三話
「いやー、こんなところにいたんか!切羽詰まっとるっちゅうに、なかなか冷静に物をみよる」
千景の目の前には、背の低い、けれども筋肉ごりごりの豪快そうな老人が立っていた。
頑固そうな意思を表すかのように生えた髭と同じ銀色の髪はきっちり後ろへ流されて、一纏めにされている。
猟師を彷彿とさせる衣服は何度も直しては着ているのか継ぎ接ぎだらけで、腰にはスキットルがひとつぶら下がっている。満足そうに頷きながら手を伸ばし、慣れた手つきでスキットルを傾ける様は、とても常識的な人間には見えなかった。
要するに、すごく怪しいおっさんが、千景に馴れ馴れしく話し掛けて着たのである。それも女子トイレの個室の中で。
「だ、誰ですかあんた!」
少し口が悪くなったのくらい許して欲しい。それだけ規格外のおっさんが目の前にいたのだ。
昼間の女子トイレに容赦なく押し入る、筋金入りの変質者のような男が。
「おお、わしゃ香取宗太郎ちゅう者じゃ。お前さんが外階段からここに逃げてくるのを見つけて、追いかけてみた。面白そうじゃったからの」
最後の一言は兎も角、千景としては見つかってしまった恐怖に脚が竦んだ。
このまま捕まるのは嫌だ。だが、目の前の老人はヘラヘラしている様でその実隙がない。小・中学生の頃に手習いでかじった剣道の先生に似たものを感じて、千景はじりじりと香取宗太郎と名乗る老人から距離を取った。
「ほお、気が読めるか!武道でも習っていたかね、今時珍しい」
「女子トイレに男が入ってきたら、誰でも警戒するに決まってんでしょう。それに私は別に、逃げてきてなんていませんよ」
「じゃ悲鳴でも上げて助けを呼ぶかね」
「……」
答えられなかった時点でこの読み合い、千景の負けは決まったようなものだった。
叫ばれて困るのは追っ手の迫っている千景も同じ。駅構内の端にあるとはいえ、大事になっては会場にいた高校生たちも見に来るだろう。
そして宗太郎と鉢合わせた瞬間に叫ぶなり、逃げるなりしなかったことで千景の後ろ暗さは折り紙つきだ。
そもそも警察には既に連絡が入っていると見ていい。目の前の老人を捕まえてもらったところで、千景も一緒に捕まってしまえば誤解を解く暇もなく逮捕されてしまうかもしれない。
「まあ細けぇことはええ。お前さんに聞きたいことがあっての」
手持ち無沙汰に己の腰元を掻いた宗太郎は軽い調子で千景に話しかけた。
ずい、と顔を千景に寄せ、これまでにないギラついた表情を見せる。一気に猛獣に睨まれた小動物の気分を味わった千景は、けれどなんとか踏ん張って、宗太郎の目を見返した。
トイレの個室で片や便器の蓋の上に座り、片やそれを追い詰めるように車椅子用の手すりに手をついてとっくりとお互いを眺める様は、はたから見たら酷くシュールだったろうが千景からしてみれば一秒が一時間にも感じられるような、緊張と恐怖の瞬間に他ならなかった。
「お前、盗んだか?」
「盗むわけないっ……です」
即答したが、恐ろしく凄みのある睨みのせいで語尾が僅かに震えた気がしないでもない。
そのまま暫く、宗太郎の睨みは続いた。
千景の目の奥を見通すような、隠し事を一つ残らず暴くような、恐ろしく鋭い目つきでじっと千景を見ている。
やがて耐えきれずにあと少しで千景が目を逸らそうとした時、見計らったかのように宗太郎が伸ばしていた腕を戻し、体を起こした。
「よかろう」
満足そうに頷いている。
身を起こし、自然な動作で懐に手を入れた宗太郎は、徐に杯を取り出した。
「此処はひとつ、わしがお前さんを育てちゃろう」
「ど、どういうこと!?……ですか?」
この老人を前にすると、どうも敬語よりも先に言いたいことが飛び出してきてしまう。
後付けで無理やり敬語にしているが、宗太郎は煩わしそうに手を振った。
