十九/追想
ネイト・クロムウェルを退けてから魔術学院に戻るまでの道中を、カイネはほとんど寝て過ごした。
身体的な疲労か、それとも精神的な疲労によるものか。
無地の白シャツに長ズボンという雑な格好でジョッシュの上着をかぶって寝付いたのが癖になったのか、カイネはしばらくそうしていた。
「……カイネ、そろそろ返してくんねェか……?」
「毛布代わりというやつだ。しばし貸しといてくれぬか」
「微妙に遠慮が無くなってきやがったな……」
「自分を老いぼれと思わば少しはつつしみの気持ちも出ておったのかのう」
今となってはそうでないことが明らかになってしまったのだ。心身に染み付いた記憶や経験がそうさせてしまうことまでは変わらずとも、意識的にそうしていた部分が変わりつつあることは否定し得なかった。言うなれば自己認識の過渡期とでも言うべき状態にあるのだろう。
ジョッシュもアーガストも強いてそれを咎め立てはしなかった――しかしアーガストは魔術学院の関係者として、カインド領で遭遇した事の顛末をおおよそ報告する必要がある。
「報告の類は全て私から済ませておこうと思うのだが……話せることを一通り話してくれるかね?」
「正直、まだおれもぴんと来てないことが多いんだがの……」
ともあれ、公的な報告を済ませておいてくれるならこれほどありがたいことはない。
カイネはすでに説明したカインド邸地下でのことに加え、襲撃の実行犯であるネイト・クロムウェルが十二使徒の一人であること――彼がアーデルハイト直属の配下であるのはほぼ間違いがないということを大まかに伝えておく。
魔術学院に帰還後、事態はトントン拍子で進んだ。
カイネにはその日のうちに謹慎が言い渡された――勝手に学院外に出ていかないようにと戒められただけで、行動を制限されたわけでも見張りを付けられたわけでもないのだが。
しかしカイネにとっては好都合だったと言える。
今はまだ心の内を――山のように与えられた情報を整理する時間が必要だった。
(……どうしたもんかの)
ボロボロの制服がハンガーに吊るされた私室に朝日が射す。
カイネは簡素な下着姿のままベッドに寝転がって思案していた。
何から考えるべきかもわからないという有様だが、まず気がかりなのはこれからの身の振り方だ。
これは魔術学院がどのような方針を取るかによって大きく左右されるだろう。
『カイネ・ベルンハルトその人であるからこそ学院内に留め置いていたのであり、そうでないのなら置いておく訳にはいかない』――そうなる可能性は決して零ではない。
カイネ自身にその自覚はなかったが、結果だけ見ればベルンハルトの名を騙って名声のおこぼれに与っていたとも言えるからだ。
(……学院の独断では決めかねよう。すなわち王がどう判断するかということよな)
ヴィクセン国王アルトゥール・ワレンシュタイン。
彼はカイネ――王の言葉を借りればカイネの『顔』――を買っていたが、政治的判断に私情を挟む口ではない。カイネに婚約を申し込んだ非常識な行動すらも、政治的な打算が織り込まれたものだった。
では彼はカイネを学院から放り出すことを望むか――否であろう。
魔術学院は研究機関であると同時、魔術師という一般社会では包摂しきれない者たちを受け容れる機能を持っている。
それは裏を返せば、強大な力を持つはみ出しものを一箇所に集めて効率的に監視するという意味でもあるのだろう。
(……今思うと、魔術師ギルドも似た役割を持っておるのであろうな)
魔術学院が主に上流階級の才能ある子弟を把握するためとすると、魔術師ギルドはおおよそ真逆――下流から頭角を現した魔術師に目をつけるための機構か。
魔術学院に豪商の子弟が在籍していたり、魔術師ギルドの筆頭格に貴族出身のどら息子が紛れていたりと、多少の混淆は散見したが。
(その基準に照らし合わせれば……おれも立派な『監視対象』には違いなし)
カイネはちいさくため息をつく。
学院を出奔してアーデルハイトの根城を探し出すということも当然考えた。
しかし手がかりの一つも無いままではいかさま無謀にすぎるし、第一仮にもクラリーネの保護者代理である身としては無責任にも程がある――
その時、こんこんとちいさな音がした。
窓を軽く叩くような音。
(む……?)
