十四/犬神使い
アーデルハイドは寝室兼工房で人形代の制作に取り掛かっていた。
羊皮紙の上に描かれた図面は極めて写実的であり、原型を美化するでもなく貶めるでもなく、ありのままの姿を描き出していた。
図面は、ジョッシュ・イリアルテの姿にうり二つであった。
「あぁ口惜しや……髪の一本でもあればのぅ……! 痛みを同調させてやることも不可能ではなかったろうに……!」
精緻極まりない作業を進めながらも思う存分に恨み言を発散していた彼女は、ふと小腹を空かせて部屋を出る。
アーデルハイドの肉体もまた人形代だが、生身の材質が用いられているため腹が空く。ウィレム・カインドの死霊術によって現世に蘇った後、自ら手がけた肉体であった。
アーデルハイドの寝室はファルケン城の最上階にある。
本来の城の主であるオグム・ファルケンにあてがわれたものだが、今や実質的な主はアーデルハイドに他ならなかった。
アーデルハイドは城内の食堂におもむく。
食卓にはすでに湯気を立てているスープと肉料理、その他諸々の前菜などが並んでいた。
そしてもうひとり食堂にいたのは、目が見えないほどフードを目深にかぶっている女。黒く長い髪が目元を隠しており、ローブの奥に垣間見える肌の色は浅黒い茶褐色である。
女は赤い唇をそっと開いた。
「どうぞ、アーデルハイド陛下……お待ちいたしておりました……」
「おやおや、これは不思議よのぅ。妾は食事の用意なぞ頼んでおらんが?」
「陛下の食事をご用意すれば、陛下もいらっしゃると思いましたので……」
彼女はごく自然に、当たり前のように不条理なことばを口にする。
アーデルハイドの料理が用意されているのだから空腹のアーデルハイドも当然いる、というような口振りだ。
それはあまりに狂った理屈だが、彼女にとってそこに何ら不可思議なことは無いのであった。
「ほほ、実によい働き。褒めてつかわそうぞレイフィア」
「ははぁー……ありがたきしあわせ……」
レイフィアと呼ばれた女は芝居がかった仕草で頭を垂れる。
使用人さながらの振る舞いだが、彼女はれっきとした一領主だ。
否、正確に言えば〝元〟領主である。彼女はアーデルハイドの復活を知るやいなやお側に仕えるために死を装い、傀儡領主を後釜に据えたのだ。
その過程も極めて奇っ怪なものである。
レイフィアは出奔同然に領地を捨て、側近を次期領主として指名しただけだ。
すると、レイフィアは世間的に死んだということに『なった』――なぜなら他の人間が領主を継いでいるから、という塩梅だ。
「お味はいかがでしょう、陛下……」
「うむ、美味じゃ。おぬしは良いな、実に良い」
アーデルハイドが食事を摂る間、レイフィアは対面の席に腰掛けて彼女の食事姿を眺めている。
他人がそうすれば不敬であろうと一蹴したに違いない振る舞いだが、アーデルハイドは気にもしない。レイフィアは彼女のお気に入りなのだった。
「おいしいお役目を持っていかれてしまいましたので……これしきのことでしたら……」
「ほほ、物事には適任というものがある。おぬしにはおぬしでまたしっかと役に立ってもらうつもりじゃぞ?」
「適任……このたびは、彼が適任だったのでございましょうか……?」
「その通りじゃ。まぁ、あやつらの近くにおったからというのもあるが……」
そもそも『彼』――ネイト・クロムウェルがカインド領の近隣に控えていたのは、アーデルハイドの手配に寄るものだ。
もっとも、初めからカイネを追跡させるために配置したわけではない。元はといえば、支配下に置いた『何者でもない少女』を迎えさせるための準備である。
万が一のためのバックアップ要員という意味合いも皆無ではなかったが、万が一など起こり得るはずがなかったのだ。
