絵は音となって煌めいて
19世紀ロシアの作曲家・モデスト・ムソルグスキー作曲の組曲「展覧会の絵」。
僕がこの曲を知ったのは、中学1年生の時、音楽の授業でのDVD鑑賞がきっかけだった。
ムソルグスキーは友人の画家であるヴィクトル・ハルトマンの死を悼み、生前の彼の絵を集めて展覧会を開いたという。そこで展示されていた数々の絵を眺めて歩く様を、音楽というカンバスに描いたのがこの曲だ。
本来はピアノ用の組曲だが、ピアノ曲としては大きな成功を得ることはなく、20世紀になって「オーケストレーションの魔術師」と呼ばれたフランスのモーリス・ラヴェルが色鮮やかなオーケストラ版に書き換えたことで、世界的な人気を得たという。(僕がその時聴いたのもオーケストラによる演奏だった。)
だが、こういった情報はその時点の僕には到底理解できたものではない。教科書に載っていたハルトマンの実際の絵はクロード・モネやレオナルド・ダ・ヴィンチのようなよく知られた画家の絵と比べて味気なく感じたし、踊っている薄気味悪いヒヨコの絵のどこがこの曲に現れているのかなんて、全く共感ができるものではなかった。
とにかく、興味なんて持てなかったのだ。
ある一点を除いては。
ソ、ファ、シ、ドファレ
ドファレ、シ、ド、ソ、ファ
この曲の冒頭、金ぴかに輝くトランペットから発せられるメロディーである。艶やかな単音の調べは1人のトランペット奏者から淡々と発せられたと思いきや、すぐさま他の金管楽器と合わさってもう一度同じメロディーを繰り返し、先ほどとは違って色鮮やかな合奏に変わる。
そして、もう一度、
ファ、ソ、レ、ファソド
ソラファ、ファ、レ、ドシファ
少し音程を変えてトランペット奏者が1人で宙に金の星を散りばめると、すぐにまた他の金管楽器が集まって星を虹に変え、メロディーは少し変化しながら弦楽器の囁きへと移ろってゆく。
優しさと壮大さを兼ね備えた旋律に聴き惚れているうちに、最後はトランペットを中心とした華やかな和音でその部分は締めくくられる。不安げだが堂々としたソロから始まったメロディーを、最後は他の全員が迎えに来て結ぶというわけだ。
この一連のメロディー、特に最初の13個の音の流れは激流となって僕の心臓を穿った。13年の人生の中で、最も衝撃を受けた瞬間といっても遜色ない。
こんなに物寂しい音楽なのに、どうしてこの先に明るい未来が待っていることを予感させるのだろう?
こんなに素晴らしい調べを、どうして僕は今まで知らなかったんだろう?
この部分にはちゃんと名前があって、「プロムナード」という。展覧会に飾られている絵をムソルグスキー自身がぶらぶらと見て歩く様を描写したものだという。曲中何度も調子を変えて出てくるメロディーであり、この曲の最も特徴的で、最も有名な部分なのである。
だが僕はこれがそんなにポピュラーだということを知らなかった。そのくらい、音楽には、ましてやクラシックなんかには、縁のない人生である。
だがその時は、まるで母親の言葉を繰り返し真似る赤子のように、「プロムナード」の冒頭を鼻歌で歌いながら、授業後の音楽室を出て自分の教室に向かって歩いていた。
「なんだ?気に入ったのか?」
ご機嫌で歌っていた僕は突然背後から声をかけられて、思わず甲高い声で叫んでしまった。
「悪い悪い。歌なんて歌っているのは珍しいと思って。」
屈託のない笑みを向けてきたのは、同じクラスの鈴村昴だ。彼とは元々仲が良かった訳ではないが、先月の席替えで隣の席になって以来、何かと世話を焼いてきて、自然と色々な話をするようになってきた。
「なんだかすごく耳に残ってさ。このまま歌っていたら覚えられそう。」
「そうかそうか。なるほどな。」
僕の回答に満足したように昴はニヤッと笑う。僕は彼の真意がつかめずに戸惑い、歌うのをやめた。そのまま2人でくだらない話をしながら教室に戻り、席に着く。
「なあ今川、今日の放課後ひま?」