カイネはベッドの上で身を起こして振り返り、そして見開いた瞳を穏やかに細めた。
シャロン、ネレム、そしてクラリーネ――この朝早くから三人揃ってどうしたことか。
カイネは窓辺に歩み寄り、シャロンは慌てて顔を赤面させた。
「おはようさん。どうしたおぬしら、この朝早うから」
「あっ、お、おはようございます……じゃなくてっ、カイネ殿ッ! その格好はあまりにもあんまりであります……!」
「む……あぁ、すまぬ。ついさっき起きたばかりでのう」
小柄ながらもきっちりと制服を身につけてきびきびと振る舞う姿はどこか神聖な――悪く言えば近寄りがたい雰囲気をかもし出すカイネだが、あられもない下着姿でいるとただの無防備な子どもにしか見えない。
カイネはさほど意に介さず窓を開け、部屋の中から適当な上着を見繕って肩にかける。
「それで……何か用かの? 三人揃って」
「用というほどのことでも無いのでありますが……カイネ殿が帰られたと聞いて一度お邪魔しようとうかがったら、『カイネ殿は少しお疲れのようだ』とアーガスト殿が仰られたものでありまして……」
「……あやつめ。余計な気を利かせおって」
カイネを気遣っての対応であることは間違いないが、かえって不安がらせてしまったことは想像に難くない。
ネレムは立ったまま寝息を立てている能天気ぶりでむしろこっちが安心したが、クラリーネは――
「何があったの」
クラリーネは、単刀直入に質問した。
何かあったかと尋ねているのではない――何かがあったことを確信しているような口振りだった。
「……おまえさん、何か聞いておるか?」
「何も。カイネさんが制服をだめにしたってことだけ」
「なんだってそんなことが広まっておるのだ……」
ボロボロの制服姿を目にしているのはジョッシュとアーガストの二人だけだ。
とはいえ、学院内にも関わらず制服を着ていないカイネの姿を見たものはおおよその推測が立つだろう。いつも制服姿でいたカイネがなぜか制服を着ていないのなら、それは着られないだけの理由があるのだと。
「……おまえさんらには話しておくかの。関係のない話でもなし、中に――」
「入る」
「クラリーネは少し落ち着くでありますよ……!」
「私にも関わりがあるかもしれないから」
クラリーネはすでに何があったか当たりを付けているような口振りだ。伊達に十二使徒の末裔であったわけではない。
彼女はためらいなく窓から部屋に入り、シャロンがネレムをほとんど背負うようにして後に続いた。
「関わりがあるとは言い切れぬが……あぁそうだ、おまえさんの助言が役に立ったのは確かよの。感謝しようぞ」
「助言――死霊術?」
クラリーネの記憶は迅速かつ確かであり、おかげでカイネはずいぶんと話しやすくなった。
カイネは掻い摘んで此度の出来事を話す。
カインド領の十二使徒――死霊術師。
また別の十二使徒による襲撃――その過程で制服が悲惨な状態になってしまったこと。
そして何よりもの核心――カイネは何者であったか。
「……カイネ・ベルンハルトの影法師。依代に引き写された魂とでも言うべきもの。それがカイネさんの正体……」
「左様。……つまりおれは、単なるまがい物に過ぎんかったわけよの」
その一点において、ネイト・クロムウェルの言葉は真実を突いていた。
ジョッシュによる名付けを経たカイネにとっては、その真実がさしたる意味を持たなかったということに過ぎない。
だが、まだ年若い少女たちにとってはどのような意味を持つか――
「それは……残念でありますな」
「……見損なったかの?」
「つまりカイネ殿は殿方ではなかったわけで、友誼を深めるにはばかることなど特に無かったということでありましょう!?」
「なぜそうなった」
残念とはそういう意味か――
理屈の上ではシャロンの言っていることが正しいのだが、いの一番にその感想が飛び出してくるとは果たしてどうしたことか。
「……イリアルテ……あの付き人さん?」
「付き人はあんまりだと思う」
ネレムは寝ぼけ眼のままぽつりと零し、クラリーネが控えめなフォローを入れる。
学生たちはジョッシュと関わる機会がほぼ無いのだから当然だが、クラリーネは唯一と言っていいほど確かな面識があった。
「〝名付け〟に関係の深い人間の姓を用いるのは良い機転。あまりに突拍子も無い名はかえって危険を招く可能性もある」
「……左様であったか。ジョッシュのやつに改めて礼を言っておかねばな」
「カイネさんの記憶、経験、歴史はどれも重要なことじゃない。重要なのはカイネさんが自らそう名乗り、実際に『何をしてきたか』ということ」
クラリーネは一介の呪術師として、カイネを支えるものをいとも容易く「重要ではない」と言ってのける。
しかしそれらは虚構に過ぎねばこそ、カイネ自身にも納得の行く言葉だった。
「その通りであります! その技はカイネ殿自身のものでなくとも、実際にやったことはカイネ殿自身の功績に他ならぬでありましょう? 技は使われてこそであります」
「……もっともらしいことを言いおる」
「カイネ殿にたいへん助けてもらったこの私の言うことでありますからな!」
シャロンは堂々と胸を張る――なぜかわからないが誇らしげ。
「……約束を果たしてもらったのは、私もだしね」とネレムは揃って頷く。
「約束……あぁ、あれは大部分クラリーネのやったようなもんだがの」
「カイネさんがいなければ私はここにいないから」
「……今となれば良いことかもわからんが……うむ、おまえさんについては責任を負わねばのう」
クラリーネは魔術学院での居場所を得た。
しかしながらカイネの懸念は、まさにその魔術学院がアーデルハイドの狙いのひとつかもしれないということなのだ。
魔術の祖たる魔女の王――アーデルハイド・エーデルシュタインの復活。
それを彼女たちにまで話すのは、余計な重荷を増やすことに繋がろう。生徒たちの与り知らぬところできっちりと片を付けるのが最善だが、情報が行き渡らなかったせいで危険に晒すような真似も避けたい。
「また来る。今度は私が助けるから」
「私も! 私もであります!」
「……シャロンは私と寝てた方がいいよ」
「なんでであります!?」
「危なっかしいから」
クラリーネの端的な一言にシャロンは返す言葉もない。
カイネは思わず頬をほころばせて微笑む。
「おまえさんらに余計な手間はかけさせぬよ。それに――もう十分に救われたとも」
彼女たちの気遣いだけで、彼女たちの言葉だけで、今のカイネには『真物』であること以上の意味があったのだから。




