四章 ウロボロスの消息
出立の準備は迅速に行われた。
賽はかねてからエティオに命じられて、いつでも出発できるよう馬車の整備や物資の手配をしていた。
具体的には、持っていく荷物の仕入れと搬入と、旅路の確認と物品の相場調査。どこでどれだけの荷物を仕入れ、どこで放出するかの計画を立てることなど。勝手が分からなかったところはエティオに聞き、レテに手助けをしてもらった。
それでも準備を終えるころには夜が明けかかっていた。
屋敷の裏門から一台の荷馬車が音を立てずに進み出る。荷馬車の御者席には厚い外套で素顔を隠した賽の姿があった。
夜明け前の道は街灯が灯っておらず、足元が見えない。おかげで荷馬車は予期せぬ段差に車輪を引っ掛け、揺れる荷台がやけに大きな音を立てた。
「ちょっとサイ、もう少し静かに走れないのっ」
ひそひそ声で荷台にいるエティオが叱咤する。
荷台の音の原因は、シェードの鎌だ。シェードが残す鎌はあらゆる金属加工品の材料になり、疑似通貨としての価値が高い。この城塞都市アンティオスの特産品でもある。
「……なんでこそこそするんだよ。別に逃げるわけじゃないんだろ」
ぼやく賽の口を「しっ」と後ろからエティオが塞ぐ。
表通りに出た。どこかで鶏の鳴く声が聞こえてくる。通りは昼間と違い、歩いている人はほとんどいなかった。
いつものような渋滞に巻き込まれることなく、すぐに馬車は城門に辿り着いた。
城門は閉じられ、両脇で篝火が焚かれている。篝火は旅人への道標としての役割と、シェードに対する自衛のためだ。シェードは火を嫌がる。
城門の周囲では三交代制で勤務している奏士たちが見張りを行っていた。彼らが眠たげに眼を擦っているので、賽は安心した。ここで書類を提出した後に城門さえあけてもらえばあとは野となれ山となれだ。
城壁の脇にある詰所で、賽は荷馬車から降りた。のろのろとこちらに歩いてくる奏士が賽を見ると、
「おっ、サイどのではありませぬか!」
奏士の大声が城壁内に響き渡った。見ると眼を擦っていた奏士は別人のように姿勢を正していた。
「こんな時間にどちらへ。見回りならば、我らがしっかりやっておりますとも! それとも激励にきてくださったのでしょうか?」
朗々と夜明け前の城壁に響き渡るバリトンの美声が正直うるさい。横目に荷台のエティオを見ると、「はやく切り上げなさいよっ」と口パクをしている。早くこの奏士を黙らせなくては。だが嘘を吐くわけにもいかない。ここはあたりさわりのない会話でごまかさなくては。
「う、うん。ちょっと遠出をするんだ。エティオの用事があってね」
「それはそれは! ですが、我らが奏士団長が聞いたら悲しむでしょうな。心苦しいことです」
「ベルラベッダのこと? 心苦しいって、なんでかな」
「我らが団長はいたくサイ殿のことを気に入っておられるようですから」
「そ、そうなんだ」
「それはもう! 執務室でも詰所でも、城壁の上でも! 話題と言えば、サイ殿のことばかり。 不謹慎な話ですが、最近はシェードの到来を楽しみにしていた節さえあります。我らにとっては迷惑な話ですがな」
「シェードが来るのと僕に何か関係あるの?」
「朴念仁ですなあ、サイ殿は。団長が人手が足らぬという口実をもとに、サイ殿を引っ張り出すことができるではないですか。いやいや、もちろん奏士団に入られておらぬ御仁に剣を振らせようなんて考えてはおりませぬ。サイ殿には団長のお相手をしてくだされば、我らも安心いたしまする」
どうやらベルラベッダの機嫌は、彼ら奏士たちにとってシェードよりも重要なことらしい。八つ当たりとかパワハラでもするのだろうか。
「いろいろとござってなあ。団長はお美しいが性格に多少、難が。見合いの話も出るには出るそうなのですが」
