冷たいあなたを愛しています
【受電】
もしもし? はい。そうですけど……。こちらこそいつも主人がお世話になっております。
あら、そうですか。家の中にはおりませんけど。出社してないの? 困ったわね。そう言われても、私も主人がどこに行ったのか知らないのよ。
思い当たることねぇ……。なくはないけれど。でも、これをあなたにお話ししてもいいものか迷っているの。
……そこまで言うなら、わかりました。お話しするわ。あ、時間は大丈夫? そうなの。じゃあ、その時間までには終わらせるわね。
最近あの人、冷たくなったのよ。昔はあんなに優しかったのに。いつからかしら。多分、娘が成人して家を出ていってからね。え? いるわよ。知らなかった? あなたおいくつ? じゃあ私の娘と同い年ね。入社二年目なの? あらそう。若いわね。人生まだまだこれからねぇ。
なんの話だったかしら。あ、そうそう、主人ね。とにかく娘が出ていってから、私たち夫婦は冷え切った関係になってしまったの。それが顕著になってきたのは、そうねぇ……一年くらい前だったような気がするわ。
主人に「急な残業」が増えたの。
勤続三十年。そんなに急に残業が決まったり、出張が決まったりするものかしら。若い頃なら分かるわ。……ううん。若い頃だって、残業して帰ってきても日付を跨ぐなんてことはなかった。私はお勤めしたことがないからわからないけれど、そんなにお忙しいものなの?
あらそう。あなたも? 大変ね。最近不景気だものねぇ。ちゃんとお家に帰って寝なさいよ? 若いからって無理してると、のちのち後悔することになるんだから。十年後の肌に現れるわよ。
……余計なお世話よね。ごめんなさい。
なんだか話があちこちにいってしまって、うまく話がまとまらないわ。電話がかかってくることなんて、滅多にないから、興奮してしまっているみたい。主人の話に戻すわね。
去年あたりから、「今日は残業だから夕飯いらない」というメールがよく来るようになったの。最初は主人の帰りを待っていたのだけれど、二時、三時になっても帰ってこないのよ。私はリビングで眠ってしまっていたわ。コーヒーの香りに目を覚ますと、主人が、インスタントコーヒーの粉をマグカップに入れているところだったの。朝六時。「遅かったね。いつ帰ってきたの?」と聞くと、主人は目を合わさずに「さっき」と答えたわ。そして「これからも残業の時はこのくらい遅くなるだろうから、寝ていていいぞ」とも。
それが何度か続いたのよ。だから私、「残業」の時は主人のことは気にせずに寝てしまうことにしたの。
最近になって、「急な出張」が入ることが増えたんだけど、あなた何かご存知ない? 朝、大荷物を抱えているから、不思議に思って聞いたら、「今日から三日間出張なんだ」って言うの。金曜日よ? 金曜日から三日間お仕事なんて今までなかったのに。あら、あなたも? そうなの。会社員って大変なのね。
そういえば、ある日ね、私見ちゃったのよ。主人のスマホに、ハートマークがたくさん付いたメッセージが届くところを。トイレか何かで、たまたま主人が席を外している時に、スマホが光ったの。主人がすぐに帰ってきて、私の目の前で慌てて取り上げたから、見えたのは一瞬だけだったけど、それから主人はどこに行くのでもスマホを持ち歩くようになったの。
そして昨日よ。昨日も「残業だ」って言ってくるから、少しちくっとしたメールを送ってしまったのよね。「今日は結婚記念日です」って。そうしたら、九時ごろに帰ってきた。ええ、いつもの「残業」よりは早いわよ。でもね、違う女の匂いをさせてたの。
香水じゃないわ。主人は花を持っていたの。……え? ああ、そうね。一見するとおかしくはないわよね。でもね、うちの主人はそんなことをするような人間じゃないのよ。「記念日に花を贈る」なんて考えたこともないの。今までもらったことがないもの。だから私、思ったわ。他の女の入れ知恵だなって。あの、ハートマークの女だなって。
あら、どうしたの? 声が震えていらっしゃるようだけど、大丈夫? 風邪? 今日は冷えるものね。お大事になさってね。
昨日の夜、せっかく主人が早く帰ってきてくれたのに、私ったら花を見てついカッとなってしまったのよ。「何してきたの?」って聞いてしまったの。えぇ、すごく反省しているわ。今になってとても後悔してる。でももう遅いのよ!
