二十/支配者の影
ネイト・クロムウェルの失敗はすでにアーデルハイドにも伝わっていた。
彼女の落胆は深かったが、しかしそれはジョッシュの確保に失敗したことについてではない。
「女王陛下。彼女の魂が定着したようです」
「左様か。連れてきておくれ」
「かしこまりました――」
干からびた虫のような老爺オグムがアーデルハイドの工房を訪ねる。彼は言い付け通りに一度下がると、ひとりの妙齢の女を連れて戻ってきた。
くるりと巻き上げられた金の長髪、くっきりと鮮やかな紅を引いた唇、切れ長の鋭い眼差しをたたえ大人びた美貌。成熟した肢体には白いローブをゆるりと身に着けている。
それは王都の牢獄に捕らえられていたあの女――ソニア・アースワーズにうり二つであった。
彼女は女王の工房に足を入れるやいなや静々と跪く。
「お初にお目にかかりますわ、アーデルハイド女王陛下……」
「ふふ、呆けたことを言いおる……いや、おぬしにしてみればこれが初めてかの?」
「まさしく。恐れ多くもこれが初めてのお目見えですの」
「おお、そうであったそうであった。どうじゃ、身体の調子は?」
アーデルハイドはソニアを真っ直ぐ見下ろす。
「何の違和感もありませんわ。まさしく生身と変わりない……私の術などとは比べ物にもなりません。陛下のおかげで冥府より舞い戻りしも、果たして陛下のお力になれるかどうか……」
「技が足りねば精進すればよいのよ。今はおぬしの力を是非とも借りたいところであるからのぅ……どうじゃオグム、工房の用意はできておるか?」
「無論です」
部屋の隅にひかえていたオグムがうやうやしく頭を垂れる。
「ではすぐに案内してやっておくれ。しばしは腕を慣らしておくが良い……いずれは妾が任を命ずることになるがのぅ、それまではおぬしの思うがままじゃ」
「……はっ! しかるべき時に備え万全の態勢を整えさせていただきますわ……!」
「うむ、よい心がけじゃ。特別に問いをひとつだけ許してやらんでもないぞ?」
アーデルハイドが機嫌よく告げると、ソニアは身をこわばらせて面を上げる。
「……では、恐れ多くも……ここは一体どこですの……?」
「ファルケン領。そこの男の城じゃよ」
アーデルハイドのしなやかな白い指がオグム・ファルケンを指差す。
ソニアは愕然として目を見開いた。
「ファルケン? ……国王直轄地ではありませんの!?」
「そのようじゃなあ。いやいや、恐ろしい男もあったものよ」
アーデルハイドはくつくつと笑い、当のオグムは無表情。
ソニアは驚愕をあらわにして彼の顔を見上げる。
「失礼ながら、女王陛下。本当にこの男は真実に足りえますの? あの王の……」
「くく、そう勘繰るでない。こやつは確かにファルケン――王を騙る輩の派閥に属しておるがな、しかしファルケンではないのじゃよ」
「……? それは、どのような……」
「説明してやっとくれ」
アーデルハイドは笑って顎でうながす。
「成り代わりです」
「……そのような術ですのね」
「そう。記憶を、肉体を、そっくりそのまま掠め取る呪です――」
オグムは左右の口角をにやりと釣り上げて言った。
その表情は隠者めいた老人のそれではない――内側に潜む何者かが見せたような笑みだった。
「……細かくはお伺いしませんわ。同志といえども種を明かすつもりはないでしょうから」
「賢明ですな。では参りましょう」
オグムとソニアは工房へと向かうために部屋を出ていく。
ソニアの魂を招いたのは、その人形師としての腕を存分に振るってもらうためだった。これから事を起こすためにも彼女の力は必ず必要になる。
ファルケン領は北西に王都を、南西に魔術学院領を睨む立地である。王都まではやや距離があるが、魔術学院とは小領地を挟んでほぼ隣接していると言っても良い。
「あの小娘……」
カイネを掌握することに失敗した以上、アーデルハイドの存在は遅かれ早かれ露見する。
この根城がすぐに発見されることは無いにしても、行動する予定を早めるに越したことはなかった。
「女王陛下、案内を済ませておきました。調子はすこぶる良好のようです」
「うむ、結構じゃ」
「……時に、女王陛下。ネイトのことはよろしいので?」
オグムは報告した直後、ふと出し抜けに問う。
アーデルハイドは不機嫌そうに眉をひそめ、振り返った。
「あやつは底が割れてしもうた。捨て置け」
「復活はなさらないと?」
