エピローグ
眼を開けると、冷たく白い天井が見えた。
消毒液のツンとする臭いで賽は意識を取り戻した。
身体中が倦怠感と鈍い痛みに占拠されている。身体を動かそうとするが、各所にギブスを嵌められているのかぎこちなくしか動かない。
規則的に鳴っている電子音は、脈拍を示す計器の音だ。
花瓶の割れる音がしたので音のした方向をみると、女性の看護師が部屋の出入口でこちらを凝視したまま立ち尽くしていた。
「先生!」
悲鳴のような声を上げ、看護師は部屋を逃げるように走り去った。
「……なんなんだ」
賽は右手で口元の酸素供給器を外し、嘆息した。
医師が言うには、賽は飛行機事故に遭った後、一ヶ月にも及ぶ昏睡状態だったらしい。連絡を受けた母が声を上げて泣くのを、賽は他人事のように眺めていた。
事故前に動くことのなかった右手が今動いているのは、身体全体が危機に陥ったことにより、通常よりも速く回復したのだろうと医者は言う。
逆に言うなら、確たる根拠はないということだった。
意識を取り戻してから、順調に賽の身体は回復していった。
たった一つだけ懸念があり、それは脳に微細な損傷が認められたことだ。過去の事故で負った傷が発覚したものだったが検査の結果、日常生活に関わるほどの影響はなかった。
もしかして、この脳の損傷が賽やベルラベッダの記憶をオリゲネスが奪えなかった原因なのではないか、と一人病室のベッドで賽は考えていた。
ゲヘナにおける賽の記憶は、ほぼ失われていなかった。
ただ、自分でそれを確認することは不可能だと賽は思った。巧妙に記憶を操れば、記憶が失った事実すら認識することもないのだろうから。
エティオは無事に帰ることができたのだろうか。ベルラベッダや城塞都市の住人も。今の賽にはそれを確かめる術はない。
賽が目を覚ますまでに、世間では様々なことが起きていた。
第一に、父が亡くなっていた。原因は、居眠り運転による自損事故。遺族たちは悲しみながらもよくある死因だと納得することもできたが、しかし死因には疑いがあった。
その日、父は車に不倫相手を同乗させていた。生き残った不倫相手が言うには、いきなり意識を失ってしまったらしい。
人がいきなり意識を失う事件は同時多発的に起きていた。事件と呼ぶからにはそれは作為的なもので、事件現場に共通していたのはその場に銀灯花が残されていたことだ。
賽の乗っていた飛行機も例外ではなかった。
銀灯花による集団昏睡事件は日本中に広がっていた。調査の結果、一人の科学者が容疑者として浮かび上がった。しかし科学者は既に同様の事件で亡くなっており、被疑者死亡のまま捜査は続けられた。
昏睡をもたらすのは研究ノ副産物による突然変異の花で、その花が出す花粉は人の神経や脳にまで作用し、継続的な使用は幻覚を起こし、果てには昏睡状態に陥る。花は厳重に保管されながら研究は続けられた。花が作用する幻覚に、利用価値があったからだ。
花があまりに具体的な夢を見せ、どんな欲求もその中でなら満たすことができる。麻薬めいた効能に当初は内部において反対意見が多かったが、大義名分が付けばなし崩しに予算が付き、研究と花の品種改良は進められていった。
花の使用目的は、福祉事業だった。入院患者や身体障碍者、高齢者など、身体の不自由な人々でも夢の中ならば自在に若き日を謳歌することができる。もちろん無料と言うわけではないが、物質的なコストはほとんどかかることがない。役人たちによる理想的なビジネススキームが提案されるなかで、事件は起こった。
一輪の花が研究所から持ち出されたのだ。すぐに行方は突き止められ回収されたが、既に花は種子を撒き散らした後だった。
研究所はいつ起こるか分からぬ事件に脅え、書類は焼却、あるいは抹消され、研究所は閉鎖された。事件が発覚したのは、それから五年が経過してからだった。
被疑者死亡、責任者不在のまま事件ノ調査は終息したが、花は依然として野に放たれたままだった。
自然に解け込んだ花を絶滅させることはできなかった。人間には駆除不可能なまでに繁殖していたのだ。
そして今になって突然集団昏睡に陥った患者たちが次々と目を覚ましだしたので、警察は及び腰で原因追究に乗り出した。
しかし患者の聞き込みは夢を描くように要領を得ないものばかりで、警察は早々に捜査本部の縮小を行い、事件の自然消滅、つまり時効を待つような体たらくだった。
突然変異を引き起こした花の名前はリナリアといった。
花言葉は、幻想。
賽が見上げる空は、青かった。
病院を退院したときには、賽は大学受験を控えていた。
事故に遭ったこともあり、受験はうまくいかなかった。しかし母親にそれを責められることはなかった。
残された、たった一人の肉親なので優しくなったというわけではない。父親が死んだことで、張りつめていた糸が切れたように無関心になったのだ。
自分が父親を引きつけるための疑似餌だったという苦い実感があったが、ともあれ母親の束縛から逃れることができた賽は自由に進路を選択することができた。
賽が選択したのは、音楽大学だった。
強制されなくなったことで、賽はなぜか無性に音楽に打ち込みたくなったのだ。
あるいは、ゲヘナでの経験が賽を変えたのかもしれない。
校舎へ続く長い坂道を、脂汗をかきながら賽は登っていた。
やはり、病み上がりには堪える。が、リハビリと思えばなんということはない。膝に力を入れながら賽は身体を押し上げる。
私服の胸ポケットに銀のリナリア――銀灯花を差しているのは、半ば習慣になっていた。自分の家の花壇に咲いていたものだった。
校舎に続く坂道の脇に咲いているのは、一面の色とりどりのリナリア畑だった。
何の偶然か、花弁が皆、道のほうを向いているのに気づき、苦笑してしまう。ここはリナリアが集うのにふさわしい場所らしい。
ここに行けばエティオに逢えるのではないかという、根拠のない淡い期待が賽の胸にあった。しかし、自分はエティオの歳も知らない。期待は期待のままで終わるのが当然と言えた。
坂の上に、音色が泳ぐのを耳にした。
煌めく音色は歌だ。伴奏もなしにアリアをソロで歌っているのだ。
そして、その歌声に賽は聞き覚えがあった。
――主よ 永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光でお照らしください――。
「……エティオ」
力の限り賽は走る。坂道の先にエティオがいるという確かな予感に駆られて。