「なんだよ。ひまじゃねえよ」
「嘘つけ。ゲームばっかりやってる帰宅部のくせに。いい所に連れて行ってやるから、ついて来い。」
「はあ?変なことさせるつもりじゃないよな?」
あまりにも胡散臭い笑みを浮かべて言うものだから、僕は何か悪いことに巻き込まれるんじゃないかと訝しがった。けれども昴はガハハと笑って、
「そんなに変じゃねえよ。でも、今のお前の気持ちをさらに湧き立たせてやるよ」
と、意味ありげに仄めかした。何を言わんとしているのかわからなくて問いただしても、放課後までのお楽しみ、とだけ言われてそれ以上は教えてくれなかった。
そして夕方になり、待ち合わせ場所の校門の前に僕より少し遅れてやって来た昴は、黒い長方形の大きな箱のような荷物を持っていた。長辺の長さは1mもないくらいだろうか。
「何それ?宅急便でも出しに行くのか?」
「ちげえよ馬鹿。これは楽器。」
「へえ?お前、楽器なんてできたんだ。知らなかった。」
「まあ、言ってなかったからな。ほら、さっさと行くぞ。ついて来い。」
箱、否、楽器ケースのサイドについていた紐を肩にかけた昴は、早足で歩き出してしまった。どこに連れて行かれるか検討もつかなかったが、とりあえず彼の背と、小柄な彼の背丈の半分以上を占めるであろう楽器ケースを追って走り出した。
学校から15分ほど歩いたところで、昴は足を止めた。
そこは古びた市民ホールだった。
「着いたぞ。お前はとりあえず客席で聴いていてくれればいい。」
全く要領を得なかったので、
「ちょっと待てよ!これから何をするんだ?こっちは何も説明されてないんだぞ。何かのコンサートか?僕は全然興味ないぞ!」
と彼に訴えると、ハッとしたように、
「ああ、ごめん。実は、俺が去年から入っているオーケストラの練習なんだ。多分、今川を驚かせることが起こると思って。無理に連れてきてごめんな。飽きたらすぐ帰っていいから。」
そう申し訳なさそうに言うだけ言って、昴は建物の中に入って行った。仕方がないので僕も後を追い、大ホールの客席の扉を恐る恐る開けた。
中に入ってみると、縦横に広いホールの大きなステージの上にはパイプ椅子と楽譜立てが整然と並べられており、それだけで何が始まるかを一目瞭然とさせていた。
客席のあちこちでは僕と同世代の小学生から高校生と思しき人たちが楽器ケースを広げている。皆、部外者である僕には目もくれず、黙々と楽器を組み立てたりおしゃべりをしたりしている。そのうちにポツリポツリと楽器の音が聞こえてきて、次第に皆ステージ上に上がって行き、それは一段と大きくなった。
昴も客席の前方で楽器をケースから出した。その楽器とはヴァイオリンであった。準備運動なのか何なのかはわからないが、彼は軽く楽器を弾いた後、楽譜などの荷物を持ってステージ上に上がって行ってしまった。どこに行ったのかと目で追ったものの、小柄な彼はステージ上の雑踏の中に隠れてしまい、とうとう見失ってしまった。
彼が視界から消えてしまったことで急に心細くなった僕は、キョロキョロと客席を見渡した。先ほどよりも立っている人が少なくなり、席には色とりどりの楽器ケースや個人の荷物が座っている。照明を浴びているきらびやかなステージとは打って変わって、なんだか孤島に取り残されたような気分になり、場違いではないのかと思い始めていた。
オーケストラだなんて興味がない。だからきっとつまらないのだろう。知らない人だらけだし。あと何分したら帰ろうか。昴のために1曲くらいは聴きいてやろうかなあ……。そんな風にあれこれと考え事をし始めた。
そんな時である。人の少なくなった客席の自分の真後ろから、訪問者は突然やってきた。
ソ、ファ、シ、ドファレ
時が止まったような、一瞬で音楽に置き去りにされるような、驚愕に満ちた感覚が襲う!
ドファレ、シ、ド、ソ、ファ
昼間、学校で僕の心臓をえぐったトランペットの激流が、僕の耳に割れんばかりにどうどうと流れ込んでくる!!