「あの呪術は身体的なものじゃ。妾の人形代とてあやつ本来のもの以上には仕上がらん――それにな」
オグムは無言で、ひれ伏したまま次の言葉を待つ。
「一度破られた呪術は何度でも破られようぞ。種が知れれば、相手があの小娘である必要すらなかろうよ」
「……愚問でしたな。どうかお許しおき願いたくございます」
「かまわぬよ。あながち無意味では無かったしの」
「……と、申しますと?」
ジョッシュ・イリアルテの捕縛も、カイネと対等に渡り合うこともままならなかった。
他の誰しもが無意味と判断しておかしくはないところだが――
「通じぬということがあらかじめ知れただけで僥倖よ。土壇場で当てにしたのを破られでもしたら目も当てられんじゃろう?」
「……全くでございますね」
アーデルハイドは表情をぴくりとも動かさずに言い放ち――
オグムは思わずというように苦笑した。
***
カイネの帰還から数日後――
学院長室に招かれたカイネに、ユーレリア学院長は単刀直入に言った。
「結論から申し上げますが、カイネ殿には以前通りこちらに留まっていてもらいたいというのがこちら側の見解です。もちろん、カイネ殿の望む限りにおいてですが」
「……本当にかまわぬのか?」
「ただし、ひとつだけ――許可なく学院外に出向かれるのはお控えいただく、という条件付きにおいてですが」
カイネを野に放つことはなかろう、という推測は的中。制御不能な要素を忌み嫌うアルトゥール王ならではの判断と言えようか。
ユーレリアの対面に腰掛けているカイネ――制服は修繕中のため、そこらの町娘のような亜麻色のワンピースを着ている――は神妙そうに眉をひそめる。
「おれがここにおったら、そのせいで生徒らを危険に晒すことになるやも知れんぞ?」
「……いずれ〝彼女〟の矛先がこの地に向くことは変わらないでしょう。だとすると、カイネ殿がこちらにいるかいらっしゃらないかではずいぶん状況が違ってきます」
「その時のための食客、というわけだな」
「あえて悪く申し上げれば。……もし我々から打って出ることになれば、その時また改めてカイネ殿に申し出をすることになるやも知れません」
「……おれとてあやつの情報が欲しいことに変わりは無いからの。持ちつ持たれつというやつよ」
アーデルハイド復活の報はすでに学院長、ひいてはヴィクセン王国首脳部に余すところなく伝えられている。
魔術学院の設立に関わるという経歴もあってかユーレリアの反応は微妙だが、彼女を〝敵〟と見なすことに異存はないようだった。
「カイネ殿は……やはり、呪いを解くことが目的で?」
「うむ。……〝ベルンハルト〟の名を捨てて生きるにも、まずあやつとの因縁を断っておかねばならぬ」
逆に言うなれば、魔術学院に留まる理由はそこまでだ。
本来なら今すぐにでも出奔していたかもしれないが――これまでに関わりを持った人々との因縁が、今少しカイネをこの地に引き止めることとなったのだ。
「わかりました――では、そうとわかれば、こちらをお渡ししておきましょう」
「……なんだ?」
カイネは不意に立ち上がったユーレリアを目で追う。
彼女は部屋の衣装箪笥から、綺麗に折りたたまれた一揃いの女子制服を取り出した。
「予備に仕立ててあった制服です。……今しばし学院の者として、こちらを御着用ください」
「かたじけない。――長くはならぬかもしれんが、世話になるぞ」
「……改めてそう仰られると寂しいものですね」
ユーレリアはカイネに制服をうやうやしく手渡し、ふと窓の外に目を向ける。
カイネはとぼけたように小首をかしげた。
「そりゃ妙じゃの。おれがおらぬほうが面倒事も減るであろう?」
「おそらくその通りなのでしょうね。……それが寂しくなるということです」
ユーレリアはいたずらっぽく微笑んで向き直り、すぐに表情を引き締めた。
「……戯れはよいがな。いま一番警戒するべきはおまえさんじゃぞ? ユーレリア殿」
「えっ」
「えっじゃない。あやつの狙いはわかっておろう?」
「い……いえ、それはもちろん。この学院が狙いだとは承知していますが……そこでなぜ私に? 頭である私を獲ったところで、また別の誰かが頭に据えられるだけ――」
「あやつも意味もなく人を傷付けたいわけではなかろう。……あやつはな、学院の魔術師が欲しいのだ。なんなれば全員が無傷のまま、力だけをそっくりそのまま手に入れたい――」
