六/二人の夜
「なんでこの時間に」
「いやお恥ずかしながら、カイネ殿が学院を発たれたと聞いたのがつい先ほどでありまして」
窓ガラス越しのくぐもった声。
クラリーネは窓の外のシャロンにいぶかしげな目を向ける。
「そう。数日の間だけと聞いている」
「となると、リーネは今部屋にひとりなのでありますよね?」
「そうだけれど」
どうしてそんなことを聞くの、とは言わなかった。彼女への警戒心が露呈してしまうかもしれない。
シャロンはガラス越しにぱっと花開くように笑った。
「そこで考えがあるのでありますが」
「なに」
「私とネレムの部屋にいらっしゃるのはどうでありましょう」
「どうしてそうなるの」
「リーネひとりでは心細く思われるのではありませぬか?」
「子ども扱いはしないでって言ったはず」
「そういうつもりでは無いのでありますが……まだこちらに来てから幾ばくも経っておらぬでおりましょう」
「それは……うん、それはそう」
新しい環境に多少慣れてはきたものの、まだ一ヶ月と経っていないことは事実である。
それにしても、シャロンがこれほど自分を気にかけてくれるのはどうしたことか。共通の恩人を通じて知り合ったよしみではあるが、ここまで来るとクラリーネの警戒心も募らざるをえない。
当初クラリーネが案じたのはカイネの身であったが、シャロンはこちらにも相当積極的だ。同じ十二使徒という出自ゆえに注意を払っているのか、これは自分の単なる思い上がりに過ぎないか……。
「そこで! 空きのある私たちの寮の部屋に寝泊まりされてはいかがかと」
「ネレムさんの意見はどーしたの」
「もうとっくに寝てるであります。夜が早い性分でありますから」
「……シャロンさんが退屈してただけなんじゃあ」
「それも多少あると言えなくもないところでありますな!」
「堂々と言わないで」
物怖じせず胸を張るシャロンを観察しながらクラリーネは考える。
安全面の話をするならばクラリーネひとりでも一向に問題はない。むしろ誰かと寝泊まりする方が身の危険を感じるくらいだ。
しかしながら、シャロンに警戒を払うことを考えれば彼女と寝泊まりをともにするという選択肢は悪くないようにも思える。
「……この部屋を空けていいのかな」
「何か貴重品でも置いてあるのでありますか?」
「それは、特に、ないけど」
「なら大丈夫でありますよ! 先生とかも一緒にいたほうが都合がいいというでありましょうから!」
実際にどう話を通すかはシャロンに考えがあるようなので任せることにする。
クラリーネは「今日はもう遅いから」と、明日から一時的に部屋を移る意を示した。
「うむっ、では明日のうちに話を通しておくであります!」
「……そういえば、どうしてそこで話してるの」
クラリーネはふと思い浮かんだ疑問を口にする。
話をするにしても真っすぐ部屋に来れば良さそうなものではないか。わざわざ別口から近づいて警戒度を高めさせることもあるまいに。
「いやー、それが……研究棟の入り口はとっくに閉まっていたものでありまして……」
「明日話せばよかったのに」
「……それもそうでありますな。いやつい、寝付けなかったところに良い考えが降ってきたものでありますから」
「そう……」
普通なら不自然に感じるところだが、彼女の人柄を鑑みると真実味が出てくるのでどうにも判断に困る。
シャロンはふと眉を垂らして囁くように言った。
「それとひとつ、お願いがあるのでありますが」
「なに」
「少し中に入れてもらえないでありますか。今夜は思ったより冷えてたもので……」
捨てられた子犬の目とはこのような目を言うのであろうか。
クラリーネは窓越しのシャロンを数瞬見つめ、窓をそっと開けてやる。
これはほだされたわけではない。万全の警戒態勢を整えた上での誘引策である――クラリーネの心の中のつぶやき。
