綢繆の手
暖かいものに包まれ、段々と視界が明るくなってゆく。窓から見える空は太陽に照らされ始め、ほんのりと橙色が青色を染めていた。辺りを見渡せば見慣れぬ部屋。 否、見たことがない訳では無い。私は夏休みで、家族で母方の祖父母の家に帰省していた。仕事が忙しく旅行に行けないので、せめてものお詫びにという両親の気遣いからだった。祖父の病が悪化してしまった為でもある。此処は祖母の家の一室であり、母が幼少の頃に使用していた部屋だった。その為、未だに勉強机や雑誌が放置されている。小さく欠伸を零し伸びをして意識を覚醒させていき、時刻を確認する。現在の時刻は七時。顔を洗おうと部屋の襖に手をかけた。
バシャバシャと顔を洗い洗面所から出ると何かいい香りが漂ってくる。その香りに釣られるまま台所に向かうと、そこには母と祖母が居た。
「おはよう、千鶴」
母と祖母は朝餉を作っていたようだ。深鍋には豆腐やわかめの他に祖父の畑で採れた様々な野菜が入っている味噌汁が作られている。良い香りの正体はこの味噌汁であった。
「おはよ、何か手伝おうか?」
「ありがとう、千鶴ちゃんはご飯をよそってもらえる?きっともう炊けてるわ」
柔らかく微笑みながら言う祖母にわかった、と返事をして竈の前に立った。祖母の家には炊飯器が無い。流石に時間がかかるのでライターで点火しているとは聞いたが、釜で米を炊くのには時間がかかる。祖母は何時から起きていたのだろうか。木蓋を開けると、ふわりと柔らかな湯気と共にほのかに甘い香りに包まれる。杓文字を入れれば米ひと粒ひと粒がきらきらと輝いた。勿論家の炊飯器も美味しく炊けるが、釜のご飯はまたその何倍も美味しい。祖父母の家に帰省した際の楽しみの一つでもある程だ。
茶碗に米をよそり、ダイニングテーブルに運ぶ。他の料理も完成しそれも同様に運んだ。
父や祖父を呼び、皆で席に着く。
「いただきます」
家族全員で食卓を囲むのは久しぶりかもしれない。父は仕事でいない日も多く、母と私だけの日がほとんどであったからだ。談笑しながら食事をするのもなんだか懐かしい。
今日の朝餉は味噌汁とアジの塩焼き、ほうれん草のお浸しと和食でまとまっている。どれも素材の味を活かしていて美味しい。白米も言わずもがな絶品であった。
「ご馳走様でした」
食器を台所に片して、自室へと向かう。私達の食事は済ませたが、まだ彼女は食事をとっていない。そろそろ起きた頃だろうか。
襖を開けるとミャアとひと鳴きし、足にすり寄ってくる。ご飯のお強請りだろう。愛猫であるムギは学校に行っている時間以外は何時も一緒であった。ふわりと風に靡く長毛は中々自分から触らせてはくれないが、なんだかんだ傍に居たため、それなりに信頼されていたつもりだ。フードをお皿に盛り、仕上げに鰹節を振りかけて与えると、ガツガツと食べ始めた。暫く眺めていたが、食べ終わるとまたすぐにベッドでゴロゴロとし始めたため、課題でもしようかとノートを手に取った。
「千鶴、もうご飯だよ」
気付けばもうお昼時だった。時間も見ずに集中していたようだ。急いで席に着き、昼餉を済ませる。今日は素麺だった。昆布のだしに山葵を入れて頂いた。食事を終えた後、祖母が冷やしておいたという西瓜を切り分けて皆で食べる。甘くてみずみずしい。西瓜をじっくり味わっていると、祖父が話しかけてきた。
「千鶴、畑に収穫に行くから来なさい。」
体調は大丈夫なのだろうか、と母と祖母を見ると、やれやれと呆れた様子で頷いた。祖父は頑固で、心配されることを嫌うから、私からは何も言わない方が良さそうだ。
「いいよ、何の野菜?」
「見てからのお楽しみだよ。」
えー、なんて言葉を零しながら下駄箱から長靴を引っ張り出してくる。しばらく履いていなかったからか少し窮屈だ。それから2人で納屋に向かって麦わら帽子を被ると畑へと向かった。
「わ、おじいちゃん、これ?」
「そうだよ、トマト。収穫のやり方は分かるね?」
「分かってるから大丈夫!」
祖父は農家だが、畑で育てている野菜達は全て家庭用である。本業はお米だが、家庭用の野菜達もそれに劣らず立派で販売もできそうだ。茎も葉もしっかりとしていて、実も大きい。真っ赤に熟れたトマトに手を添えて茎を切る。どれも美味しそうだ。
祖父が作った手作りの編みかごに収穫したトマトを入れていく。中には綺麗な形をしたものだけでなく、形が横長なものや窪んだものまで様々でいつしかそれはかごいっぱいになった。
「おじいちゃんこれどうするの?」
「取り敢えず納屋に運んで、今日食べる分だけ持っていこうか。」