生で聴いたからか、その瞬きは映像越しに聴いたトランペットの音よりも、もっともっと美しく、何者をも圧倒させるような力強さがあった。
雷に打たれたようになって、僕は勢いよく後ろを振り返る。
そこに立っていたのは、鈍く金色に光るトランペットを吹く、学ランを着た大柄な男子高校生だった。
僕が狐につままれたような驚いた顔をして凝視しているのも気にしない素振りで、右手でピストンをかしゃかしゃと何回か鳴らした彼は、さらにメロディーを続けようとして楽器に息を吐き入れかけた。
「おおい、北園センパーイ!始まるよー!!」
だが、不意にステージの方から誰かが僕の後方の彼のことを呼ぶ声がした。
彼、いや北園先輩は、ハッとしたように楽器と楽譜とペンを慌ててガサッと取り、早足でステージに上って行ってしまった。僕は遠ざかっていく背中をただただ見つめていた。
北園先輩がステージ最上部から二段の中央に用意された席に座ってすぐ、指揮台の左側に座っているヴァイオリンの人が立ち上がり、何かの笛の音と同じ音を出すと、更に他の弦楽器の人たちも続々と同じ音を出し、それは管楽器の人たちにも伝播する。柔らかな音の合唱はすぐに止み、ステージの左側の舞台袖から指揮者の白髪の男性が歩いてきた。彼はステージの真ん中の台に立つと、オーケストラのメンバー全員も立ち上がって彼に向かって挨拶をする。彼らが着席したあと、白髪の老人はすぐに指揮棒を構えた。
一瞬の沈黙のうち、ステージから客席の闇へと届いた光は、やはりあのトランペットの旋律だった。
流れ星に手を伸ばすように、僕は夢中になって「展覧会の絵」の合奏を聴いた。
昼間音楽室で聴いたのと同じ曲が、たどたどしく、でも堂々と奏でられる。少し演奏しては指導が入り、何度も巻き戻して練習し、時には人数を減らして細かい指示が出される。昼に聴いた時よりも何倍も何倍も長い時間をかけて曲が進行していく。
その間僕はずっと、次にいつトランペットの音が聴けるのかと待ち遠しくて恋しくて、抑えられないほどうずうずしていた。こんなことなら、きちんと音楽の先生の解説を聴いて、もう少し曲を覚えてから来るべきだったとひどく後悔した。
ようやく曲の最後まで演奏が終わり、指揮者が休憩を言い渡した時、時計を見ると午後6時になっていた。いつの間にか、本当に一瞬で1時間半も経っていたのである。手元から視線を上げると、昴が楽器を持ってこちらに歩いてくるのが見えた。
「あれえ。帰ったと思ったらまだいたんだな今川。」
「ねえ!すごい!すごいね!!全然飽きない!時間が過ぎるのがあっという間だった!」
自分でも制御できないくらいの勢いと声の大きさで、昴に感想を叫んだ。近くにいた中学生くらいの女の子が驚いたようにこちらを振り返る。
「だろう?今日学校で聴いた曲を生で聴けるなんて、運命だろう?」
ニヤニヤしながら昴は言う。
「トランペット!トランペットの音がすごいよ!」
僕は後ろに彼、北園先輩がいるであろうことを忘れて叫んだ。僕の前の席から僕に向かい合っていた昴が一瞬驚いたような顔をして、だろ?言った後、
「7月21日。あと1ヶ月後。このホールで演奏会やるから来て。『展覧会の絵』やるから。タダでチケットあげるから」
「本当?行く行く!」
「マジで?!」
胡散臭さを感じさせないくしゃっとした笑みで、昴はサンキューな、と言った。
しかしながら、市民ホールから程遠い僕の家の門限が7時であることを思い出し、練習の最後まではいられないことを昴に告げた。彼は残念そうな顔をしながらも付いてきてくれたことに礼を言い、またステージの方に戻って行った。僕も荷物を手に客席後方の出口に通ずる通路に向かって歩き出す。
途中でちらりと横を見ると、北園先輩はトランペットを構えて「展覧会の絵」ではない別の曲を練習していた。冷たい金属から流れ出ているとは思えないほど柔らかい音に全身が包まれ、かつてないほどの心地よさを感じた。それに、たくましい腕に凛とした横顔が、本当にかっこいい。
あんなに美しい楽器の音は生まれて初めて聴いた。こんな怖いようなカッコいいような高校生の人が、あの素敵な音を出しているんだ。
興味と後ろ髪を引かれながら、僕は足早に外に出た。




