五章 ハルペルイにて
いつの間にか、雨は止んでいた。
風が強く吹くなか、賽たちの荷馬車は平原を進む。
立ち込める雲の隙間から、木漏れ日が断続的に地面を照らしていた。
遠くに見えるのは、峡谷の中にある灰色の城壁だった。城壁は所々虫食いにあったように歪な形をしていた。内側からはかすかに死臭と煙の臭いがないまぜになって漂ってきて、賽の鼻腔をくすぐった。
「着いた……のか?」
賽は自分の言葉に自信が持てなかった。
煉瓦造りの壁は上半分が消し飛ばされたように消失していて、城壁の中も同様に半壊、もしくは全壊した建物ばかりだった。おそらく無傷の建物は一つとして無いに違いない。
「ここはハルペルイ。ウロボロスの情報のあった、壊滅した街よ」
乾いた声でエティオが言った。
城門を探したが見当たらなかった。きっとウロボロスに破壊されたのだろう。進入しようと思えばどこからでも入り込むことができるくらいに城壁は隙間だらけだった。
衛兵に呼び止められたが、身分を示すと賽たちは歓迎された。
城壁の中は瓦礫で埋めつくされていた。
瓦礫を運んでいる者、燃やしている者、瓦礫を前に立ち尽くしている者。ウロボロスの襲撃に遭った人々の受け止め方は様々だったが、そこには一切の感情が抜け落ちていた。きっと、感情は既に出し尽くしているのだ。
可哀想、という言葉すら生易しい圧倒的な悲嘆の前には、人は感情を失うのか。それは人の防御反応だ。そうしなければ、二度と立ち上がることができないから。
消えない染みのような絶望が人々の顔に濃い影を作っていた。
荷馬車は無言で進む。目的地は、この街を取り仕切る司教のところだ。
聖堂で司教に簡単な挨拶をした後、荷馬車に載せていた救助物資を放出する。傷薬、包帯、食糧。これらは旅の途中でシェードの鎌を売った利益によるものだ。満載だった物資はすべて捌け、そのかわりに賽たちは宿と人々の感謝を受け取ることができた。
エティオはなぜか、傷ついた市民たちの感謝に目を曇らせていた。
確かにエティオは父、デュプレクスの仇であるウロボロスを追ってこの地に来た。しかし、ウロボロスの起こしたことでエティオが気に病むのは考え過ぎなのではないか。
エティオは何やら司祭と話し込んでいる。どことなくオリゲネスに似ている司祭は、親戚か何かなのかもしれない。同席する理由はない賽は、聖堂の前で物資の荷下ろしを手伝っていた。
「では行ってくる」
レテが包帯の入った木箱を持ってぺこりと頭を下げ、挨拶してきた。
「どこに?」
「負傷者の手当てだ。一緒に来るか?」
「いいよ。僕は医者じゃないし、足手まといになる」
「それを言うなら、私も医者ではない。多少の看護の経験はあるが」
「それなら百人力さ。頑張って」
「気楽に言うな。それに奴隷には主人の護衛があるだろう」
「そうだね、忘れてた」
「……実は、奴隷には感謝しているのだ。」
「え。僕、レテに何か感謝されるようなことしたかな」
「ここまで文句ひとつ言わずについて来てくれた。私一人では、どうなっていたか分からん。わたしはずっと不安で仕方がなかった」
レテの表情に変化があった。いつもの無表情は影を潜め、うつむいた顔で瞳が心なしか潤んでいる。
「……長旅だったもんな。僕も、レテがいなければダメだったかもしれない」
近づいてきたレテが、木箱を取り落した。何事かと思う間もなく、レテの顔が賽の近くにあった。
賽の頬に、一瞬だけレテの唇が触れた。
「これは礼だ」
レテは赤くなった顔を隠すように木箱を拾い上げ、脱兎のごとく賽に背を向けて行ってしまった。
「……なんなんだ」
レテの唇が触れた頬をさする。妙に熱いのは気のせいだろうか。
レテのキスは不意打ち同然で、意外だった。
エティオやベルラベッダなら、多少は好意の予兆を感じるところはあったので賽も驚くことはなかったはずだ。
自分のことを殊更奴隷というレテにそんな感情があるとは思わなかった。
それとも、キスを取引につかえるほどレテは達観した思考の持ち主なのか。
賽は自分の感情を整理しようと空を眺めていたが、とりとめのない思考は雲のように散り散りになるだけだった。
「よう色男。追わなくてもいいのか?」
賽が振り返ると、そこには奏士と思わしき男が立っていた。
男の背は高い。つばの広い帽子に、黒皮で出来た軽鎧を身に着けている。さらに首にぶら下げている金属の板は指揮者の証であるゴルゲットだ。身なりから察するに、男は地元の奏士を束ねている立場のようだった。
レテとのやりとりを見られていたことに腹が立つが、ここは街中だった。文句が言える筋合いはない。それでも賽は不機嫌を隠す余裕もなく、男に向き直った。
「何か用ですか」
「そんなところで突っ立っている暇があるなら、手伝えと言っているんだ」
苛立ちを滲ませるように男が顎をしゃくる。その方向には壊れた街の城壁があった。
だからといって、手伝う理由が賽には思い浮かばない。何もしていないのは癪に障るから城壁の補修でもしろと言っているのか。何よりも、赤の他人に顎で使われるほど賽は卑屈な性格ではなかった。
「僕たちはウロボロスの討伐にやってきたんですよ。救援物資まで持ってきた。城壁を直すためじゃない」
「傭兵か? 登録はどうした」
「ボランティアですよ」
「酔狂な奴だ。進んで命をウロボロスに差し出すというのなら、今のうちに命の洗濯をしておけと言いたいところだが。だがな」
突如として旋風が男の両脇から襲い掛かる。挟まれる形になることを一瞬で知覚し、賽は大きく飛びのいて躱す。
賽の足元で土煙が舞い、風にさらわれた。その向こうで男は抜刀していた。
「やるじゃないか、坊主」
「……二刀流?」
男は二刀流だった。両手に絃刀を持っているが、刃先がない。確かに奏力がなくとも絃刀はある程度の殺傷力があるが、なぜこんな真似をするのか。
「驚くのは場数を踏んでいない証拠だ!」
言うが早いか男が斬りかかってきた。間合いが遠いが既に絃刀は目の前にあり、賽はとっさに構えた音叉剣の光刃で男の刃のない絃刀を受け止める。木刀を叩きつけられたような衝撃が走った瞬間、すでに男が視界から消えていた。
「な」
確認する間もなく、懐に入り込んできた男が賽の腹部をハンマーのように蹴り上げる。吹き飛ばされた賽は転がりながら体勢を立て直した。
追い打ちをかけようと、男が姿勢を低くして駆けてくるのが見えた。
「……舐めるな!」
賽が音叉剣に奏力を込め、刃先を伸ばす。
「……!」
男が足を止め、息を飲むのが聞こえた。
賽は音叉剣の刃先を連続で、銃弾のように射出したのだ。音叉剣の刃先が乱れ撃ちで男に迫る。男が刃先を避け、避けきれないものは絃刀で防ぐ。しかし負荷に耐え切れなくなったのか、男の絃刀の一振りが音を立てて砕け散った。
「なにやってるの!」
とてつもない大声がその場に響き渡った。騒ぎを聞きつけた人々によって周囲の空気が揺れるなか、エティオが賽と男の間に割って入る。
「お嬢様」エティオを認めると即座に男が跪いた。
「再会の挨拶がこれとは、先が思いやられるわ」
「申し訳ございません。不審な男を見咎めたところ、抜刀しましたので。この男に面識がおありですかな」
先に抜刀したのは男のはずなのだが。男はエティオを前に一点の曇りもない表情で、切実に訴えていた。こいつは剣よりも口のほうが立つのかもしれない。