「これはありがたいであります……では、失礼して」
シャロンはそろそろと頭を下げ、窓枠の内側を器用にくぐる。
彼女は部屋の中に脚を踏み入れるとなにが楽しいのかにっこりと微笑み、「お邪魔するであります」と優雅に一礼した。
クラリーネは窓を閉じ直し、部屋のソファを指して言う。
「座ってて。毛布置いてある」
「では、お言葉に甘えて……」
「お茶でも淹れる」
「あいや、そこまでお世話になるわけにはいかないであります。ちょっと休ませてもらえたらそれで――」
「いいから」
クラリーネは沸かしたお湯がまだ残っていたことを思い出し、妙案を考えついていた。
シャロンは果たして自分にどれくらい警戒を払っているか――それを手っ取り早く確かめるための方法。
クラリーネは部屋に取り置いてある薬草をいくつか取ってすり潰し、その成分をお湯に溶かし込んでいく。
人体に異常を催すような調合では決して無い。身体の弛緩と体温の向上を誘い、多少の入眠効果を持たせた薬草茶だ。
シャロンはどこかそわそわと落ち着かないようにお茶を淹れるクラリーネを見守っている。
何か怪しいことをしているのではないか、とやはり気にしているのだろうか――
「できましたよ」
クラリーネはお皿に乗せたカップをテーブルに運ぶ。
シャロンは一瞬笑みをほころばせ、おやというように目を丸くした。
「リーネのぶんは良いのでありますか?」
「お湯の残りがそれだけだったから」
やはり警戒するかと思う。だが、クラリーネの返事にも嘘はない。
「なんだか悪いでありますが……では、ありがたくいただくであります」
シャロンは特に臆さずカップを手に取り、ゆっくりと傾けた。
こく、こくっと喉を鳴らして三分の一くらいを一気に飲み干す。喉が渇いていたのかもしれない。
「……これは温まるでありますなぁ」
「よかった」
クラリーネは若干拍子抜けする。シャロンの反応に依然として無邪気であり、警戒心も皆無に見えたからだ。
彼女はほぉっと穏やかなため息をつき、またカップに口をつける。
クラリーネがちょうど向かい側の椅子に腰掛けると、シャロンはぱちぱちと目を瞬かせた。
「……むむ。リーネのその丸いの、そんな羽みたいの生えてたでありますか?」
「形を変えられるの」
やはり目敏い――クラリーネは銀色の球体を膝の上に抱え、端的に応じる。
クラリーネはこれをを肌身離さず持ち歩いており、他の魔術師たちからはそれが彼女の〝杖〟なのだと認識されている。
しかしそれが実際に形を変えるところを目にしたのは、カイネを除いて彼女が初めてであった。
「ほほう。なんでもでありますか?」
「……なんでもは無理。色を変えるのが難しいから」
「なるほどー。人の形にしたりするのは難しいのでありますなぁ」
「興味があるの」
クラリーネはすぅっと目を細める。
人の形、という言葉は特に気になるところであった。
ルーンシュタット家の記録を読み解いた限りでは、アースワーズ家がどのような呪術を修めているかという全貌を探ることはできなかったが、その片鱗程度ならばちらほらと垣間見えたのだ。
キーワードは類似。相似。模造。
例えば対象の髪や血液を取り込んだ人形を制作し、その人形を傷つけることで対象にも傷を与える呪術。
アースワーズ家のやろうとしていたことは、すなわちこれの発展系ではないかと類推できる。百年以上も遡る記録を頼りにした推測のため、現在のアースワーズ家がどうかは定かではないが。
「興味がある、というか……ちょっと昔、気がかりなことがあったのであります」
「わけあり?」
「……少し、リーネに話していいのかは困るところでありますな」
「口外はしない」
シャロンは少し困ったように微笑み、またお茶を一口すする。
果たして何を言わんとしているのか――クラリーネの瞳がますます細められる。