主人は私に言ったの。「ごめん」って。それだけでわかった。だって何十年も一緒に暮らしてきたんですもの。何がわかった、ってそりゃあなた、不倫に決まってるでしょう?
申し訳なさそうに俯く顔が腹立たしくて、「被害者づらしないでよ」って主人の胸を押した。でも主人ったら踏ん張りもせず、そのままよろけるのよ。まるで、私の怒りを受け止めることが償いになると考えているかのように。
すごく悔しかった。私より、その女の方が大事なんだってわかって。だからね、私の方から別れを告げてあげたの。そしたら主人はどんどん冷たくなってしまって、ついには口もきいてくれなくなったわ。なんてことをしてしまったんだろうって後悔した。すごくつらかった。私はまだ、あの人のことをこんなにも愛しているのに。
ごめんなさい。会ったこともないあなた相手に、こんな話をしてしまって。言葉も出ないわよね。
さっき内緒にしてたことがあるの。主人は今朝、旅に出てしまったの。……遠くよ。これ以上は教えられないわ。だって私も行ったことのない場所なんだもの。もう戻ってこないでしょうね。あんな別れ方をしたのだから。
でも別れてよかったわ。だって主人は本当に不倫をしていたんだもの。なぜわかったかって? 昨日主人が眠っている間、指を借りてスマホのロックを解除したのよ。便利ね、指紋認証って。
ハートマークの女との親密なやりとり、「出張先」でのツーショット写真の数々、ホテルらしき部屋から映した夜景。それはそれは、見ものだったわ。よりにもよって、娘と同い年の子とそんなことになってるとは思わないじゃない? ねぇ、あなた?
これが私が知っている全てよ。主人は遠くへ行ってしまったの。会社にも行けないの。えぇ、今日だけじゃないわ。明日からもずっとよ。本当は私の方からお電話しなきゃならなかったのに、ご丁寧にお電話いただいてしまって申し訳なかったわ。
こんなことになってしまって、会社には本当にご迷惑とご面倒をおかけしているわね。本当に申し訳ないと思ってる。主人の代わりに謝るわ。謝って済むようなことではないでしょうけれど。
あ、そろそろ時間よね。どちら方面の会社に向かわれるの? じゃあ結構外を歩くのね。あなたも注意なさったほうがいいわよ。この雪だから、手が冷え切ってしまうかも。うちの主人みたいに。
まぁ。さっきよりも声が震えているわよ。大丈夫? 今日は外回りしないで休んだらどう? そう。ならいいけど、気をつけなさいね。それじゃあ。
【終話】
受話器を置くと、女は庭に視線をやる。不自然に盛り上がった雪山がある。
女は、つっかけを履くと、縁側から外に出た。雪山に駆け寄り、中から飛び出した手を握った。
「あなた。別れを告げてしまった私を許してね。でも、あなたが悪いのよ。私をないがしろにするから。よりにもよって娘と同い年の子なんて、信じられないわ。さっき初めて声を聞いたけど、頭が悪そうな子ね。あんな子が好きだったの? でも、もういいわ。あなたは私のもとに戻ってきてくれたもの。許してあげる」
握った手を自分の頬に押し当て、女は恍惚とした表情を浮かべる。
「愛してるわ、あなた。これでずうっと私のものよ……昨日よりも冷たいわ。こんなに冷え切ってかわいそう。私が温めてあげるわね」
女は手を雪山に戻すと、部屋の中に戻った。
やかんに水を注ぎ、火にかける。
「今からとっておきのハーブティーを入れようと思うの。あなたも一緒に飲まない?」
女は満面の笑みをたたえ、鼻歌をうたいながら戸棚を開けた。