しかし男の話を聞いていたエティオは不愉快そうに目を閉じ、額に手を当てた。
「クアイソ、嘘を吐くのはよくないわ。サイは見知らぬ人にいきなり斬りかかるような人間じゃない」
「……すべて御見通しでしたか。お嬢様の慧眼、恐れ入ります」
「彼が今回の秘密兵器よ。よろしく頼むわね、クアイソ」
この人がクアイソなのか。聞いていた印象とはずいぶん違う。
「サイ、彼はクアイソ。傭兵たちの指揮者よ。あたしの協力をしてもらってるわ」
「よろしくな、坊主」
「……どうも」
クアイソから差し出された手を賽が握り返す。使い込まれた皮手袋の感触がした。
「お嬢様、作戦会議と今後の予定を立てたいのですが、お時間は」
「すぐに。敵は待っちゃくれないわ」
会議は城壁前にある広場で行われた。
かつてこの場所は商人たちが絨毯と商品を広げるバザーが行われた場所だったらしい。しかし今では広場には倒壊した建物の瓦礫がうず高く積まれていた。
一同の前には崩れかけた城壁があり、城壁に張られた広大なタペストリーにはこの周辺の地図が描かれていた。
会議でのエティオは髪の色と同じく真紅のドレスに身を包み、堂々としたものだ。逐次クアイソに状況を尋ねるがクアイソは淀みない口調で応え、槍で地図を指し示している。
クアイソはまるでエティオの執事のようだった。
会議に参加する賽は、傭兵たちに囲まれている自分だけが場違いな存在に思えた。
しかしエティオが言うには、賽の存在が無くてはこの作戦は失敗に終わるらしい。エティオの言葉で傭兵たちの視線が一斉に賽に集中する。賽は何も言うことができずに縮こまってしまう。
エティオと目が合うと、賽に向かってウインクするのが見えた。
会議に参加する傭兵たちはみな自前の奏器を持っていて、その気になれば大演奏会を催すことさえできそうだ。しかし彼らが演奏する客は人ではない。
どうやって客であるウロボロスに、効果的に演奏を聴かせることができるか。演奏はウロボロスの死によって終結する、これは戦略会議だった。
いまのハルペルイの街の惨状はウロボロスが作り出したものであり、ウロボロスはこの街を襲撃する際に傭兵団の抵抗に遭っていた。時間的には賽たちがここに到着するより少し前になる。地図の上でウロボロスの襲撃を予測したのはエティオで、迎撃の任に就いたのはクアイソだった。
「最初の戦いで仕留めれればよかったのですが」
クアイソが苦渋の表情を浮かべていた。
それでも傭兵団の抵抗は多少なりともウロボロスに痛手を与えたらしく、傷ついたウロボロスは傷の癒えるのを待つためなのか、近くの鉱山に身を隠していた。
鉱山では鉄鉱石が採れ、かつてハルペルイの基幹産業になっていた。採取量が落ちてゆくにつれて採算が取れなくなり、鉱山に入る者が少なくなるに従って無人の坑道が増え、そこにはシェードの影がちらつくようになっていった。
治安の悪化により、今では鉱山に立ち入る者は皆無と言っていい。巻き添えを食うものなどいない、エティオと傭兵たちにとって理想的な戦場だった。
会議が終わるころには、すでに空は夕闇に覆われていた。
エティオによると、自分たちの今夜の宿は司教の手配により聖堂のなかで過ごすことを許されたらしい。しかし聖堂の中は怪我人で溢れ、外には傭兵たちが野営している。身の置き場がない賽は、今度こそ荷馬車の中で夜を明かそうと聖堂を出た。
それに、レテにどんな顔をして会えばいいか分からなかった。意外と自分は流されやすいのだな、と賽は自嘲する。
遠くで傭兵たちが瓦礫を焚火に囲んで、飲み、騒ぎ、躍り、歌っている。彼らの野太い歌声は、死への恐怖を紛らわせているのではない。
真に、今を楽しんでいる歌声だ。あるいは、内にある迷いや悩みを吹き飛ばす歌声。
逃避とは違う。彼らは彼らの役割やしがらみ、大袈裟に言うなら運命と向き合ったうえで笑い、歌えるのだ。
そのなかにはクアイソもいた。
「ん」
クアイソと目が合ってしまった。「おい、坊主!」と呼び止める声を振り切って、逃げた賽は幌を張った馬車の荷台に転がり込む。
「……なんだってんだ」
苛立ちを口中に呟きながら毛布にくるまると、自分がひどく情けない存在に思えた。
「邪魔するぞ」
いきなり声がして、賽の返事を待つことなく荷物を持ったレテが荷台に上がり込んできた。
「ええ? 何でこっちに来たんだよ」
「おまえと同じ理由だ。避難民の寝床も足りないのに、わたしが向こうで寝るわけにはいかない」
「向こうは? エティオの世話は大丈夫なの?」
「大丈夫だ、お嬢が目を覚ます前にここを出る。屋敷でいつもやっているからな」
「……」
自分と同じ理由、と言われては賽もここを追い出すわけにはいかない。街のなかは安全かもしれないが、女の子に屋根もない場所で寝ろというのは酷過ぎる。だからといって自分が出て行くのも嫌だった。
「……レテ、何してるの?」
レテが持ってきた荷物をバザーのように荷台の床に並べていた。荷物は食料で、包みを開くと同時に食欲をそそる芳香が幌の中を満たした。
賽の胃が悲鳴を上げるようにきゅう、と鳴った。
「どうせ食事もまだだろう。奴隷は要領が悪いからな」
「食事、レテは?」
「いい。もう済ませてきた」
「……食べていいの?」
レテが首を縦に振ると、賽はレテの気が変わる前に食事を手に取り、次々に頬張った。
「これはなんていう料理?」
「キッシュだ。そう言えば屋敷では作ってなかったな」
柔らかなパイ生地の上に乗っているのは、グラタンのような滑らかなソースだ。濃厚な味が口の中に広がり、熱さも忘れて舌鼓を打つ。
「サクサクとした衣と中の濃厚な風味。これは?」
「子牛のレバーのフライだ。新鮮なものはうまいぞ」
「この甘い匂いのパンは?」
「ローズマリーで香りづけしている。聞くのはいいからとっとと食え」
一気に目覚めた賽の食欲は、レテの持ってきた食料をものの数分で完食していた。
「ありがとう、人心地がついたよ」
「いい。さて、寝るぞ」
レテは幌の中をきょろきょろしたかと思えば、「……何もないな」と呟き、おもむろに床にうつ伏せに倒れこんだ。
そのまま動かない。
「……そのまま寝るつもり?」
「毛布を忘れた」
「ならそう言いなよ」
賽は自分の毛布を手渡した。レテはしばらく毛布を羽織ってうずくまっていたが、居心地悪そうにこちらを見ている。
「出て行けって? 僕も屋根のある場所でないと落ち着かない、それに一緒にここで寝るのは野営のときにいつも」
「……違う」
レテがちょこんと賽の前に座ると、毛布を賽の背中にかけた。賽はレテを背中から抱える格好になる。
「このほうが温かい」
「……レテがいいなら、それでいいけどさ」
小柄なレテの背中が賽の中にすっぽり収まり、レテの体温と花のような香りが伝わってくる。同時に数時間前にキスされたことを思い出し、顔が熱くなった。
「……どうして、キスなんかしたんだよ」
「嫌だったか?」
「ううん。ただ、驚いた。そんな風に見てなかったから。レテのこと」
「私もだ。おまえのことは、ただのお嬢を狙う悪い男としか見ていなかった」
今は違う、ということだろうか。
「……僕みたいな奴が、僕が来る前にもエティオのそばにいたの?」