「いらんいらん。ンなへったくそな敬語なんかいらん。言葉なんぞ、精々煽動がための道具よ」
そう言いつつ、腰元にぶら下がっていたスキットルから透明な液体を杯へ少しだけ注ぐ。
本来日本酒を入れるには適さなかった筈だと興味本位で宗太郎の手元を覗くと、気になるかと言いたげに微笑む。強面の筋肉ダルマが微笑んだところで凶悪な顔にしかならないが、どうも千景は宗太郎の笑みには嫌なものを感じなかった。
「ヘッタクソって……。今後は敬語なんか使わない」
「おお、おお!元気があるんはええことじゃ」
反抗期真っ盛りか!と大層ご機嫌で笑う様は、好々爺に見えなくもない。
そうこうしている内に、漆塗りの美しい杯が、千景の目の前に差し出された。もちろん、中身はしっかり入っている。
ふわと香る甘露の匂いが、水ではない事を告げていた。
「飲め」
「これお酒でしょう、嫌だよ。捕まる」
「呑もうが呑むまいが、捕まるんは一緒じゃろう」
「そ、そこで豪快に笑うな!」
必死に抵抗する千景の首っ玉をがっちり抑え込んで呵呵と笑う宗太郎は、少し声を落として千景の耳に口を寄せた。
「とはいえ、《加護》を与えるには呑んでもらわにゃ始まらん。少し大人しゅうして、杯を取れ」
「《加護》?」
「わからんでいい」
ぐりぐり、千景の頭を猫にするように撫ぜる。
言葉に引っ掛かりを覚えた千景だが、宗太郎は取り合わなかった。
「吞め」
「わかったよ」
諦めて杯を受け取る。水面が揺られて光り、千景の顔を下から照らした。
注がれた酒は今まで千景が見たどんなものよりも、美味そうに見えた。一度も酒を飲んだことがない千景ですら、良い匂いだと思う。
金属の容器なんぞに入っていたとは思えない程匂い立つそれに口をつける寸前、千景は違和感を持った。
(これは、本当に酒…?)
正確にいえば、匂い過ぎたのだ。千景が「良い」と思う香りが。
未成年で、特別酒を呑んでみたいと思ったことなどなかった。それにスキットルから注いでいるのだから、無視出来ないくらいには鉄臭さがする筈だ。
それなのに、こんなに美味いものはないと身体は全身で宗太郎の寄こした甘露に反応した。
違和感を頭では感じつつも、千景の手は止まらない。
ゆっくりと杯を傾け、喉に液体を流し込む。熱を持ってむせかえる芳香が舌を滑り、喉を通って胸へ落ちていく。
腹が温まる感覚がして、ふう、と溜息をついた千景は上唇をぺろりと舐めた。
明らかに普通の状況ではないが、宗太郎は満足そうに千景から杯を奪い取る。
「よし。お前さんをわしの弟子にしちゃる。まあ、ここからうまく逃げおおせればの話じゃが」
そら、退け。と宗太郎は鷹揚な手振りで便器の蓋の上から千景を退けた。そうして蓋の上に乗り、その後ろにあった台に上がる。
何をするつもりかと見ていれば、正方形のパネルが並んだ天井の一部を押し、そこそこ大きな音を立てながらパネルを一枚天井から剥がした。
一緒になって上を向いていた千景は、ちらちらと舞いながら落ちてきた埃に辟易して思わず横を向いた。
上は暗いが、人一人通れるくらいの広さの空間が続いている。
宗太郎が壊した天井は、所謂ダクトの近くだったらしい。隣には子供一人が優に寝そべれそうな幅の送風菅が、暗闇の、そのまた向こうまで静かに横たわっていた。
「こっから、この送風菅を辿って行けば駅のホームに着く。誰にも見られないように電車に乗り込め。あと二十分で出る三番線の電車に、わしも乗る。健闘を祈るぞ」
健闘を祈ってくれるんだったらもう少し汚れないルートはないのか、という心の叫びはけして宗太郎に届かないし、この状況では我侭だろう。
斯くして宗太郎と千景は出会い、千景にとって難の多い英雄譚が幕を開けたのだった。
師匠の口調は喋りたいように喋ってもらっているので謎。