待つ時間
思考とは面白いもの。
さて。
何からはじめよう。
待つだけの時間。
そうしないために。
頭の体操になればいい。
だってこの物語は、メールが1通届くのを待つためだけに幕が開いた舞台なのだから。
わたしの名前、至極どうでもいい。
どうでもいいといっても名前がないわけではない。
けれど、ここで名前を出すことにはさほど意味はないと考えている。
なぜなら、この物語に登場する人物はおそらく数名。
もしくはわたしの思考をひたすら言葉として打ち続ける世界なのだ。
ともすれば、名前をここに書き記す必要はないと言える。
言えると信じてこのまま頭の体操を始めよう。
頭の中にはやるべきことがいっぱいだ。
ひとつひとつは問題でないものだとしても、実際ひとつひとつがそれなりに
膨大なものではあるのだが、その前提をなくしたとしても、問題は山積みだ。
途方もないほど問題が積まれている、とまでは言えない。
ただ、1人ではこなしきれないほどの問題は抱えている。
それは間違いない。
であれば問題というのをひとつひとつ片付ければいいのではないか。
通常であればその思考にいたり、人は問題をひとつずつ処理していき
いずれ抱えていた問題は塵と消えてなくなるだろう。
私の場合そうならないのには理由がある。
仕事とは、終わりがあるようで、一つの線路を進み続けることと同じなのだ。
つまり言いたいことは、仕事を一つ、また一つと終わらせ前に進むたびに
また仕事が増えるのだ。自転車操業という言葉がそれに当てはまるのか、
あるいは切っても切れない空気を吸い続けているのと同じことなのか。
それは今のわたしには、よくわからない。
わからないことを抱えていると、少しずつ思考は冷え固まっていく。
常に何かに追われ、新しい体験や、記憶に残る出会いは、そこにはなく
更新される引き出しの中身は、常にスカスカのまま。
スカスカだと何も生み出せないので、一本の鉛筆と紙程度が、そこには入っている。
さて、ここで問題が発生した。
なにが問題か、それはこの先の私の書くべき言葉が浮かんでこなくなったからだ。
一本の鉛筆と紙切れだけで、よくここまで持ったものだと感心すらある。
しかし、それは私以外の人にとっては、お前は一体何を考えているんだ、と
眉間に皺を寄せ、こちらに怪訝な表情を浮かべる結果になるのだろう。
そして人はこう思う。
考えすぎなんだと。
その一言で、ここまで書き上げた文章すべてに納得感が生まれる。
つまり私の小難しい理屈や知りもしない言葉をいくら並べても
そこに創造はなく、だからこそ破壊もされない。
この終わりのない思考こそ、人が生きているということなのだから。
生きていることは、考えること。
思考を放棄した瞬間、人は果たして生きていると言えるのか。
生物学的に人間という生物の身体が機能していることと、
そこに人が生きている、ということは同じではないと私は思う。
なぜなら、人という存在はすべてにおいて認知というものが
大多数の価値を生んでいるからだ。
誰もわたしのことを知らない世界で生きているとは、言えない。
知っている世界がある時点で、そこに生まれる共通点は人がひとりひとり
ちがう存在であることを証明している。
学者にいわせればそれは根拠のない屁理屈だと、一蹴されることだろう。
しかし、私はそれでも争う。
意志なき闘争に人は心動かされることも、心が動くこともないのだ。
心を問うのであれば、心臓という臓器を一般的に想像するだろう。
人間という生物を生きながらえさせるためにかかせない要。
要ではあるはずにもかかわらず、人の思考は頭蓋の中の脳味噌が担っている。
そうなると。生きている人とは、脳味噌ということになるのだろうか。
間違いなく今思考し、こうして文章を書けているのは脳機能が働いているからに違いない。
言葉をつくし、言葉で遊び、言葉をならべてきたのはなぜなのか。
思い出したかのように目の前のキーボードをカタカタと叩く。
指にも乳酸菌なるものはたまるのだろうか、乳酸菌飲料を飲むということは
運動してもいないのに、身体に乳酸菌を溜めていることにはなっていないのだろうか。
時間は人に死が待っているかぎり、有限であることは概ね間違い無いだろう。
概ね、とつけたのには、物事をはっきりさせて終わりたくない私の願望の現れである。
吾輩は、ときくと浮かぶのは2文字、いや指を折って数えてみたら5文字だった。
ここで一言。飽きというのは人の飽くなき探究心とは違い、すぐにやってくるもの。
しかし飽きがくる、ということはポジティブに捉えれば次の何かに出会えるかもしれない好機。
人が大好きなチャンスという言葉だ。
チャンスとは人の心を前向きに向上させ、何かを掴めるかもしれないと人は欲を出す。
その欲こそ、私は人を人たらしめている重要な感情だと考えている。
すべては人が何かを願う欲望から始まり、そこに終わりをもたらすのもまた欲望なのだ。
望めば望むだけ、その世界は広がり、逆に望まなければ、世界は閉じていく。
閉じて閉じて閉じた先に、未来という言葉は意味をもたなくなるだろ。
この先のすべては続いていくかどうかは、この人の欲というものの責任が問われる。
2079。
この数字を聞いて今何を考えたのか。
私が持っているお金?私が天命を全うし死を迎える未来予知?その実どちらでもない?
答えは先ほどまでの文字を打っていた文字数をみたらちょうど2079だった。
人を悩ませるものの真実は、案外あっけなかったりするものなのだ。
そうでなければ、人は真実を求めることは無いし、真実だと示されても
信じることはないのだろう。
周囲の冷ややかな目は甘んじて受け入れる所存ではあるが、周囲に人はそこまでいない。
いや割と近くに1人いる。
そう、私以外のようやく出てきた登場人物。私の方を羨ましそうにみている。
みている理由は察しがついているが、それでも私はやめない。
この胸の内を、記し続けることを、その先に何も残らない虚無が待ち構えていても。
最後の最後に自分が生きた、生き抜いた、そう思える人生にするために。
それだけが私の欲望であり、希望でもある。
ピーっという電子音が鳴った。
きょうの物語はここまでのようだ。
思考とは切ないもの。