「何回か。でも、そいつらはろくな奴ではなかった。お嬢が金持ちだと知ると足元を見たり、金を持ち出して突然いなくなったり。なかには手籠めにしようと狼藉をはたらいた奴さえいる」
「……!」
「心配なのか、お嬢のことが」賽の表情を読んだのかレテが振り返り、大きな目を細めて笑った。
「お嬢は強い。なんといっても歌、唱術は異邦人のなかでも滅多に発現する者がいない。お嬢の歌はそのまま武器になる。どんな状況でも、奏士に後れを取ることはありえない」
「……そうか、よかった」
「お、安心したな。ちなみにお嬢は処女らしいぞ。本人が言っていたから間違いない。私も処女だ」
「そ、そんなお役立ち情報はいらないよ!」
どぎまぎしている賽の反応を楽しんでいるのか、もう一度レテが笑った。
これはまずい。密着状態で、レテにはキスまでされている。確かにレテは魅力的だ、甲斐甲斐しく周囲の世話をできるような女の子は、ありえないツルペタも含めて希少価値だ。
しかし、突然の好意に流されていいのだろうか。身体が石化したように微動だにしない賽に、いきなりレテが背中から体重を押し付けてきた。
「……奴隷の身体は暖かいな。暖炉みたいだ」
「間違って火にくべないでくれよ」
「それは名案だ。薪を切らしたらそうしてみよう」
「薪は僕が用意するよ。力仕事は男のものだし」
「助かる。おまえのような奴隷が来てくれて、本当によかった」
「この世界にも、冬はあるの?」
「この世界には夏も冬もある。過ごし方はその時に教えよう」
とりとめのない話が続く。賽はこの世界に来たばかりで、楽しむということを知らずにいた。それどころではなかったからだ。
しかし、どんな環境でも人間というものはしぶとく娯楽を見出すらしい。
賽はどんなにつまらない娯楽でも、エティオやレテと過ごすことができるのなら楽しいものになるに違いないと思った。
話してゆくうちにレテの口数がだんだん少なくなり、それに応じて賽の質問も途切れがちになる。気が付くと、レテが賽に背中を預けたまま寝入っていた。
レテが眠ったことを見届けると安心したのか、賽もいつの間にか寝ていた。
朝になって賽が目を覚ますと、レテの姿はなかった。
その場にはレテの残り香があるだけだった。
廃坑までは、馬でおよそ半日の距離だった。
鬱蒼と茂る森が行く手を阻み、枝を切り払いながら賽たちは馬を進める。かつて鉱山があったことにより、馬車の進むことができる道があるのはありがたかった。
クアイソたちの調べによると廃坑の規模は広く、双山にまたがる。天を突かんばかりの鋭さで、茶褐色の岩山が賽たちの前にそそり立っていた。
「……ここに」
ここにウロボロスがいるのか。賽は荷馬車の御者席で唾を飲み込んだ。
遠目に見るだけでも、山の表面には無数の坑道がまるで虫食いのように穿かれている。賽は坑道のなかでも最も大きく口を開いている箇所の手前にある、本陣にいた。
本陣の戦列にはフルート、トランペット、パーカッション、オーボエ、ホルン等、様々な奏器を構えた奏士たちが整然と立ち並んでいた。彼らの奏器の筒先は、例外なく鉱山の方向を向いている。
本陣の役割は、おびき出されてきたシェードを残らず殲滅することだった。
それは賽の役割でもある。
既に坑道には先発隊が向かっていた。
山頂付近から地響きと共に何かを叩く音が聞こえる。太鼓だろうか。山頂を見ると、奏士隊の旗が掲げられているのが見える。
「……ティンパニーの音?」
見間違えようがない。あれは洋太鼓、ティンパニーの音だ。地響きのように打ち鳴らされる音は山肌を伝ってこちらまで振動が届いていた。振動は山の内部に響いていることだろう。奏器の音は、シェードたちを巣から誘き出す手段になる。
揺さぶりをかけているのだろうか。今さらながらこんな音がシェードたちに痛手を与えることができるのかと思ったが、動き始めた状況は止めようがない。
坑道の中はどうなっているのだろう。もうシェードに、ウロボロスに遭遇したのだろうか。怪我人や、死者は出ているのか。
何もしていないのは落ち着かない。待機も仕事のうちなのだろうが、照りつける太陽がともすれば思考を奪っていきかねない。賽は努めて冷静になるように自制した。
「よう、坊主」
クアイソが賽の荷馬車の横に馬を進めてきた。
「なにか用ですか」苛立ちを加速させるような人間に近くに居られては困る。賽はクアイソを睨みつけた。
「おっと、そんな邪険にするなよ」クアイソが敵意がないことを示すように両手を上げた。
「初対面でいきなり襲いかかられたら、邪険にもなりますよ」
「そうかい、このまえは悪かった……で、気になってな」
「何がです」
気安く絡まれるような関係ではないはずだ。それとも、まだなにか文句があるのだろうか。
「そうつんけんするな。坊主、剣技の心得は?」
「……ありませんよ。あったとしても、ベルラベッダに少し習ったくらいですし。それがなにか?」
「ベルラベッダか、覚えている。立派に指揮をしているか?」
「彼女を知ってるんですか」
「ああ。俺だって、あのアンティオスにいたことがあるんだ。奏士としてな」
「……そうだったんですか」
「それでは本題だ。おまえさんが秘密兵器ってことに疑問を抱いてな」
「はあ」
「それにその音叉剣だ。使い方としてはとてもユニークだ。飛び道具として使う奴は俺が見た限り、おまえさんが初めてだ。どこで習った?」
「旅の途中で。なんとなくやったら、できたんです」
「そりゃ、たいしたもんだ。お嬢様から秘密兵器って言われるだけある」
「どうも」
エティオが言っている秘密兵器というのは、自分がこの剣を持つと爆発的な光を放つことによるものだろう。賽がそのことを話すと、クアイソは腕組みをして唸った。
「確かに、他の武器にはない。だがあえて言おう、危険すぎる」
「……危険?」
「音叉剣はそれを使う者の奏力を著しく吸い取る。お前さんがどれだけの奏力を貯蔵しているか知らんが、際限なく使っていればいずれ底が見える。最後に光の柱を出現させたのはいつだ?」
最後は、城壁の戦いだっただろうか。一撃で、巨大なシェードを消し去った。
「すげえな、それは。お嬢様が頼りにするわけだ」
「……なんで、エティオと話す時と態度が違うんです?」
「なにか変ったことでもあるか。俺は裏表ない性格って評判なんだぜ」
「どこがです」
「とにかくだ。その武器を使うのは、これで最後にしろ。そして、前線に立つことを止めるんだ」
「無理です。少なくとも、今できることじゃない」
「……そうだな。少なくとも、今はだ。おまえさんは、今やこの部隊の要と言ってもいいからな……ん?」
坑道から奏士がこちらに走ってくる。息も絶え絶えで、足跡には血が滴り落ちていた。
「伝令です!」
奏士がクアイソの前で跪いて状況を手短に伝えると、クアイソが表情を硬くしていた。なにか動きがあったらしい。馬から降り、部下を連れて坑道に走ってゆく。
「坊主はここを動くな!」
「でも怪我人がいるんでしょう!」
怪我人を運ぶ人間が一人でもいれば、助かることもあるかもしれない。なによりも、じっと待っているだけの自分に嫌気がさしていたのだ。賽はクアイソの制止を聞かずに、自分も坑道に向かって足を進めた。
坑道の中はひんやりとしていた。
「……こんなところ、入ったら逃げられないんじゃないか」