だが起こった。
起こってしまった。
何者でもない少女はいまや、仮初めの名に過ぎずとも『自分』というものを得てしまった。
「ぐっ……ぐぬううううぅぅッ!!」
「……あ、陛下……」
アーデルハイドは発作的に癇癪を起こして床にスープの皿をひっくり返す。
レイフィアは一切動じずに食堂の隅から掃除用具、雑巾などを手にてきぱきと片付けを始めた。
「……あぁ、すまぬ。あの時のことを思い出したら怒りがこみ上げてきおってな、どうにも抑えきれぬのじゃ」
「いえ、お気になさらず……」
アーデルハイドの謝罪にスープの皿をひっくり返した点は一切含まれておらず、レイフィアも全く気にしていなかった。
割れた皿の欠片が掃き清められ、スープの痕跡も綺麗に拭い去られ、まるで何ごともなかったのように掃除が完了する。
「……レイフィアよ。このようなことに呪術を使いおるのはおぬしくらいじゃぞ?」
「陛下のお食事のためでございますから……」
アーデルハイドはふとテーブルの上を見渡し、呆れたように息をつく。レイフィアはただ静々と頭を垂れるのみ。
テーブルの上には、ひっくり返したばかりのスープの皿が、全く元通りに置かれていた。スープはまるで作りたてのように湯気を立てている。
「キースリングの〝因果流転〟……磨き上げたものよのぉ」
「滅相もございません……先祖代々の研鑽、ひいては陛下の薫陶の賜物ですから……この私の貢献など微々たるもの……それこそ端女のようなものでありますれば……」
スープの皿は初めからひっくり返ってなどいない。レイフィアの手によってそういうことになった。
なぜなら、皿がひっくり返った痕跡はもうどこにも存在していないのだから。
これこそはキースリング――レイフィア・キースリングの司る呪術〝因果流転〟。
「ほほ、よう口の回るやつよのぅ。そうじゃな、ネイトのやつのことを話してもよかろうかの――」
「その話、僕も聞かせてもらいたいね」
食堂の入り口から、声変わり前の少年じみた声がした。
異装であった。
身の丈は五尺四寸ほどでレイフィアとさほど変わりない。開襟のシャツと旅人のそれのように擦り切れたズボン。色の抜けた髪は白髪とも金髪とも付かない半端にくすんだ色合いで、一見した印象は都市部の戦災孤児やスラム出身の少年といったものを思わせる。
そして最も奇妙なのは、両目をすっかり覆ってしまうように白い包帯を巻き付けていることだった。
「なんじゃ、ヴィーラ。立ち聞きでもしておったのか?」
「まさか。女王陛下とキースリングが一緒にいるのが視えたからね、何か重要なことでも話し合っているのかと思ったんだよ」
ヴィーラと呼ばれた少年は両目をふさいだ姿のまま飄々と食堂内に入り、迷わず椅子を引いて腰を下ろす。
レイフィアが横から口をとがらせた。
「……陛下を盗み見とはいただけません。あなたは何のために目を閉ざしているのですか?」
「知ってるだろう? 視えすぎるからだよ」
「……それは結構としても態度はあらためなさい……言葉が過ぎましょう……」
「なぁに、おぬしから話に寄ってくるとはかわいいところもあるではないか。今日は妾が特別に許してやろうぞ」
「それはどうも」
ヴィーラはへらへらと笑い、アーデルハイドの方に顔を向ける。
彼は微妙に、アーデルハイドと目が合わないように視線をそらしていた。それが彼なりの敬意の表し方とでも言うかのように。
レイフィアは目深にフードをかぶったままヴィーラをじろっと睨めつけるが、それ以上は何も言わなかった。
「さて、ネイトのことじゃな。あやつは剣士全般に対して無類の強さを誇る……ゆえにこそ妾もカイネのもとに差し向けたわけじゃな」
「勝てなかったと聞いたけど?」