言い終えるまでもなくユーレリアは目を見張る。
アーデルハイドの究極的な狙いが魔術学院の無血開城であるならば、その決断を下す人物はただひとり。
「それは……いえ、ですが私は……」
「王に仕える者に過ぎぬと?」
「……率直に仰られますね」
「それは卑下が過ぎよう。……そうだの、例えばおれなら……『大人しく私の軍門に下るならば生徒は一切傷付けない。アルトゥール王もまた生徒を傷付けることはできない。もしそうなれば国中の貴族を敵に回すことになる』――とでも吹き込むであろうな」
カイネはあくまで淡々と告げ、ユーレリアはごくりと息を呑む。
ユーレリアが国王アルトゥールの意を汲んで学院を運営しているのは確実だろうが、現場を治めていることの意味は彼女が考えているよりもずっと重い。そこを突いてこないアーデルハイドではないだろう。
「……人心掌握を受ける可能性は盲点でした。心しておきましょう」
「実際はこれほど露骨ではなかろうが……やるならもっと巧妙にやるであろうな」
「予想はつきます。……今後接触を図ってくるものには、〝彼女〟の入れ知恵があるかもしれないことを念頭に置くべきでしょうね」
ユーレリアは重々しく頷いてみせる。
カイネは微笑んで立ち上がった。
「くれぐれも気をつけとくれ。……まぁ、見張りもおるからには余計な心配かの」
彼女がこうして二人きりで顔を合わせるのは魔術学院の内部者に限ってのことである。ベイリン・ラザロヴァのような内通者の類はもうおそらく存在していないだろう。
ユーレリアはカイネを部屋の入り口まで見送り、
「カイネ殿もなにとぞお気をつけを。こちらから警備を回すことも考えたのですが……」
「いやよい。邪魔くさいしの」
「……そう仰られるだろうと思いました」
その反応があまりに予想通りだったのか、思わずというように苦笑。
カイネは改めて礼をして学院長室を辞する。
ユーレリアは「では、そちらにお任せいたしましょう――」と、部屋の外で控えていた待ち人に目配せして扉をそっと閉めた。
待ち人は、ジョッシュ・イリアルテだった。
「お疲れさん。……どうするか決まったかい?」
「うむ。また世話になることになった」
これがその証よとばかりに先ほど受け取った制服を示す。
と、ジョッシュは安堵したように大げさに息をついた。
「落ち着くところに落ち着いたってェわけだ」
「今のところはの。……王は何か言うてきておらぬか?」
「何にせよ任務は継続、だとよ。『カイネ・ベルンハルト改めカイネ・イリアルテが魔術学院より出奔せし際には死力を尽くしてでも捜索すべし』――ってな」
「……それはおれに言うてよい話なのか?」
「どうだっけかな。よく覚えてねぇや」
ジョッシュは飄々と笑い飛ばす――その真意は今ひとつ掴みにくいところがある。
「……おれが何者かなど気にもせず、か。予想はしておったが……」
「勝手に義兄扱いされてたのには参ったが」
「おまえさんのような兄を持った覚えはないぞ」
「俺だって国王陛下と血縁関係ができるなんざ真っ平御免だよ」
カイネは軽薄な笑みを漏らすジョッシュを見つめ、ふと考える。
もし学院を出奔することを考えるなら、ジョッシュを頼るのは間違いないだろう。実務的にも心理的にも、彼はカイネが最も信頼する男だ。
しかしながら思うのは、彼の背後にアルトゥール・ワレンシュタインという支配者の影が付かず離れずつきまとうことだ。
カイネがジョッシュに信頼を寄せるようになったのは、無論カイネ自身の意志である。ジョッシュにもアルトゥールの手駒となっているつもりはなく、あくまで一軍人、一個人として動いていることは間違いがない。
その上でもカイネはやはり、そうなるように仕向けられたような感覚――カイネという異分子を監察するのに好都合な構造を築かれたような、そんな気がしてならないのだった。
「……のう、ジョッシュよ。ちと考えてることがあってな」
「どォした、また厄介事の種でも出てきたってんじゃねェだろうな」
「いや。……事がすっかり片付いたら、どこぞに旅にでも出ようと思っておってな」
「どういう風の吹き回しだそりゃあ。……なんだ、思うところでもあったか?」
ジョッシュは少し怪訝そうな顔でカイネをそっと見下ろす。
「学院は……いずれ出ていく場所だと思うてな。やはりおれのおるべき場所ではないようだ」