このゲヘナで、いままで賽は近代技術の類は見たことがない。文明レベルから察するに電化製品などは存在しないだろう。これだけの穴を人力で掘り出すのは、どれほどの人員と時間が必要なのだろうか。巨大な空洞は無言で賽を威圧してるように見えた。
脚の動きが自然と緩やかになっていく。見通しが悪いのもあるが、それ以上に地面の傾斜が一定しないためだ。
探るように薄暗がりの中を進む。既にクアイソたちは行ってしまったようで、その場には賽しかいない。壁面には即席の銀灯花の燭台が設置されていたが、坑道全体を照らすには程遠かった。
遠くで剣戟の音と叫び声が聞こえる。遥か上のほうから聞こえてくるティンパニーの音が天井を揺らし、少しずつではあるが小石が降り注いでいる。不安を風船のように膨らんでいくのを抑えるように、賽は進む脚を速めた。
「……なんだ?」
視界が悪く、遠くにいる奏士たちは暗闇と格闘しているように見える。奏士たちは銀灯花や松明を携行していたが、地面に取り落としていた。
敵と遭遇し、戦っているのだ。
弓を構える兵の姿があった。矢の先端にくくりつけられているのはカスタネットで、着弾と同時に閃光が炸裂する。黒い何かが苦しげに身もだえしているのが見えた。
なんだ、あれは。一瞬だけ見えたものは、およそ今まで見たシェードとは根本的に異なるものだった。
「あれが、ウロボロス」
坑道を埋め尽くすような巨体で、どうやって移動しているのだろう。全身を震わせるそいつは、ひとつの胴から枝分かれし、数えきれないほどの頭部を持った怪物だった。ウロボロス――尾を食らう蛇の名の通りの怪物。ウロボロスは寝床に踏み込まれたことに激怒しているのだろうか。暗闇の中で無数の首を蠢かせ、何百もある巨大な鎌首を一斉にもたげた。
「ぎゃっ」
異口同音に奏士たちが絶叫を上げる。彼らの多くは頸動脈を噛み千切られ、鮮血を迸らせ、即死していた。
「ひるむな!」
クアイソの檄が飛び、再び奏士たちが攻勢に転じる。攻撃によって伸びきったウロボロスの首の一部を跳ねる者、奏器で動きを鈍らせる者。勇敢な奏士たちは善戦していた。ウロボロスも身をくねらせながら全身から発する無数の蛇の頭部と鎌で奏士たちを狙い、その場は乱戦の様相を呈していた。
突然、わずかに空気が逆流する感覚を覚えた。「目と耳を塞げ!」とクアイソの声がして、賽は反射的に耳を塞ぐ。
「……!」
轟、と耳をつんざく咆哮と共に旋風が巻き起こる。瞬間、賽は足元を掬われ、身体が宙に浮いていた。坑道を逆流するように押し戻され、陽の光の下に投げ出される。
これは、殺人的なまでの音の洪水だ。
エティオが歌うのとは真逆で、常軌を逸した狂気と怨嗟に満ちた不協和音の奔流。それは鎌鼬のように賽の全身を切り刻み、見ると鎧や手甲には身の毛もよだつような深い傷跡が刻まれていた。
肉体には傷はない。賽は無傷で済んだ自分の運の良さに感謝した。これが手足の健や動脈を切断していれば、逃げることすら難しくなる。
賽のそばには多数の奏士が倒れていた。その中には既に事切れている者もいる。
「……大丈夫っ、か」
呻くように言いながら、クアイソがよろめきながら立ち上がる。
賽の足元に歪んだ金色の奏器が転がっていた。
奏器には、人の手首がついていた。
「……!」
それだけではない。その場には人体のあらゆる箇所が四散して、太陽の下で野ざらしにされていた。
もちろん、何の備えもしていなかったわけではない。兵士全員には耳栓が配られ、耳栓は有効に働いていた。しかしそれでも真正面に位置する部隊は物理的な攻撃によって例外なく負傷し、無事だった者も大半の奏士が恐慌、混乱、戦意喪失、なにかしらの被害を被っていた。
「奏砲隊!」
クアイソがよく通る声で指揮棒片手に叫ぶ。指揮棒の伝達を受け、奏砲隊は大砲のような奏器を一斉に吹き鳴らす。色のついた太い音が奔流となって坑道に吸い込まれる。圧倒的な音圧により、鉱山の表層が音を立てて揺れ、次々と亀裂が走る。と同時に坑道の奥から発せられる咆哮がこちらの攻撃すべてをかき消した。
「やばい、全然効かねえ」
誰かが恐怖のあまり呟くのが聞こえた。
闇が揺れる。地響きを立てながら、坑道から出てきたウロボロスが白日の下に姿を現した。
足元には数えきれないほどの鎌が昆虫のように忙しなく地面を苛立たしげに踏み鳴らしている。背中にはビロード状の黒く強靭な皮膚が蠢き、脚と背中の間にある本体は蹂躙された毛玉のように、無数の黒い蛇が渦を巻いていた。
黒い蛇には本来あるはずの眼球が存在しなかった。
確かにこいつは自らの尾を食らう怪物、ウロボロスの名前にふさわしい怪物だった。
蛇の大群が一斉に鎌首をもたげてこちらを向く。
「坊主!」
自分は圧倒されていたのだろうか。クアイソの声に賽はわずかに反応が遅れた。
身体を攫うようにクアイソに押し倒される。今まで賽のいた位置に蛇の大群が押し寄せ、地面を深く噛み砕いているのが見えた。
「野郎!」
クアイソが二振りの絃刀を瞬時に抜刀し、伸びきった蛇の大群をまとめて断ち切る。
「クアイソさん!」
「おまえはまだだ、下がってろ!」
とっさに自分の役割を思い出し、賽は音叉剣を振り抜くが、奏力を込めることはできない。全力で加勢したいところだが、音叉剣を使うのは今ではなかった。
群れを成して襲い来るウロボロスの動きも速かったが、クアイソはそれ以上だ。二振りの絃刀によって次々に断ち切られた蛇たちは地面でのたうちながら怨嗟の声を上げる。不気味な蛇の死骸は打ち捨てられたそばから地面に同化し、黒く粘ついた染みになって消えていく。クアイソの斬撃と同時に染みは瞬く間に増え続け、その場に黒い沼ができるほどだった。
しかしウロボロスの本体からはクアイソに斬られるよりも速く蛇の頭部が生えるようで、一向に減ったように見えない。
「こんなんじゃだめだ……!」
ではどうすればいいのか。クアイソの言う出番とやらは、本当に訪れるのか。
業を煮やしたのか、ウロボロスは無数の頭部を一斉に引き上げる。蛇の頭は一斉に身体の中心に逃げ込むように殺到し、ウロボロスは自らの頭部を中に納めてしまう。漆黒の毛玉をすぼめた形となったウロボロスは、次の攻撃を準備しているように見えた。
「いまだ、坊主!」
クアイソが叫んだ。
まさしくこの時を待っていたのだ。
無数の蛇に分裂したウロボロスは、断ち切ったところで再生能力が上回り、致命傷を与えることができないことが今までの戦いで分析、立証されていた。この無防備、かつ一撃で致命傷を与えることができる今こそが賽たちにとって唯一必殺の瞬間だった。
「うおおおお」
音叉剣を振り抜く。賽は全力で走り、その長大な白い刀身をウロボロスの身体の中心に叩きつける。
手首に衝撃。眼前で黒い何かが唸りを上げ、賽は真正面から弾き飛ばされた。
いつの間にかウロボロスがこちらに背中を向けていた。自分を攻撃してきたのは、奴の尻尾だ。
「くっ」
長大なウロボロスの尻尾が尻もちをついた賽を襲う。今度は避けようがない。スローモーションのようにその様子は克明に賽の視界を埋め尽くし、賽はウロボロスの尻尾を覆う微細な鱗の一枚ずつまで克明に見分けることができた。
「なにしてる!」
腕を掴まれ関節が外れる寸前の勢いで引っ張られる。尾てい骨から地面に叩きつけられた賽が音叉剣を再び構え直したとき、作戦は失敗してしまったことがわかった。