「…………いや、やっぱり、やめておくであります」
「どうして」
「人んちのお家騒動なんぞ、聞いても気に病むばかりでありましょう?」
クラリーネはぴくっと眉をひそめる。
アースワーズ家はいわゆる内紛状態にあるということか。すなわち十二使徒として暗躍するという目的よりは、単に身を隠すため学院に潜んでいるということか。
「慣れてる。私の家もごたごたがあったばかりだから」
「それは災難でありましたなぁ。ということは、今も?」
「私のほうは、カイネさんが片付けていったから」
私の話はいいってのに――クラリーネは内心ため息をつくが、シャロンの口は存外に硬そうだ。あまりしつこく問いただすのもかえって不自然に思われるだろう。
シャロンはカイネの名を聞き、くすくすとかすかな笑みを漏らした。
「なにがおかしいの」
「……あいや、リーネを笑ったわけではないのであります。カイネ殿は、なんというか……ご自分の呪いを解こうとしているはずなのに、人の呪いばかりを解いているようでありますなぁ、と」
「……そうかも」
人の世のしがらみを〝呪い〟と称するのは詩的表現が過ぎようが、それらを片付けていく一方でカイネ自身の問題は遅々として前進しないのはなんともはや。
クラリーネもなんとか力添えしたいのはやまやまだが、呪いを解く術が無いのはどうしようもなかった。
なんの変哲もない鎧を〝呪働甲冑〟と化さしめた力こそ、ルーンシュタットの業である。だがその逆――クラリーネの手の中に納まっている銀色の球体をただの鎧に戻す方法は、まだ発見されていないのだ。
「……強くなりたいでありますなぁ。カイネ殿のように何者にも縛られず、戒められず、絡め取られず……何者にもわずらわせられることのないくらいに、強く……」
シャロンのうろごとのようなつぶやき。
クラリーネは彼女の魔術がどのようなものかを先日の実験で目にしていた。白兵武器の大量具現化と大量投射という、全く呪術師らしからぬ戦闘方法。まるで前時代的な貴族同士の決闘を、魔術という領域にそのまま持ち込んだような力ずくの荒業だ。
クラリーネはそれをある種の偽装とも見なせると考えていたが、
――――本格的に、シャロン・アースワーズという女のことが、なんにもわからなくなってきた。
「……あー……なんか、ねむくなってきたであります……ふぁ……」
シャロンはクラリーネの見ている前で大あくびをかまし、彼女は逆にびっくりする。
なんという無防備さ。おそらく薬草茶のことになど思いも及んでいないのではないか。シャロンはそのままうとうとしながらカップを空にして、ことんとお皿の上に置き直す。
「……ごちそうさまであります……たいへんおいしかったであります」
「おそまつさま。……どうする?」
「寮に、もどるであります。もうよるも……ふぁあ……」
大きなあくび二回目。
シャロンの瞼がゆるやかに落ち、はっと大きく目を見開き、それを三回ほど繰り返す。
「シャロンさん? ……シャロン?」
「……よるも、おそいでありますから……しつれい、するでありま……す……」
シャロンは足腰のおぼつかない様子で立ち上がり、突っ立ったまま目をつむり、ソファにばったりと倒れ込んだ。
「……おやすみ、なひゃ……ぐぅ」
クラリーネは若干唖然としつつ立ち上がり、ソファの周りをぐるぐると歩き回る。四方八方からシャロンの様子を観察する。
彼女はすぅすぅと穏やかに寝息を立てて眠っていた。クラリーネが頬を突っつき回しても、背筋をそっとなぞっても目を覚まさなかった。
完膚無きまでの熟睡だった。
「……ほんとにねやがった」
アースワーズ家が後継者争いの渦中であるとすれば、よくもここまで生き延びられたものだ――
クラリーネはため息をついてシャロンをベッドまで引きずっていった。
彼女はとうとう朝まで目を覚まさなかった。




