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臼歯を埋める Puffy fruit  作者: 梅室しば
二章 実験場
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佐倉川邸

 車はあっという間に国道を遡り、薙野市の手前で南東に折れて岩河弥村に入った。

 閑散とした農道を進んでいくと、やがて田園風景のただ中に詰め所の建物が見えてくる。その中から、門番が一人出て来たが、匠の顔と車種を覚えているらしく、減速して片手を挙げただけでパスして佐倉川家の私有地に入った。


 佐倉川家の広大な私有地には、柵のようなはっきりとした境界はない。公共交通機関から隔絶されていて、観光客の訪れもない為か、公道と私道が切り替わる所に簡単なセキュリティがあるだけだ。だから、中に入った後でも、どこからどこまでが私有地なのかわからない。説明してもらっても、たぶんわからないだろう。目に見える所には山と農地しかない土地なのだ。

 佐倉川家の母屋は黒々とした日本家屋で、小さな山を均した頂上に山城のように聳えている。以前、史岐が来た時には麓の駐車場に車を停めて歩いて上ったが、匠のSUVは幅の狭い山道を力強く進んで、母屋の前で停止した。

 門は内側から開かれ、中央に匠と利玖の母親・佐倉川(さくらがわ)真波(まなみ)が立っていた。

 普段着らしい和服姿の袖をたすきでまとめている。仁王像を一人二役で兼ねているような立ち姿だが、童顔を際立たせる丸眼鏡と、そのレンズの向こうで娘そっくりの瞳を好奇心できらめかせているせいで、どうしても威厳より愛嬌の方が印象強く感じられる。

「メールを読んだわよ」真波は顎を引きながら頷いた。「なかなか奇妙な事になっているようね」

 潟杜を出てすぐに利玖が車中からメールを送り、真波に状況を知らせていた。

 車を降りた三人は、真波について母屋の方へ進んでいく。だが、途中で石畳を逸れて、玄関ではなく中庭の方へ進んだ。

 冬に積もった雪は九割方溶けており、踏み石も地面もあらかた露出している。だが、庭木にはまだ冬囲いがされていて、身を縮こまらせて低温に耐えているように見えた。

 母屋を右手に見ながら中庭を斜めに横切って行くと、やがて正面に、やや近代的な外観の離れが見えてきた。

 大きな掃き出し窓が開け放たれ、そこから室内にかけて、ブルーシートが広げられている。その上には、腐葉土の空き袋、その中身を移したと思われる土がたっぷりと入ったクリーム色のトレイ、水の入ったじょうろやスコップ、育苗用の黒いポットなど、種々の園芸道具が揃っていた。

 ブルーシートの右端と窓枠の間には、ちょうど人が一人通り抜けられるくらいの隙間があった。真波はそこで靴を脱いで部屋に上がる。

「さ、史岐君もどうぞ」振り返った真波が微笑みを見せた。「お行儀の悪い事で、ごめんなさいね。母屋から来ると遠回りだったから」

「いえ、そんな。……お邪魔します」

 窓枠をまたいで上がってきた史岐の姿を一瞥して、真波は神妙な顔で「ふむ」と呟いた。

「その服、汚したらもったいないわね」彼女は匠の方へ視線を移す。「あなた、一旦母屋に戻って着替えてくるでしょう? ついでに史岐君の着替えも、何か見繕ってきてくれるかしら」

「わかりました」

「うん、よろしく。じゃあ利玖は、ケースを窓の近くに……、そう、そこが良いわ。まだ正体がわからないから、あまり家の内側に近づけ過ぎないようにしてね」

 てきぱきと指示を下した真波は、最後に、

「じゃ、これは母屋の玄関に移しておくから」

と三人分の靴を持って、来た道を戻って行った。

 離れには、利玖と史岐の二人が残される。

 車に乗っている間に凝ったのか、それとも準備体操のつもりなのか、利玖は肩と腕をぐるぐる回す動きで構成されたストレッチをしてから、土が入ったトレイの脇に膝をついた。

「母も兄も、戻ってくるまで少し時間がかかると思います」利玖はスコップを手に取る。「今のうちに出来る準備をしておきましょう」

 スコップで土を掘り返して、湿り具合を確かめると、利玖はじょうろを持ち上げて慎重に水を足した。それから土全体に水分が行き渡るように、ざっくりスコップでかき混ぜる。

「連絡してから一時間ちょっとで、これだけ道具が揃うってすごいね」

「栽培なら、うちは母が一番得意なんですよ」適度に水を吸った土をポットに盛りつけながら利玖は話した。「花でも果物でも、彼らの喋っている事がわかるのではないかと思うくらい上手に手を入れて、育て上げてしまいます。趣味でもあるので、こんな風に──」利玖の視線がブルーシートの上をざっとスキャンする。「道具も年中揃っているというわけです」

 それに、と囁いて、利玖は史岐の耳元に口を寄せた。

「世の理から外れた植物、またはそれに類する物が持ち込まれた時、危険がないかどうかを鑑定して処分を請け負ってくれる業者にも、伝手があるとかないとか」

 なるほど、と史岐は頷いた。匠があんなに急ぐわけだ。

 服を汚さないように気をつけながらポットに土を盛る作業を手伝っていると、匠が戻ってきた。

「僕が昔着ていたジャージなんだけどね」彼は持ち手のついた紙袋を史岐に差し出す。「丈が合わなかったらごめん」

「大丈夫です。ありがとうございます」

「脱いだ服も、畳んでその袋に入れておいてくれて良いから」

「わかりました」

 襖で仕切られた隣の座敷に行き、着替えて戻ってくると、土が詰まったポットが雨上がりのキノコのようにそこらじゅうで増えていた。匠が作業に加わった事で生産速度が飛躍的に上昇したらしい。

「代わるよ」史岐は黙々と土を盛りつけている利玖の所へ行って肩を叩く。「利玖ちゃんも着替えておいで」

「いえ、わたしのこれは別に、汚れても」

「かといって、捨てるとなったら少しは惜しいんだろう?」珍しく匠が史岐の側についた。「いつものように着替えてきたら良いじゃないか。ほら、中学の──」

「兄さん!」利玖がいきなり肘の先を匠にぶつけた。「ちょっと……、ああ、もう、信じられない」

 彼女は匠を睨み付けながらスコップを土に突きさして立ち上がる。

 そのまま部屋の出口まで歩いて行きそうな勢いだったが、途中で振り返って、ぺこんと頭を下げた。

「申し訳ありません。少しの間、席を外します。必要な物がありましたら何なりと、兄にお申し付けください」

 どうやら、史岐に向けて言ったらしい。

 心なしか、何なりと、の部分が強調されているように聞こえた。

 利玖は静かに襖を引いて出て行く。

 彼女の気配と足音が完全に消えるのを待ってから、史岐はこわごわと、

「わざとですか?」

と訊ねた。

「うん」匠はあっさり頷く。「ああしないと、今、この種の事で頭がいっぱいだから、本当に中学のジャージか何か、着てきたと思うよ」匠は横目で史岐を見る。「悪いね」

 それは、きちんとした服を着てくるように焚きつける材料として自分を使った事と、その事で彼女の中学時代のユニフォームを目にする機会がなくなった事のどちらに対する詫びだろう、という疑問が胸をよぎったが、いずれにしても、彼に対して異議申し立てをする選択肢など持ち合わせていない史岐は、にこやかに首を傾げて黙っていた。

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