振り向いたウロボロスの首を収めていた中から、樹齢を重ねた大木のような太く長い首が湿った音と共に引きずり出る。
それの首は鎧のような鱗を身にまとっていて、既に蛇の範疇ではない。巨大な首には鋭角上のヒレが王冠のように頭部を囲っていて、それは賽に思いつく中でも最も強力な怪物の存在を想起させた。
「……ドラゴン」
応えるようにウロボロスは一際高い咆哮を天に向かって叫んだ。精神を完膚なきまでに破砕するようなその鳴き声は、廃坑を包囲している奏士たちの戦意を一瞬で奪い去るものだった。
坑道の入り口を占拠するウロボロスは体躯をわずかに身じろぎさせる。まるで山が動くような姿に、遠近感の狂いを引き起こさずにはいられない。
ウロボロスは背中を震わせると、大きくビロードのように滑らかな翼を広げた。
そしてもう一度咆哮を上げると同時に翼を煽る。その場にいるすべての物が突風に転がり、吹き飛ばされ、押し倒される。賽は目を瞑ってはいけないと自分に言い聞かせるが、身体の反応は止めようがない。砂埃が弱くなるまで、ただその場に伏せて嵐が過ぎゆくのを待っていた。
気が付くと、その場にはウロボロスの強烈な腐臭を放つ足跡が、まるで影のように残っていた。
上空に極小の黒い点が見える。けたたましく嗤うような奇声は、ウロボロスの鳴き声だった。
平原を駆け抜ける風が冷たい。
賽は騎乗するクアイソの後ろにしがみついていた。
クアイソの騎乗は乗り心地よりも速さを追求しているようで、賽は振り落とされないようにクアイソの腹に回した腕の力を強くした。
我ながら情けないと思う。しかし、自分が乗ってきた荷馬車は負傷した奏士を乗せるために廃坑に残していた。作戦のために一刻も早くハルペルイに急がなければならない賽は、クアイソの馬に便乗していた。
「いや参った、奴さんにあんなに早く逃げられるとは思わなかったぜ!」
「……」
「それに、何だよあいつ。昼間でも動けるじゃねえか。そんな情報はなかったってのに、ルール違反だよ。なあ、坊主?」
クアイソが同意を求めているのに対して、自分は「……すいません」と掠れるような声を出すことしかできなかった。
「なんで謝るんだ」
「だって! ……僕が、ちゃんと仕留めていれば」
「仕留めていれば、おまえさんは今頃ぽっくり逝ってるさ」
あの時クアイソに腕を引っ張られなければ、賽はウロボロスを仕留めることができていたかもしれない。
だが、それはあくまで仮定の話だ。自分が音叉剣を叩きつけるよりも先にウロボロスの尻尾に潰される方が確率としては遥かに高く、だからクアイソも賽を止めたのだろう。
結果としてウロボロスに痛手を負わせたが、仕留めることはできなかった。対する自分たちは多くの奏士を失ってしまった。
「今回は失敗しちまったが、必ず奴さんはむこうから攻めてくるはずさ。もう巣には戻れないからな。今頃、俺の部下たちが坑道に発破をかけている」
「坑道を、埋めたんですか?」
「そうだ。戻って来たところで自分の巣が使い物にならなくなっていたと知れば、あいつはどんな顔をするだろうな」
賽はウロボロスの、あのドラゴンのような攻撃的な相貌を思い出した。怒りに打ち震えたあの凶悪な顔がいったいどういう風に歪むのか。
「きっとあいつは今頃、どうやって俺たちを食らってやろうか考えているはずさ」
確かにウロボロスを仕留めることができれば僥倖と言えたが、賽たちの行動だけが作戦の全てではなかった。昼間に巣を破壊し、力を弱らせることが第一段階。
そして、来たる第二段階のために自分たちはハルペルイに急いでいたのだった。
「しかし、参ったな。もうウロボロスに対抗できる奏士を集めることができるかどうか」
「人が、いないんですか?」
「足らん。金もな」
「……」
「ウロボロスの恐怖は近辺住民に知れ渡っている。奏士を近場で雇うなら、大枚を叩かないと首を縦に振らんだろう。なにせ、命がかかってるからな。これ以上奏士を集めるなら、もっと遠くから集めんといかん。そうすれば、移動の手間や金、時間もかかる」
「……そうなんですか」
「どっかに居ねえかなあ、金持ちで気前が良くて、その上美人なスポンサーがさあ!」
「……エティオは、どうなんです」
「おっと、冗談だよ。気を悪くするな……お嬢様みたいな人は俺の好みの女じゃないんだ。俺はもっと肉厚の女のほうが好みなんだよ、その分維持費がかかるけどな」
「ずいぶんなことを言いますね」
「だってさ、お嬢様は上司の娘だぜ? 手なんか出したら、あの世の団長から迎えが来ちまう。ところで」クアイソの口調がわずかに変わった。
「サイ、おまえさんお嬢様とどういう関係だ」
「エティオから聞いていませんか? 僕は奴隷、使用人ですよ」
「……まさか犯罪かなんかやっちまって身を持ち崩したのか」
「違いますよ。この世界に来てからすぐに、捕まっちゃったんです」
「それは災難だったな。てっきり俺は、おまえさんがお嬢様の財産を狙う不届きものかと思ったよ」
「……レテみたいなこと言いますね」
逆に、エティオに近づく人間はそういった側面を持つ人間が多かったということだ。
「それともおまえさんにはなにか別の理由があるのか?」クアイソの声色が一段低くなる。
「お嬢様は大事にされなくてはならないお方だ。指一本でも触れてみろ、その指を手首ごと切り落としてやる」
どうしよう。クアイソには言えない、賽は旅の宿でエティオと同室していることや、ベッドに入りこまれて抱き枕のような扱いを受けていたことなど。
「冗談さ。お嬢様も女だ、男を囲おうなんて気まぐれを起こすこともあるだろうさ」
「……そっちですか」
これはクアイソ一流のユーモアなのだろうか。そう言えば、彼は騎乗してから冗談ばかり言っている。賽は自分が気を使われていることに初めて気が付いた。
ふたりを乗せた馬は意外なほどに速く、ハルペルイはすぐそこまで迫っていた。
「雲行きが怪しい」
空を見てクアイソが呟く。賽も空を見る。
空は夕暮れが近いがその色は茫漠とした灰色だった。低い空に垂れ込める雲は黒く、そのなかにウロボロスが潜んでいるのではないかと思えるほどに不吉な色をしていた。
城壁がみるみるうちに賽の視界に迫ってくる。城壁を守る奏士たちはクアイソの馬を認めると向こうから柵を退かせてくれた。そのまま城壁を抜け、都市を駆ける。
都市に入ってから、賽は違和感を覚えた。最初はわずかなものだったが、街を進むほどにその違和感は増大してゆく一方だった。
「おかしい」
生活の匂いはそのままなのに、人の気配がしないのだ。以前として竈の火は燃え、煙突からは煙が立ち上っているというのに。
まるで、いきなり人だけが残さず消え失せてしまったようだった。
聖堂に着くと、馬を下りたクアイソは早足で中に進む。聖堂自体も以前のウロボロスの襲撃のせいか、装飾や壁が所々剥がれ落ちていた。
なによりも妙だと思ったのは、本来あったはずの聖堂の屋根が無くなっていることだった。だから聖堂の中に入っても、空は依然として賽の上にあった。
「お嬢様!」
広い無人の大広間にクアイソの声が響く。まさか、エティオまでいなくなってしまったのか。
「うるさいわね、聞こえてるわよ」
壁の隙間から、エティオがのそりと姿を現した。
「ご無事でしたか、よかった」