瞬間、奏士の身体が横殴りに吹き飛んだ。受け身を取ることもできずに奏士は地面を転がり、城壁にめり込む形になってやっと止まった。
「性格に多少の難があるのは認めよう。しかし、私は自分の感情を仕事に反映などさせん」
振り返ると、そこには絃刀を鞘に納めるベルラベッダの姿があった。
「ベルラベッダ、今のは……」
「峰打ちだ。どうした、サイ。散歩か?」
どうもこうも、この荷物を見ればわかるだろう、と賽は言いかけたが、「少しだけ留守にするよ」と告げた。
「うっ、うぐっ……私を置いていくのだな」
いきなりベルラベッダは目尻に涙を浮かべ、しゃくりあげていた。
予期せぬ事態に賽は頭が真っ白になってしまった。なんで泣いているのか。そう言えばこの前も泣いていた。ベルラベッダは泣き虫なのか? とりあえず言い訳、もとい弁明をしなくては。あわてて外出の書類をベルラベッダに見せる。
「ベルラベッダ、すぐに戻るって! 勘違いもいいところだよ!」
「目的地、城塞都市ハルペルイ? ……遠くではないか! 期間は……二カ月? 待ち切れるわけが無かろう!」
ちゃんとした書類なのに、なぜキレられなくてはならないのか。
「これは正式な書類よ。役所の許可も出ているわ。それとも、この街は商人を縛り付ける決まりでもあるのかしら?」
いつの間にか降りてきていたエティオがそう言って、認可印のついた書類をベルラベッダに見せつけた。
「ぐっ、いつの間に。そうは言っても、うぬっ……。エティオ、おまえはどこで野垂れ死にしようと好きにすれば良い。ただし、サイは置いて行ってもらおうか」
「なんでよ。サイはあたしの大事な奴隷なんだから、口出ししないでちょうだい」
「サイの存在はおまえ一人のためのものではない! 今やこのアンティオスになくてはならない切り札だ!」
ベルラベッダが怒鳴るが、半泣きでは迫力も半減する。エティオはそんなベルラベッダの顔を値踏みするように覗き込むと、意地の悪い笑みを浮かべた。
「ああ、そういうこと。あんた、サイのことが好きなのー」
「ばっ! バカを言え、戦力としての不足があって」
「その目は恋する乙女の目よ」
「な、何でわかる!」
「なんとなく。でも自分で白状しちゃったわね、ざーんねん」
「何が残念なのだ! 告白もまだならば、返事ももらっておらぬ!」
賽は思った。これは修羅場というのだろうか。
意外なことに、ベルラベッダはエティオに対して終始劣勢だった。女子力というものは腕力や剣技とは全く無関係なのか。
「じゃあ返事してあげるわ、サイの主人として」
会話を打ち切るようにエティオが言い放った。これ以上はいけない。賽は二人の間に割って入ろうとしたが、何か不可視のオーラのようなものが二人の間にあり、身動きが取れない。
「サイはね」
反射的にベルラベッダが耳をふさぐ。
そのとき、空気を塗り替えるように鐘楼の鐘が鳴った。
「……なに?」
鐘楼の鐘が鳴るのは、夜明けの鐘と正午の鐘、そして晩鐘の三回と決まっている。この時間は夜明けにはまだ早かった。
中途半端な時間に打ち鳴らされる鐘の理由は決まっている。シェードの来襲だ。得物を持った奏士たちが迅速に城壁への階段を上がってゆく。
「シェードは見えるか!」
奏士団長の顔でベルラベッダが城壁の奏士たちに尋ねる。しかし、奏士は首を横に振り、城壁の反対側、市街地を指さした。
「いや、違う……司教様です!」
畏れを抱いた声で奏士が指さした方向には、光り輝く巨大な神輿の姿があった。
馬車を一回り大きくしたような神輿は太陽も昇っていないのに後光を背負っていて、まるで聖堂をそのまま小さくしたようにも見える。神輿の中心には瀟洒な装飾を施された椅子があり、それに埋もれるようにして座っているのが司教、オリゲネスだった。
賽は無意識に唾を飲み込んでいた。