「まァ本来……と言っちゃあなんだが、そもそも学生のための場所だからな。端から俺らは場違いってもんだ」
「うむ。クラリーネの様子見にはちょいちょい戻るつもりだがの……おまえさんは、どうする?」
カイネはすぅっと瞑目し、ふと足を止めた。
ジョッシュは前に踏み出したまま振り返り、
「付いていくさ。カイネが構わねェなら、だがね」
「……仕事だから、か?」
「ひとりで行きたいんなら俺にいちいち聞かないだろ? ――それに、もう他人事じゃねェさ」
かつての言葉を翻して、いともあっさりとそう言った。
カイネにとっては予想だにしていない言葉だった――誰あろう『所詮は他人事だからな』と繰り返し言ってのけた男の口から出たとは思えない一言。
「――おまえさんこそ。どういう風の吹き回しかの?」
「新しい名前で生きることを押し付けたのは俺だろ。その責任は果たすってだけの話だ――カイネ、あんたがクラリーネについて責任を果たそうとしてるのと同じことじゃねェかい?」
ジョッシュは何でもないことのように笑う。言われてみればその通りなのだが、当事者となるとなぜだか実感が持てない。年長者――カイネ・ベルンハルトとしての意識がどうしても拭えないためか。
「おれは――いや、これは〝ベルンハルト〟の話なんだがの」
「聞くよ。あんたの一部だろ」
カイネはまたゆっくりと歩き出す。ジョッシュは歩幅を合わせてその隣を付いていく。
「やつは……六十かそこらで隠居した。人の目にもろくろく触れぬ深山の奥よ。それがまた妙な噂に尾ひれを付けおったわけだが」
「有名な話だよ。どこのド田舎の出でも〝刀神〟の名を知らねェやつなんてまずいやしない」
「それというのも士官話……時の権力者に仕えろというのがとにかく邪魔くさかったらしくてな。人の目が煩わしゅうてしょうがなかったようじゃの」
「今はどうよ?」
「……多分、さして変わらんな」
カイネ・ベルンハルトは安寧とともに余生を過ごせる士官話をわざわざ避けたというわけではない――
深山の奥地での隠棲こそが、彼にとっての安住の地だったのだ。
例えどれほどの権力や財産が得られるとしても、時の権力者のお膝元に置かれるという境遇はそれそのものが苦痛でしか無かったのだ。
「なるほどな。話が見えてきたぜ」
「今のでようわかったなおまえさん……」
「軍、辞めるか」
ジョッシュはあっけらかんと言い放った。
深い思慮も悩みもありはしない、放言としか言いようのない声色だった。
カイネはさすがに驚いたように紅玉のような目を見開く。
「……おまえさんまたそんな軽々しゅう」
「そもそも俺が軍に入った理由も、俺が早死にしても誰も困らねェからだしな。どうせ死ぬんなら他人の戦場で死ぬのも同じってェ話だが」
「そこはおれも大して変わらぬな……」
戦場と呼べるかは別にして、カイネのせいで危険な状況に幾度も付き合わせていることには変わりがない。
しかし、
「死に場所を選べるんならあんたの戦場で死ぬね」
「死ぬでないよ。後味悪かろうが」
「いや、まァ、死にたくはねェけどな。もし死ぬならの話さ」
ジョッシュはいつもと何ら変わらない軽薄さで死を語る――どこまでが本気なのかわかりもしない。
彼はへらへらと笑って言葉を続けた。
「俺が死んだら困ってくれるかい? カイネ」
「……いや、あんまり」
「そこは嘘でも困るって言ってほしかったところなんだがなァ!?」
悲しいことにカイネの精神性は友人の死というものに慣れ切っていた。カイネ・ベルンハルトの魂の残滓。
少女はふとジョッシュを見上げ、
「……あまり困らぬかもしれんが、悲しいと思う」
正直に、心のままに、そう言った。
ジョッシュはふと黙りこくり、がしがしと頭を掻き、ぽつりとつぶやく。
「あー……なんだ。変なこと言って悪かった」
「なんじゃ藪から棒に……」
「取りあえずまァ一区切り付いたんだしな、あれだ、今晩辺りちょっくら飲むか」
「飲む。よいのを頼むぞ」
「……いや待て。名実ともにその年で飲むっつゥのはありなのか……?」
「よいから飲む」
児童の飲酒を禁じる法は無いが、さりとてカイネ――齢二桁にも満たぬ外見の少女に酒を勧めることも普通はない。
ジョッシュの煩悶も意に介さず、カイネは容赦なく彼の手を引いていくのだった。
四章完。
終章の開始前にはあらためて活動報告などで告知を行ないます。