「もう心配性ね、クアイソは。その二枚舌が聞けるうちは、まだあなたも大丈夫なようね」
「これはお嬢様、失礼いたしました。で、首尾のほうは」
最低限の主人に対する礼節を経て、クアイソは本題に入った。
クアイソとエティオが話しているのは、作戦のことだった。
こちらの攻勢、廃坑の襲撃は失敗に終わった。しかし、ウロボロスを巣から誘き出すことには成功した。今頃、廃坑には発破が掛けられ、坑道を残さず埋めていることだろう。
「で、これからの話ですが」
「ええ」
「ところでなぜお嬢様は都市の住人を逃されたのです? 囮にして奴の注意を惹くこともできるでしょうに」
「足手まといになるからよ」
「違いますな。お嬢様は、無関係の人々を犠牲にしたくなかった。違いますかな?」
「それもあるわよ。わざわざ死ななくてもいい人間を死なせるほど、あたしは悪趣味ではありませんから」
「なんという慈悲深きお嬢様のお言葉」
「クアイソ、もうそういうのはいいから。これからの話をしましょう」
聖堂の中で話が続いているなか、外に出た賽は都市を眺めていた。
都市の周囲は、最後に賽が見たときとは少し違っていた。
真新しい石柱がいくつも立ち並んでいる。それらは鋳型に込めたような画一的なつくりをしているが、それぞれの長さはバラバラだ。石柱には所々穴が貫通されていて、時折吹く風が笛のような音を立てていた。
話が終わったのか、エティオが聖堂から出てきた。
「もうダメじゃない。サイにも話を聞いていてもらわなくちゃ」
「エティオ、あれは?」賽は石柱を指さす。
「秘密兵器その二。いまにわかるわ」得意げな様子のエティオは、正体を教えてくれなかった。
「で、賽は大丈夫だった? 怪我はない?」
「おかげさんで。でも、ずいぶん奏士の人がやられたよ」
「……損害がゼロに抑えられるとは、元から思っていなかったけどね。とにかく無事でよかったわ。レテも心配していたみたいだし」
「レテは?」
「避難させているわ。ここはもうすぐ戦場になるから。女子供は要らないわ」
それを聞いて賽は少し安心した。いくら奏力があるとはいえ、レテのような女の子を戦わせるわけにはいかない。
「あ、何その顔。一応あたしも女なんですけどね」
賽とエティオのやりとりをクアイソが腹を抑えて苦しそうに眺めている。きっと笑いをこらえることで精いっぱいなのだろう。
「お腹がすいてるでしょう、手早く食事を取ってしまいましょう」
エティオが提案し、一同は聖堂のなかで食事を取ることにした。
大半の住人が避難のためにここを離れているので、用意は自分たちでしなければならない。聖堂の机にテーブルクロスを敷き、その上に食事を並べる簡素なものだ。
一同は椅子に腰掛け、それぞれ料理を取り分けながら咀嚼する。賽はエティオとクアイソの話で、おおよそ作戦の概要を把握することができた。
ここでウロボロスを迎撃するのには理由がある。
ここには最強の奏器があるのだ。都市の各地に建てられた石柱は、その増幅装置だ。
しかし、ウロボロスに気取られることを避けるためにエティオがそれの試運転をすることはできなかった。
一発勝負の賭け。賭け金は都市ひとつと、ここにいる全員。
そんなことを聞かされても食欲が衰えないのは、自分に命を懸ける実感がないからだろうかと賽は思った。
「どうぞ、お嬢」レテが小皿に取り分けた料理をエティオに差し出した。
「ありがとうレテ……レテ?」
エティオはレテを見ると、ただでさえ大きな目を見開いていた。
「何を驚いている、お嬢」
「何って、あなた避難は?」
「避難はしてきた。街から逃げ出すよりも、お嬢たちについている方が安全だと思った」
「いまから何が起こるか分からないのよ、今すぐ逃げなさい!」
「お嬢は逃げないのか」
「逃げるわけないじゃないの。あたしにはこの戦いを始めたからには、終わらせる義務がある」
「わたしにも、義務はある。お嬢の介添えをお館さまから言付かっているのだから」
「昔の話じゃない……とにかく」
「お嬢様、差し出がましいようですが」クアイソが感情を抑えた声で語りかける。
「オルガンの弾き手は誰になさるおつもりなのでしょう」
「……あたしがやるわ。譜面も押さえたし」
「はたしてそれで奏力が持ちますかな。レテ、オルガンは弾けるな? 残ったというのならば、それなりに用意があるのだろう」
「もちろん。譜面は覚えた」
「どうやって覚えたのよ」
「お嬢の練習を横目で見ていた」
証明するようにレテが無表情で壁に備え付けられた鍵盤に触れる。音こそ発しなかったがレテの運指は滑らかで、それを見ていたエティオが「……あたしよりも上手じゃない」と悔しげにつぶやくのが聞こえた。
「どの道、避難民はもう遠くに行ってしまいました。ここはレテにも温情を賜りますよう、愚考する次第でございます」
レテの頭を押さえつけながらクアイソが申し出る。エティオはしばらく考え込んでいたが、
「もう、わかったわよ! ふたりとも顔を上げなさい、まるであたしが悪人みたいじゃない!」
「やったぞ、奴隷」
レテが賽のほうを向き、微笑していた。
「……なにあんたたち、何かあったの? 仲が悪いと思ってたのに」エティオが不満そうに賽の顔を覗き込む。
「いや、もちろんわたしたちは仲が悪い。そうだな、奴隷」
「仲が悪いのはいいからさ、いい加減にその呼び名止めてくれないかな……」
「坊主」
押し殺した声でクアイソが賽に呼びかける。その指は空を向いていた。
「来るぞ」
頭上の雲は黒く、内部で閃光が蛇のように唸りを上げている。
雷鳴の響きに酷似した音。それは上空から響いていたが、全く異なるものだ。
雷鳴の中に、時折悲鳴や絶叫のような異様な音が混ざる。その音は、少しずつではあるが確実に大きくなっているのだ。
そして、命あるもののように雲が躍る。まるで威嚇するように、その体躯を引き延ばしたのだ。
まるで天井から粘液が垂れるように、雲間から黒いなにかがゆっくりと落ちてくる。その正体を賽たちは知っている。
ウロボロスだ。
不意に粘液は落下しながら空中で収束し、巨大な身体を幾本も束ねた蛇の姿になる。どこで力を蓄えたのか、前よりも巨大になっている。
そして蛇たちは、地上に降り注ぐ一本の巨大な黒い柱に変貌した。
「耳をふさげ!」
レテの叫びは直後に響く和音にかき消された。
なんという音だろう。まるで、千人の奏士たちが一斉に奏器を打ち鳴らすような完璧で同期と連携の取れた旋律が、レテの向かっている鍵盤を通じてこの都市全体から上空の雲に向かって響き渡っていた。
上空で音と音が真正面から衝突し、音が歪む。余波が衝撃波となって地上に降り注ぐ。発信源である聖堂だけは無事で、周辺の建物が紙細工のように吹き飛ばされていた。
上空を見る。そこには色のついた音と、それを食い破ろうとする一匹の巨大な竜の姿があった。まるで、空中に浮かぶように見えるウロボロスは賽の頭上で静止していた。
「サイ!」
エティオが叫ぶ。
これ以上に、絶対的有利な状況は存在するはずがない。
「ああ!」
賽は音叉剣にあるだけの奏力を込め、頭上のウロボロスめがけて放った。閃光が音叉剣から迸り、巨大な柱を現出させる。瞬間、賽の真上に位置しているウロボロスが苦しげに身もだえした。音叉剣の光に半身を焼かれ、傷口から粘液と白い骨が見える。
しかし、絶命していない――!