「うむ、勝てぬじゃろうな。しかし負けもせん」
アーデルハイドはきっぱりと断じる。
レイフィアはふと頭を垂れて口を挟んだ。
「……不躾な質問になりますが、陛下……彼は犬神使いでは?」
「左様。広く言えば獣使い……今風にいえば魔獣使いというやつに近かろうな。しかもこの獣はよく祟る」
「それがどうして剣士対策になるのかな?」
「……お黙りなさい。陛下のお言葉に耳をかたむけるのです……」
「自分も途中で口を挟んだくせに……」
ヴィーラは包帯越しの目をレイフィアに向けるが、当の彼女は微動だにしなかった。
うむ、とアーデルハイトは頷きながら牛肉のソテーにフォークを突き立てる。
「飢えた犬の首を落として四つ辻に埋める。道を通る人間に踏みしだかれたけだものの魂は魔獣に変じて仇をなす……これがいわゆる犬神というのはおぬしらも知っておろうが」
「恨み骨髄……というよりは、その地に関わりを持つ人間や土地そのものの魔力を吸入して生まれるのだったかな?」
「左様。ルーンシュタットの術とも近いものがあろうな」
ルーンシュタットに伝わる呪術〝感染霊域〟は一個人とその装備品との間に魔力が宿るというものだが、〝犬神〟はより多くの人間を巻き込んで魔獣を生み出す呪術といえる。
そしてネイト・クロムウェルは、〝犬神〟使いとしてもかなり特異な存在であると語る。
「妾がやつに斬られたせいかは知らぬが、『斬られる』ことにずいぶん執着しておったようじゃな、ネイトの先祖は。斬られないための業、斬られても平気でいるための業、斬られることで呪をなす業――とまぁ、〝犬神〟の原型も残らぬほどに変遷していきおったわけじゃの」
「……それでも、ネイト様は犬神使いなのですか……」
「うむ。『斬られる』ことと〝犬神〟にはちょっとした共通点があるじゃろう?」
「……犬の首を斬ることかな?」
「そう。やつにとっては、やつの身体こそが犬の首なのじゃな」
その言葉でレイフィアとヴィーラは得心する。
専門外の分野であろうとも、二人はアーデルハイドの側近を務めるほどの呪術師であるために理解は容易かった。
「身を斬られることも厭わぬ、否、身を斬られてこそ本領を発揮するのがあやつよ。あやつの血肉こそが魔獣であり、魔獣が斬られたあやつの血肉となるのだ。〝魔獣憑依〟のクロムウェル――剣士殺しにはうってつけであろう?」
アーデルハイトは血のしたたる牛肉を噛みちぎり、笑った。
***
息詰まる逃走の真っ只中、カイネは短い攻防から相手の意図を読み取った。
黒犬の群れは馬車への攻撃を継続中。
巨躯の魔狼を駆るネイトは付かず離れずの距離を保ち、いつでも剣を抜ける構えからあの糸のように細い目が馬車の後部を睨んでいる。
馬車の速度が多少緩んでも、黒犬が中に飛び込んでくることはなかった。あくまで脚を潰すことに心血を注ごうというのだ。
そして今、移動手段が無くなった時に最も困るのが誰かといえば――
「ジョッシュ、あやつの狙いはおまえさんらしい。気を引き締めよ」
「あァ!? 俺か!? 俺なんざ捕まえてどうしようってんだよ!?」
「怨恨にどうしたもこうしたも無かろうさ!」
「災難ですなジョッシュ殿――せめて加勢は致そうぞ!」
アーガストは絶え間なく詠唱をつむぎ、カイネは慣れぬ〝筒〟を掲げて引き金を引く。ジョッシュには一角馬の制御に集中してもらうためだ。
しかし多勢に無勢、持ち前の動体視力でコツを掴んでもカイネの射撃程度では埒が明かぬ。
カイネは幽体投射筒をジョッシュに突き返しながら言った。
「おれはここらで降りる。よいか、止まるでないぞ」
「……置いてけってのか?」
「ジョッシュ、もし……もしおまえさんが死んだ時こやつらはどうなる?」
カイネは二頭の一角馬を横目に見る。
