、あの人に殺意が向かう──)
だが、予想は外れた。
「かっかかかかかかかかくれんぼしゃ駄目だッ!?
かくれんぼしたいいいいいいぃぃぃぃぃい!?
隠れたら追いかけっこしたらいいですか?????」
奴は、俺を探していた。
車をひとつ、またひとつ、叩きながら。
意味のない叫びのような言葉で、追いかけてくる。
(……殺す気だ)
いや、最初からそのつもりだった。
"殺される"なんて、今更。
それがようやく腑に落ちた。
俺の中の“殺される”という概念は、既に死んでいた。
──代わりに、新たな感覚が生まれていた。
(殺さないと)
その衝動は、音を聴いた瞬間から。
あるいは、銃を握ったその時から。
奴に言わせば、生まれた時から。かもしれない。
俺は呼吸を整え、血の流れを感じながら、思考を研ぎ澄ませた。
何をすれば殺せるか。どうすれば葬れるか。
考えてる事は一つだった。
そして、最初に見た救急車に向かった。
観音開きの扉。燃焼しきっていた内部。
可燃ガスの甘い匂い。
密閉空間。
──俺は、扉をそっと閉じた。
「殺す」
口をついて出た言葉は、冷静な殺意だった。
──音を消した。
──影に潜んだまま、俺は呼吸を殺していた。
あいつの足音が近づく。瓦礫を踏むたびに、周囲の音が軋む。
「いない……!なんでふ……ふふ……ふええぇ……?」
男の気配が、車の角に差し掛かる。
空な眼で、何故か空を見つめていた。
そんな所に、人間は居ない。
その瞬間、俺は動いた。
手にした瓦礫の破片を、全身の力で振りかぶり──その眼差しめがけて叩きつけた。
「ギッ……!」
即座に躱そうとする男。
破片は額に食い込み、目の上に鈍い音を立てて割れた。
視界を潰すつもりが、仇となる。
単に姿を晒した。
もちろん──奴は止まらなかった。
一歩、また一歩と、血を垂らしながら近づいてくる。
狂気ではない。確信だった。
俺はすかさず、彼の胸元に飛び込む。
銃弾を打ち込んだ傷を指で抉った。
痛みが無くても、失血死は避けられないと考えた。
だか──奴の筋肉が、俺の指を締め上げた。
とんでもない力。抉ることも、抜くこともできない。
それもそうで、無痛覚の彼は、常識から外れてる。
「は、母。はははわ、初めましてですか?」
「──なわけねぇだろ」
その言葉と同時に、頭を鷲掴みにされた。
「っ──ぐ、ああッ!!」
俺の身体は宙を舞い、車のドアに叩きつけられた。
『バンッ』
頭が跳ねる。衝撃が、後頭部から視界の端を白く染めていく。
『バンッ』『バンッ』『バンッ』
何度も。何度も。繰り返される暴力。
車体のアルミフレームが、雷鳴の様に凹み戻る音を反復する。
──思考が、砂利のように散らばる。
力が抜け、崩れ落ちる。
拳銃の空砲が、懐から転がり落ちる。
男は無意識的に、銃を拾おうと歩き出した。
だが、その瞬間。俺は奴の足に手を伸ばし、絡め取った。
「ハイっ!?」
体勢を崩したダニエルが、地面に倒れ込む。
奴も這う。俺も這う。人間の形をした肉塊が、死を求めて擦れ合う。
──時間は、もうすぐだった。
あの車の中は、可燃性ガスで満ちている。
ここまでの数分間。
すべては、その瞬間のための舞台。
「──お返しするよ」
俺は奴の背後に回り込み、腕を肩越しに通し、今世紀最大の力で締め上げる。
筋繊維が、悲鳴をあげても聴こえない。
そしてそのまま持ち上げて──救急車へと叩きつけた。
『ドゴォッ!』
衝突。ガラスが割れ、密閉されていた空気が破れた。
──“応答”が始まる。
バックドラフト。閉ざされた車内に満ちていたガスに、酸素が混ざり、爆炎を呼び込む。
辺りは急激に二酸化炭素で飽和した。
「ぐあああああああああああッ!!」
爆発。
爆音。
轟音と共に、俺たちの身体が吹き飛ばされた。
世界が、燃えた。
俺は、ダニエルの身体を盾にして身を固めた。
爆風がすべてを巻き込む。
アスファルトが砕け、車体が吹き飛び、風景が、破壊という名前の音に塗り潰された。
──意識が、飛び始める。
爆風の衝撃に押されて、身体が浮く。
感覚のすべてが千切れ、重力から解放されたように思えた。
それも束の間、引力は万有を逃さない。
無意識の直前まで、頬にはアスファルトの冷たさ。
その感触に、既視感を覚える。
──また、か。
瞼を閉じたまま、俺は世界を聴いていた。
破壊された金属の悲鳴。風に舞う火の粉。遠くで鳴り響く警報音。
目を開ける気力すら、残っていなかった。
ただ、感覚だけが残っていた。
耳を通さず、皮膚を通さず。
直接、脳に触れてくるような、確かな“音”。
それはもはや、現実のものではなかった。
──誰かが、死んだ音。
──誰かが、これから死ぬ音。
そして、俺が何かを“受け入れてしまった”音。
禁断の果実が、頭の中で弾けたような感覚。
アダムとイヴが味わったはずの風味が、言語の外側で、俺の形を塗り替えていく。
──いや、二人に味覚があったのだろうか?
無かったとしたら──、何が二人を惹きつけたのか?
薄れゆく意識のなかで、二つの不確。
でも、もう関係ない。
自分が変わってしまったことだけが、確かだった。
この世界は、感覚の亡霊で満ちている。
そして今、その幾つかが当たり前の様に、俺に届いていた。