「くっ」
苦しげなレテの声が聞こえると同時に、周囲の音が唐突に止む。奏力の限界に達したのか、脱力したレテがオルガンに突っ伏していた。
次の瞬間、ウロボロスは砲弾の勢いで重力と加速を乗せて急降下してきた。
「坊主!」
目の前に迫るウロボロスの黒い咢。その奥に、賽は確かに目にしたものがあった。
気のせいではない。あれは、人間だ。
「……!」
賽の前に、クアイソが立っていた。
クアイソが両手に持っているのは賽のものと同じ、音叉剣だった。二つの音叉剣の刃先は壁のように厚く、その向こうには音叉剣ごと自分たちを食いちぎろうとするウロボロスの巨大な咢があった。
「お嬢様!」
クアイソの呼びかけに答え、エティオが叫ぶ。エティオの口から発せられる音色が煌めき、本人の前を中心にして同心円状の響きを放つ。
――怒りの日に審判者が現れ、全てが厳しく裁かれる。その恐ろしさはどれほどか――。
唱歌だった。エティオの生命を絞り出したかのような奏力の結晶。至近距離からの唱歌を受け、ウロボロスが全身を引き潰すような――実際、そうなのだ――声を上げる。唱歌はウロボロスの皮を剥ぎ、肉を削ぎ取り、骨を砕く。果てには肉片一つにまで干渉し、その存在を完膚なきまでに分解する。
「……」
その光景を、賽は茫然として見ていた。
空中に静止していたウロボロスは一瞬にして白化し、破裂する。雪のように降りしきる破片が賽の口に入り、とっさに吐き出した。
口の中に残ったのは、強烈な塩気だった。
「……終わった」
塩が降る聖堂のなかで、賽は脱力していた。
その一方で、賽のなかには何故自分の時点でウロボロスを仕留めきれなかったのかという疑問があった。
狙いは正確だった。肝心な時に役に立たなかった自分を責めるのは自然なことだったが、それ以上に自分の体の変調を賽は実感していた。
――音叉剣が弱くなっている。
すなわち、奏力が枯渇しかかっているということだ。
奏力は回復することがないのだろうか。クアイソから言われていたことが、土壇場になって表面化してしまった。エティオの目的を果たした今、これから奏力を使う機会があるとは思えないが、漠然とした不安が賽の全身を震わせていた。
これまでの力は、もう望めないのだ。
雪のように聖堂に降り積もる塩は膨大なもので、あたり一帯を真っ白に染めていた。
普段ならシェードは絶命すると、その身を隠すように瞬時に消滅する。以前として残骸が残されているのは、ウロボロスがあまりに巨大だったせいだろうか。
そのなかを、クアイソは消沈した面持ちで立ち尽くしていた。
役目を果たしたのだから、もっと喜んでもいいはずなのに。
それとも、先の戦いで奏力を使い果たしてしまったのだろうか。音叉剣の二刀流など、無茶にすぎる。賽自身にも、あれだけの光刃を発現させれば身体の負担が相当なものであることくらいは分かる。
それこそクアイソが警告したように、本人が奏力を失っている可能性さえあるのだ。
「おお」
悲嘆に満ちた声は、クアイソのものだった。
「……クアイソさん?」
賽は不審に思った。クアイソの様子がおかしい。
クアイソは自らの頭を両脇から押さえつけ、まるで潰そうとしているように見える。全身が震え、肌からは汗が滝のように流れ出ていた。
「なんということを……俺は」
神に許しを請うように、クアイソが跪いた。
両目は見開かれ、少しの衝撃で眼球が眼下からこぼれ落ちそうだ。半開きになった口からは透明な唾液が口を伝っている。顔を抑えるのは表情の変化に抵抗するように見えたが、今では押さえるその手自体がクアイソ自身の顔を皺だらけの無残な顔に変貌させていた。
「クアイソさん」
もう一度呼ぶとクアイソがゆっくりと両手を垂らし、賽を振り向いた。
その顔は、何の表情も浮かべていなかった。
「……!」
一言も言葉を発することなく、クアイソは無表情で斬りかかってきた。賽は咄嗟に音叉剣の刃を伸ばしてクアイソの斬撃を弾く。
賽は自分の目を疑った。
斬りかかってきたクアイソの得物は見間違えようがない、シェードの鎌だったからだ。
いったいクアイソに何が起こったのか。理由を突き止めるよりも先に、変貌してしまったクアイソ自身を何とかしなくてはならなかった。
しかし、どう対処すればいいというのか。
「クアイソさん!」
返事をする代わりに、クアイソは顔を不格好に、笑いのかたちに歪めた。
背中を大毛虫の大群が這い上る感覚が賽を襲った。
賽は迫るクアイソの腹を蹴り上げ、弾き飛ばす。クアイソが転がっていくことで賽は距離を取ることができたが、ほんの少し時間稼ぎができただけだ。
判断を保留する時間を。
「エティオ」
賽の声は緊張して乾ききっていた。
横目にエティオの方向を見ると、彼女は茫然としていた。
エティオの視線の先にあるクアイソは更なる変貌を遂げていた。
クアイソの足元にある「影」が、音もなく屹立する。影が光とは無関係にクアイソの身体を覆っていく。まるで漆黒の蔦が締め上げるように、クアイソの影――シェード――は、その持ち主の四肢の自由を奪っていった。
「……クアイソ?」
我に返ったのかエティオがかすかな声で呼ぶと、クアイソはうずくまっていた上体を起こした。
その顔には、白い苦悶の仮面が張り付けられていた。
「……!」
エティオが言葉を失っていた。その仮面は忌々しいシェード特有のものだった。
かつてクアイソだった「もの」は、全身を濡れそぼった黒衣に身を包んでいた。黒衣の中では既に人としての体型を失っており、関節の外れる鈍い音と共に仮面の位置が不確かになっていく。黒衣の間からは湾曲した刃が不吉な輝きを放っていた。
「エティオ!」
賽は立ち尽くしていたエティオを押しのけ、クアイソ「だった」シェードと相対する。
「なんで、クアイソさんどうしたんです!」
「……」
答える気配はない。クアイソシェードは両手の鎌でかつて人間だったときの体術はそのままに、転がるようにして賽に斬りかかってきた。
「くっ」
まさか、クアイソはウロボロスに身体を乗っ取られてしまったのか。しかし、さっきのはなんだ。まるで、自分の影が成り変わるようにしてクアイソはシェードへと変貌を遂げた。
きっかけは何だ。