神々しい神輿の雰囲気もさることながら、駆り出されている人の数が尋常ではない。神輿の後ろには二人一組の神官が並び立ち列を作っている。神官たちは皆、真っ新な白い紙を捧げ持っていた。白い紙はオリゲネスの長く伸びた銀髪をくるんでおり、神官たちの列は等間隔で聖堂の方向に続いていた。
「見送りに来たぞー」
神官の介助で神輿から降りたオリゲネスは、無邪気な子供の笑みを浮かべた。
「……わざわざ司教様自ら、恐れ多いです」
エティオがオリゲネスに跪いて礼を言うが、その眼付きはなぜか警戒心に満ちていた。
「さて、書類を見せてみい。我は出立の書類に判を押した記憶がないのでな」
エティオは答える代りに無言でオリゲネスに書類を差し出した。書類を受け取ったオリゲネスは、眼鏡を取り出して書類に顔を近づける。舐めるように書類を一通り見た後に、「これは偽造、偽物じゃ」と断じた。
「司教様、それは……!」
「寸分たがわぬ、と言いたそうじゃが、確かにこの認印は我が執務室で使っているものと全く同じものじゃ。インクの色調、濃度まで全く同じ。よほど調べに調べを重ねたようじゃの」
エティオはうつむいたままで、弁明する気配さえない。
「じゃが、認印が同じということが偽造を裏付ける決定的な証拠なのじゃ。……実は、我はこの前その認印の角を欠けさせてしまっての」
「……!」
「書類の受理された日付から逆算すれば、この認印は左端の角が欠けていなければおかしいのじゃ。これがエティオ、お主の偽造を裏付ける決定的な証拠じゃ」
どやあ、と言わんばかりの顔でエティオを見下すオリゲネスの頭の上で、鈍い音がした。オリゲネスは自らの頭を抱えてうずくまる。
ベルラベッダがげんこつを振り下ろしたのだ。
「痛い、何をするのじゃ……!」
「備品を壊されたのなら、すみやかに申告していただかないと困ります。今回は目をつぶりますが」
「つぶっておらぬ! おらぬではないか!」
「で、どうするの? あたしたちを通すの通さないの、どっち?」
開き直ったようなエティオの態度にベルラベッダが気色ばったが、オリゲネスは平然としていた。
「判子を突いたように見せかけたのは謝るわ、ちょっと急用だったから。でもだからって、都市の市民、しかも商人が外に出ちゃいけない決まりはないわ」
エティオの言葉にオリゲネスは少し考え込んでいたが、やがて「……よかろう」と呟くのが賽にも聞こえてきた。
「司教様!」
「認印の件は痛み分けじゃ。もっとも、原因となった書類の処理は事後報告という特例を設けねばならぬな」
「……ありがとうございます」
賽はエティオの代わりに、オリゲネスに頭を下げた。
「よい。人が動くには訳があるものじゃ。それはそうと」
オリゲネスが近づいてきて、賽に耳打ちする。
「エティオとベルラベッダ、どちらが好みじゃ?」
「……何言ってるんですか」
「まさか、我のような幼女が好みか。世の中にはそういう嗜好があるもあるらしいが、えへへ、照れるのう」オリゲネスが頬を赤らめながら、頭を掻く。
「僕はそういう嗜好もないですよ!」
「冗談じゃ」
オリゲネスは背伸びして、賽の胸に一輪の花を挿した。小さな銀灯花だった。
「持っていくがよい。常にそなたを守ってくれるはずじゃ」
「……ありがとうございます」
「行ってまいれ、ただしここには必ず帰って来い。我はおまえたちの奏でる音が無くては、生きて行けぬのだ」
エメラルドグリーンの空には、雲一つない快晴だった。
顔料で染め上げたような空の下を、小さな荷馬車が揺れる。
「あーるはーれた日のー……昼下がり……だったっけ?」
賽は荷馬車の御者席で、いつか授業で習った歌を口ずさんでいた。
「なに、そのヘタな歌」
エティオが荷台から身を乗り出してくる。昼寝を邪魔されたのか、それともワインを飲みすぎたのか、かたちの良い眉が少しだけ吊り上っていた。