編みかごを手に持ち、畑から納屋に戻ることになった。残りの野菜達にも水を与え、気付けば長靴は泥だらけになってしまった。だが、私より近くで作業していた祖父はもっと泥だらけで、祖父には不思議な顔で眺められたが思わず笑ってしまった。
納屋に戻り、トマトを抱えて家に戻る。トマトを見た祖母や母からは立派だと褒められた。祖父も手伝ってくれたお礼に、とアイスクリームをくれ、せっかくだったので縁側で祖父と一緒に食べることにした。
夏休み前はあまり過ごすことが出来なかった家族での時間が楽しくて仕方が無い。そのことを祖父に伝えれば、祖父はただ微笑み、私の頭をガシガシと撫でた。
自室に戻り、いつしか設置されていた扇風機を占領するムギに苦笑する。隣に寝そべり、真似をするように大の字になって畳に寝転がる。
涼しい風と暖かな日差しが心地よく、畑仕事で疲れきった体は段々と落ちていく瞼に抗えずに眠ってしまった。
深い深い眠りから浮上していく感覚。うとうとと船を漕ぎ、眠ってしまいそうになるが、瞼を擦り、なんとか意識を覚醒させる。もう外は暗く、田には蛍が小さく光を灯している。時間を確認すると、夜の十八時であった。
「...あれ、ムギが居ない。」
下に居るのだろうか、といそいそとベッドから抜け出し、自室の戸を開け、家の中を探してみる事にした。ムギとは別々に眠ったことが無いため、珍しいなとぼんやり考えながら探してゆく。だが、茶の間から和室まで、更にはお風呂の中さえ捜したがどこにも居ない。両親の部屋へもそろりと忍び込んで捜したが、何処にもいなかった。
「どこに行っちゃったんだろう…。」
家に居ないとなると外に脱走してしまったのかもしれない。もう会えないかもという不安に駆られ、外も探索してみようと父の戸棚を漁り、懐中電灯を手に取って外へと飛び出した。
「あっ、ムギ!」
ムギは予想よりも早く見つかった。祖父母の家は石垣の上に建つ家であり、ムギは家の門を出た直ぐ前の道路に座り込んでいた。道路と言えるかも怪しい細い道の周りには一面中緑の稲が生い茂り、虫達が今夜も大合唱を行っている。直ぐに近付き捕まえようとしたが、ムギはミャアとひと鳴きすると駆け出してしまった。
「待って!」
私も釣られて駆け出したが、追い付く事が出来ない。体に鞭打って必死に追いかける。すると、ムギは目の前の森に迷い込み、闇夜に溶け込んでしまった。
背中に嫌な汗が流れた。禍々しい木々は私の背丈より何倍も大きく、不気味にザアザアと葉音を鳴らす。余りの異様な空気に足を止め、追うのを躊躇う。こんなに此処の森は不気味であっただろうか、それともただ夜だからなのか。もう引き返す事は出来ないと思い、懐中電灯を使用し辺りを照らしながら呼吸を整えるようにゆっくりと歩みを進めた。
暫く道に沿って歩いてゆけば、大きな石垣の階段が現れた。辺りになにか動物がいる気配は無い。仕方なく、一段ずつ長い階段を上り始めた。
ムギの名前を呼びながら歩みを進めていくうち、何か大きな門が見えてくる。照らしてみれば、古びて所々に苔が貼り付いており、よく見れば門の手前側には鳥居が建っていた。赤であった塗装は剥がれ落ち、所々に錆が見られる。つまり、此処は神社で巨大な門は神門である事が分かった。
そのままゆっくりと歩みを進め、参道であろう道を歩く。手水舎も摂社も木はボロボロで腐りかけていた。触れれば折れてしまいそうだ。辺りを探索し終え、また再び拝殿へと視線を戻せばそこにはムギが居た。
「ムギ!」
今度はゆっくりと近づき、驚かせないように姿勢を低くする。そっと前足に両手を通してやっとの思いで抱き抱えることが出来た。
「捕まえた...!」
ほっ、と安心して胸を撫で下ろした矢先、自身の背後から何かが唸る様な、這い寄って来る様な水音が聞こえた。勢い良く振り返り、何もいない事を確認すると、激しく脈打つ心臓を落ち着かせる。一体、此処はなんだというのだろうか。また何か、嫌な空気が強く漂っているのを感じる。淀むような、何か引き寄せられるような何かが。何か押し付けられているかのように体が重い。怖いという恐怖で思考が蝕まれ、頭が上手く回らない。ああ、此処は危険だ、早く、早く帰らなければ
そう思い、足を踏み出そうとした私は何か冷りとしたものに足首を捕まれ、思わずひゅ、と息を呑んだ。肩に添えられた手であろうものは黒に染まり切り、泥の様な液体を纏っている。体が傾き引き摺られる感覚。重く強いそれはまるで全身を飲み込んでいくように体が黒に覆われてゆく。
声も出せず、抵抗も出来ない状態で私はされるがまま、
ガタン
脳裏に酷く焼き付いていたのは、妖しげに笑う狛犬と、不安げに鳴きながら私に駆け寄る愛猫だけであった。
書き直す予定のある小説です。真面目に書くのは久しぶり。暖かい目で見て下さると幸いです。