マリア、救いの手を
残酷な描写あり。
ふと時計を見ると、六時半を過ぎたところだった。
軽く空腹感を感じた僕は、部屋を出てリビングに向かった。
そこにはテレビをぼんやりと見る母さんの姿があった。
「母さん、夕飯は?」
「……まだよ」
母さんは僕の顔を見る事なく、不機嫌そうに言い放った。
「僕、何か買ってくるよ。食べたい物ある?」
「いいわよ、私が今から作るから」
「でも、」
「うるさいわね!作るって言ってんのに文句あるの!?食べてばっかりのあんたに言われる筋合いないでしょっ!」
母さんがヒステリックな声をあげる。
「ごめんなさい……」
「あんたは私をイラつかせる事しかできないの?」
「……ごめんなさい」
僕は謝る。
母さんにひたすら謝る事しかできないから。
「あの子なら……美生ならこんな事なかったのに………」
「…………。」
「どうして美生が死ななきゃならなかったの……、何であんたはのうのうと生きてんのよ……っ」
ああ、まただ。
その名前を出されたら、ますます僕は母さんに逆らう事は出来ない。
「……母さ、」
「うるさいっ!」
パシンッ!
「いっ……」
「死ねばよかったのよ。美生じゃなくてあんたが」
母さんが忌ま忌ましげに言い放つ。
怖い。
母さんの目が、
僕の罪が。
「ごめんなさ…」
「謝ってすむと思ってんの!?死にぞこないのくせにぃ!」
怖い、怖い怖い怖い。
僕への糾弾が。
嫌だ、僕を嫌わないで。
「やりなさい」
僕の足元に荷造り用のビニール紐を投げ落とされた。
「……これ………」
「聞こえないの!?早くやりなさいって言っってんでしょうがあっ!」
僕は慌てて紐を拾い上げ、首に巻きつけた。
「…ぐっ……」
「もっと強く!」
「い……ぐぁぁ……っ」
苦しい苦しい苦しい。
くるしい。
「……ふん、もういいわ」
「っげほっ、げほっ……はぁ……ぅ、」
「覚えておきなさい………あんたは生きてちゃいけない、生きる事を許されてない。浅ましい、醜い、忌ま忌ましい、汚らわしい………。ほら、どれだけ自分が疎ましい存在なのか言いなさい」
「……僕は無意味に生を貪る浅ましい存在です。僕は惰性で生きるだけの醜い存在です。僕は望んでもないのに産まれてきた忌ま忌ましい存在です。僕は生れつき汚れた魂を持った存在です。僕は誰にも必要とされていません。僕は生きていてはいけません。僕は邪悪です。僕は汚れです。僕は不浄です。僕は………」
僕には三つ年上の姉がいた。
いつも明るく元気でしっかり者、まさにお姉さんといった感じの人だった。
そんな姉の事を母さんは大層可愛がった。
いい子だった姉は、母さんの自慢の娘だった。
そんな姉を持つ弟の僕は、普通だった。
特に優れた何かがあるわけでもない、至って普通の子ども。
ただ姉があまりにもいい子だったから、周りからしたら劣って見えたのだろう。
母さんの目にもそう映っていたに違いない。
だか母さんの自慢の娘である姉は、ある病気を患ってしまった。
難しい病名でよく覚えていないが、医者からはもう助からないと言われた。
母さんは嘆き悲しんだ。
僕のことをほったらかしにして、母さんは付きっきりで姉を看病していた。
ますます僕の存在は希薄になっていった。
そして二年前、姉は死んだ。
僕の誕生日だった。
「あんたは呪われてるのよ。だっておかしいじゃない、美生はあんたの誕生日に死んだのよ。おかしいじゃない……あんたが美生を殺したのよ、美生の命を奪ったのはあんたよ。あんたは毎年毎年誕生日を迎えてるのは美生の命を使ったからよ!返しなさいよ、私の美生を!この悪魔!死神!お前なんか要らないんだよっ!!」
「ごめんなさい、生まれてきてごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい………」
僕と母さんの儀式。
姉が死んでからずっと続けている、母さんの呪詛と僕の懺悔。
母さんは度々僕に自殺の真似事をさせた。
死ぬ時は自分の手でやれと言われている。
その汚らわしい命を自ら絶つことが母さんへの罪滅ぼしになる………そういう事らしい。
仕方がないんだ。
そう、僕は呪われている。
僕は姉の命を代償に生きながらえている悪魔だ。
だから母さんに呪いのように言葉を浴びせられ、手を挙げられたり自分の首を絞めろと命令されても、僕はそれらを甘んじて受けてきた。
それが僕への罰だから。
僕は、罪深い存在なのだから。
「それって、おかしくない?」
「……おかしくないよ、すべて僕のせいなんだ。母さんの言ってる事は正しい」
「おかしいわよ、だってあなたは何にも悪いことしてないじゃない。お姉さんの命を奪った死神だなんて、そんなの身勝手な言い掛かりよ」
彼女は頑として言い張る。
「君にはわからないよ、僕のことなんか。僕の犯した罪の重さを……」
知るはずがないんだ。
彼女はただの他人。
それもたった今会ったばかりで、僕と彼女の間には何の面識もなかったのだから。
僕はどうかしてたんだ。
何も知らない他人に自分のことを話すなんて。