ジョッシュは魔術師であり、その中でも魔獣使いに当てはまる。彼の制御を失った時、一角馬はどうなるか。
「……一概には言えないが、人間の言うことは聞かねぇだろうな。縄を解いたらまず逃げるだろうよ」
「同じことよ。あやつを仕留めればこの犬ころどももおそらくは足を止めるであろう?」
「賭けに出るってわけか」
賭け――そう、賭けだ。
カイネが早期にネイトを討ち果たせる保証はなく、それまでジョッシュが凌ぎきれるかも未知数。あるいはネイトの呪術がジョッシュのような魔獣使いとは大きく異なっている可能性もある。
だが、このままではじわじわと追い詰められていくこともまた事実。
「……つまりだ、私が長いこと食い止めればその分の猶予が生まれるということだね?」
「頼めるかの」
アーガストは詠唱の切れ間を縫って目配せする。
カイネの問いに、彼は振り返る間もなく「任せたまえ」と断言した。
「どうしてもやるってんだな?」
「やつらはおれなぞ意にも介さぬはず。おまえさんらは一目散に逃げよ」
「……だそうだ、アーガスト殿。そのつもりで頼んますよ」
「ジョッシュ殿も応戦の準備をしておいた方が良いだろう。いざとなれば籠城戦もできぬことではありますまい」
「城っつゥには頼りないがね……っておい、そっからかッ!?」
カイネは馬車の扉を開いて身を乗り出す。足場ぎりぎりから扉の天辺を伝ってあっさりと屋根上に飛び移り、見下ろす視点からネイト・クロムウェルを捕捉する。
馬車は速度を一切落としておらず、背中から吹き付ける風に魔術学院制服のスカートがはためく。激しく揺れる屋根上に平気で立っていられるのは、その常軌を逸した平衡感覚がゆえか。
カイネは魔犬の群れをぐるりと見渡して言った。
「こやつらの動きが止まったら迎えをくれるかの。脚で追いつくにはちとつらい」
「……こんなところで手ぇ引けるわきゃねェんだ。いらねぇっつっても迎えに行くからな」
ジョッシュの表情は焦りが色濃く、それゆえに切実そうにも見えた。
少女の白くちいさな指が、腰に帯びた黒月の柄尻に絡む。
「そいつはありがたいことよ――しからば、ちょいと行ってくるかの」
カイネは微笑し、散歩にでも出向くような気軽さで屋根を蹴った。
す、と羽が舞い落ちるように軽く地に降り立つ。
魔犬の群れの真っ只中――カイネを無視するであろうという予測は外れていた。魔犬どものうち二匹がカイネを進行方向上の障害物とでも見なしたのか、鋭利な牙を剥いて左右から食らいつこうとする。
「退け」
カイネは一匹の顎からするりと逃れながら前に出て、もう一匹の魔犬を足蹴にして加速する。
魔狼を駆るネイト・クロムウェルはすでに目と鼻の先。
「――――大胆な」
ネイトは騎乗したまま薄目を開け、しかし魔狼は疾走を止めない。全長八尺はあろうかという巨躯をもって少女を踏み潰さんと迫る。
「降りてもらうぞ」
交錯の一瞬。
踏み込みと共にちいさな掌が閃いた。
銀の刃が音もなく鞘走る。
カイネは刃を返しながら魔狼の前方を横切るようにするりと抜け、脇から後方へ駆けていく魔狼を見送る。
残心。
後ろを振り返れば、ちょうどカイネの方を見返っていたネイトと目が合った。
「……他愛もない。あの間合いから衝突を避けるとは見事な業前ですが、それだけのこと。魂のともなわぬまがい物では――」
「前を見たほうがよいぞ」
カイネは小走りで後を追いながらうそぶく。
ネイトは怪訝そうに前を見て、唖然とした。
魔狼の首が一寸ずれていた。
ずれは一瞬ごとに大きくなり、三秒後に首が落ちた。
死後も動いていた四足がもつれて横倒しに倒れ込む。
ネイトは前方に勢い良く投げ出され、盛大に土埃を立てながら地を滑った。