そういえば、あのときクアイソはウロボロスの亡骸を確認していた。
クアイソはウロボロスの中に、何を見たのだ。
いつの間にか、賽は壁際に追い詰められていた。聖堂の端、巨大なオルガンがある場所。鍵盤に向かっていたレテは既にそこにはいなかった。
賽の背中が鍵盤にわずかに触れ、目の前のクアイソシェードが脅えたように後ずさった。
クアイソシェードの後ろには、ウロボロスの残骸が塩の山となって無残な姿をさらしていた。
突風が吹き、小山が風にさらわれる。その刹那、賽は見た。
塩の山のなかに、人の姿があったことを。
中年男性で、着ている物に賽は見覚えがあった。みすぼらしい襤褸切れと化していたが、彼の着ていた服は、城塞都市アンティオスの奏士の制服だった。
その首にかかっていたのは、奏士団長しか身に着けることを許されない銀色のゴルゲットだ。
ベルラベッダの、先代の奏士団長。
「エティオの……お父さん?」
賽の頭の中で情報の断片がつながり、ひとつの事実を導き出した。
鐘楼で仕留めたウロボロス型のシェードを、エティオが「父の仇ではない」と断定できたのは、シェードの正体を知っていたからだ。
そして、その事実をエティオは周囲に、クアイソにも隠していた。
エティオが隠していた理由は簡単だ。シェードの正体を知った者は、例外なく否応なしに手心を加えてしまう。
ウロボロスの正体は、エティオの父、デュプレクス。
シェードの正体は、人間だ。
奏力の枯渇が人をシェードに変貌させると仮定すると、クアイソの変貌も合点がいく。その最終的なトリガーが、ウロボロスの亡骸である塩の山に埋もれるデュプレクスの亡骸だった。
「だからって!」
賽は気圧されまいと叫ぶ。
だからといって、こちらが命を奪われていい理由にはならないのだ。
一度シェードに変貌してしまった人間を助けることはできないのだろうか。一瞬だけ思考が頭の中をよぎったが、少しの躊躇や逡巡も今の賽には許されない。クアイソシェードから繰り出される無数の鎌は、獣の野生と人間の狡猾さを織り交ぜたまさに死をもたらす壁だった。
「エティオ」
この人を殺してもいいのか。問いたかったが、エティオは茫然自失の状態でその場に崩れ落ちている。まったくの無防備だった。
突如としてクアイソシェードが背を向け、賽の反応を上回る速度で跳躍する。聖堂の中心で茫然としているエティオに狙いを変えたのだ。
「やめろ!」
とっさに走るが間に合わない。蝙蝠のように空中を跳躍するクアイソシェードは、全身に隠し持った有る限りの鎌をまるで剣山のようにしてエティオに向ける。
表情を失ったエティオの顔に黒い影が重なる。
賽の絶叫が聖堂の中に響きわたった。
「……つっ」
クアイソシェードがエティオに振り下ろそうとしていた鎌は、寸前でレテに阻まれていた。
「レテ!」
地面にぽつりと、大粒の血涙が落ちた。
小さなレテの身体は、シェードの鎌に串刺しになっていた。両腕を完全に貫かれ、奇妙に捻じれている。激痛に抗うように打ち震えているレテは、動くことがなかった。
レテの背中には、守るべき主人がいるのだから。
抗うことのできないレテを弄ぶように、クアイソシェードは自由な鎌でレテの身体を好き放題に切り刻む。服が裂け、鮮血が飛び散り、苦悶の叫びが上がった。
「なにをしている、奴隷!」
「レテ!」
レテの狙いは分かる。レテにすべての鎌を向けたクアイソシェードは、賽に対して無防備な状態だった。しかし、賽の巨大な音叉剣では小さなレテを巻き込んでしまう。
「やれ、奴隷! 今以外に、クアイソを殺す機会はない!」
「でも、それじゃレテが」
「わたしに残された奏力はもうほとんどない。自分が新たなシェードになってお嬢を狙う。それだけは」
哀願するように、レテが賽の目に呼びかける。
その瞬間、レテの口から溶岩のように赤い血の塊が吐き出されるのが見えた。
「やれえええ、サイ!」
賽は涙が浮かぶ視界のなかで、絶対的な集中力でクアイソシェードとそれに重なるレテに狙いを定めた。
「うっ」
やりたくない、でもやるしかない、やらなければいけない。やらなければエティオが殺されてしまう。今自分が振り上げている剣は間違いなくレテとクアイソを殺してしまう。聖堂で見た物言わぬ死体の群れのように、無残な姿をさらすことになる。そこに人としての尊厳など皆無だ。
だがこの場を何とかしなければレテは無駄死にし、エティオが殺され、怪物の姿と化したクアイソは望まぬ殺戮に手を染める。
それを見ている自分は一番の卑怯者に違いない。
クアイソを止めるのは今しかないのだ。
「うわあああああああ」
身体と魂を万力で引き裂かれる感覚に身もだえしながら賽は全身の奏力を音叉剣に収束させ、クアイソシェードに雷光の速度で叩きつけた。
黒い輪郭が崩れ、全身の肌を泡立てる絶叫を上げながらクアイソシェードが消滅する。その向こうには、右手と右足、右半身を失ったレテがいた。レテの唇は、ありがとう、と動いたのちに糸の切れた人形のように全身の力を失い、倒れた。
レテは、この上なく安らかな表情をしていた。
「なんで」
賽は跪き、肩で息をしていた。奏力を放出したからだけではない。とにかく心と体が鉛のように重かったのだ。心の半分を食いちぎられるような喪失なのに、なぜ心は重荷を背負ったようなのか。
自分は、人を殺してしまったのか。
一緒に戦い、自分を助けてくれた男を。
他でもない、自分にキスまでしてくれた女の子を。
気が付くと、エティオが賽の目の前に立っていた。表情を失い、手足が棒立ちになっている。まるで人形のようだった。
「なんで殺しちゃったのよ……」
「……」
「なんで殺しちゃったのよ! みんな、みんな、みんな!」
嗚咽と感情を爆発させるように、エティオは自分の顔を抑えて膝から崩れ落ちた。
確かに理由はある。エティオを守るためだ。クアイソを殺さなければ、エティオも自分もやられていた。しかし、賽はエティオの問いに答えることができなかった。
自分は人の命を秤にかけ、レテとクアイソを殺したのだから。
「……レテ」
肩で息をする賽の頬に、ぽつりと雨粒が触れる。雨粒は瞬く間に増え、聖堂に降り注ぐ。
まるで、世界が全ての悲嘆を洗い流そうとするように。