「あなたのお母さんを思う気持ちはわかるわ。だからってお母さんからの理不尽な仕打ちをすべて受けるなんて間違ってる。あなたはそれが償いだというけど、それが何になると言うの。それでお姉さんは帰ってくるの?あなたは救われると言うの?違うわ。これはお母さんのただの自己満足に過ぎない」
「ち、違う……そんな」
聞きたくない。
僕は耳を塞ぎ、ぎゅっと目を閉じた。
「聞いて。あなたはお母さんの仕打ちを受ける必要はないの。お母さんはあなたを虐めてるだけ、虐待してるだけなの。虐待はいけない事よ、あなたは何も悪くない」
「あ……ぁ…僕、は……」
駄目だ。
母さんが今の僕の全てなんだ。
僕が僕じゃなくなる。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
僕は罪深くていてはいけない存在で死ななければならなくて生きてちゃいけない悪魔で死神で僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は、
「目を覚まして。あなたは助かる、もうつらい思いをしなくてすむの。悪は、あなたのお母さんよ。滅ぶべきは悪。悪は殲滅しなければならない。大丈夫、わたしに任せて。わたしは、正義よ」
彼女はそっと僕を抱きしめた。
僕の身体を温かく包み込むように。
まるで、母親のように。
彼女は、聖母なのだ。
「…ぅ……う、あ――――わあぁぁぁーーーー!」
僕は彼女の胸のなかで泣いた。
ずっと乾いていた僕の瞳から涙が溢れる。
こんな風に泣いたのは何年ぶりだろう。
僕はいつの間にか、泣く事を忘れていた。
でも彼女の前では、そんな僕の固く閉ざされた心は脆く崩れ落ちた。
「よしよし、怖くないよ……つらかったね、苦しかったね、頑張ったんだね。君、名前は?」
「ううっ…ひっく………コウ……」
「そう……コウっていうのね。コウ、あなたを救ってあげる。わたしを信じて、ね?」
「うん、信じるよ。だから、助けて………っ!」
僕は幼い子どものように泣きじゃぐった。
初めて助けを求めた。
なんて心地好いんだろう。
ひどく安心できる。
「コウ………」
あぁ、僕のマリア。
「ぎぃえぇぇぇああぁあああぁぁぁあああ!!」
断末魔がこだまする。
母さんの悲鳴だ。
「離せぇーーーっ!熱い熱い熱いあついあついぃぃぃぃっっ!」
「黙れ悪女!」
ジュッ…!
「あぐぃいぎゃあーーー!!」
地の底から響くような悲鳴を物ともせず、彼女は母さんの腕にアイロンを押し付けた。
皮膚が焼ける異臭が漂う。
「やめろやめろ離せっ、この餓鬼ぃぃ!こんな事してただですむと思ってんのかっ!」
拘束された手足をばたつかせ叫ぶ母さんを見て、僕は昔テレビで見た悪魔払いを思い出した。
「うるさい。お前は悪だ、悪は滅っせなければならない。お前は罰を受けるのだ、その身で地獄の苦しみを味わうがいい」
ジュウっ…!
「うぎぃぃいぃぃぃぃぃ!!」
僕は余りの凄惨な光景に耳を塞いだ。
目もつぶった。
「駄目よ、コウ。ちゃんと見なさい」
彼女は母さんにアイロンを押し付けながら、僕にその恐ろしい行いを見るように言った。
「い……いやだ、怖い………」
「しっかりしなさい、これはもうあなたの母親なんかじゃないわ。悪魔の化身よ。あなたは悪が滅びる瞬間を見る、歴史の目撃者になるのよ!」
「悪魔……母さんは悪魔だったの………?」
「そうよ。だからあなたをおとしめ、酷い仕打ちをしたのよ」
彼女はそう憮然と言い放った。
「そんな……」
「でも安心して、これであなたは救われる。悪魔の支配から逃れられるわ。さあ、コウ………おいで」
僕はふらふらと彼女のもとへ歩く。
「これで止めをさすのよ」
彼女は僕に銀色のフォークを差し出した。
「これを、どうするの……?」
「心臓を、突くの」
「これで……?」
「そう、これはコウがやらなきゃいけないの。あなたの手でやるのよ」
恐る恐るそれを受け取る。
「や、やめて……お願い、謝る、謝るから。ごめんなさい許して………」
散々アイロンを押し付けられた母さんは、今まで見たことがないほど弱々しく懇願してきた。
「さぁ……コウ。……やるの、あなたの手で」
フォークを握る僕の手を柔らかく包む彼女の手。
「さぁ………」
あぁ、わかったよ。
僕のマリア。
「――――――っ!」
「よく出来たわ、コウ………」
「マリア…………やったんだね、僕は助かったんだよね?」
「ええそうよ、あなたは救われた」
そっと寄り添い、壁を背に座る僕と彼女。
僕は満たされていた。
成し遂げたのだ、やるべき事を。
「ねぇコウ……」
「なに………?」
「あなた、わたしと一緒に来ない……?」
「来ないって、どこに?」
「ふふっ、とても素晴らしいところよ」
そう言って笑う彼女の顔は何と神々しいことか。
僕に躊躇う理由はなかった。
「うん、行くよ。君と一緒に」
「ええ、行きましょう」
どちらともなく僕らは唇を重ねた。
彼女となら何処へでも行ける。
僕のマリアなのだから。
彼女の舌を受け入れたその最中、僕は背中に回された手が握りしめる冷たいフォークの感触を確かに感じていた。
酷い内容です……。