「下手は余計だよ。音楽の授業なんて、寝てたから」
「ふーん、サイにとって音楽の授業は寝てるものなの。せっかく先生が教えてくれてるのに」
「音楽をまじめに習ってるのは、本当に好きな奴だけだよ。進学に響かない程度に真面目にはしてたけど」
「なんかそういうところズルいよね、サイ」
確かにズルいかもしれない。賽は少しだけ自己嫌悪を覚えた。
歌詞を思い出せないのは授業をまじめに聞いていなかったツケなのだろう。だが受験に必要な学校の主要科目がこの世界では通用するか怪しい。歌でも歌えた方が、よほど今の賽には有益だった。
「それにしても退屈だわー。サイ、まだ着かないの?」
「退屈ですー」
後ろの荷台から聞こえてくるのは、エティオとレテの声だ。退屈なら、少し御者を交代してほしいところだった。賽は幌の天井に手を伸ばし、皮袋の水を口に含んだ。
常温の生水は腐りやすい。旅の最中では湯冷ましするほどの手間も掛けられないので、皮袋の水には三分の一ほどワインを混ぜて入れている。最初は違和感があったが、これしかないのでもう慣れてしまった。
「ところで、なんでレテがいるの? ハウスキーパーなんじゃ」
首の後ろにチクリとした感触があった。レテに刃物を突きつけられているのは確実だった。
「私がいると不満なのか。そうなのか」
「いや、そうじゃなくて」
「奴隷、おまえの考えていることくらいお見通しだ。お嬢と二人きりの旅行、誰も邪魔する者はいない。あわよくば手を握ってみたり、脚を撫でてみたり、寝こみを襲うチャンスは山ほどある。ズボラで間抜けで阿呆なお嬢だからな」
「ち、ちょっとレテ? それは言い過ぎじゃない?」
「だが私がいる限り、お嬢には指一本触らせない。わかったか、奴隷」
「いや、分かったけどさ。そんなつもりもないし。屋敷はどうしたのって聞いてるんだよ……エティオ?」
振り返ると、エティオは荷台の隅でワインを直で飲んでいた。それだけではない、野営用の燻製肉や魚の干物を肴にして、昼間から酒盛りの真っ最中だった。
保存食のなかでも魚は贅沢品で、理由はシェードが海からやってくることに起因しているのだろう。
「ひっく、サイは、そんな気ないんだ……あたし、ひっく、気合入れて準備したのに」
「エティオさん? 何を原因に落ち込んでるの? 屋敷のことを聞いてるんだよ?」
「家はね、ベルラに、ひっく、屋敷の鍵と手紙を置いといたわ。あたしたちが旅に出ている間、管理ひっく、人をしていてほしいって」
「……それって、ちゃんとやってくれるのかな」
「ベルラはそういう、やつよ。ひっく、文句は言ってもやることはやるわ。あいつは」
それはベルラベッダの人の良さに付け込んでいるのではないか、と思ったが起こってしまったことはもう仕方がない。帰ったらちゃんと謝らなくては。
「それにしても退屈……馬車、もう少し早く走れないのかしら」気怠い調子でエティオが呟く。
「これでも急いでいるつもりだよ」
賽は言い訳がましく口にした。
出発した当初は気ばかりが急いたが、賽たちを取り巻く状況が馬の脚を早めることを許さなかった。
馬に無理をさせても途中でへたばるし、ゆっくり行かせると街道のど真ん中で野宿をする羽目になる。野営地や街までに馬に安定したペースを維持させなければ、夜闇の中で立ち往生してシェードとの遭遇戦をすることになる。
そんなこともあり、即席だが賽の手綱を握る手もそれなりに堂に入ったものになった。
エティオが行商人という肩書を持っているのは、行商人を名乗ることで様々な無用のトラブルを避けることができ、ギルドからの様々な支援を受けることができるからだ。
具体的には、ギルドが契約している宿屋や預かり屋の優先使用権、および各地の馬車駅で馬の交換を受ける権利。先に話した通り、長旅での馬の疲労は重要だ。
今日で約一週間。街道沿いを移動する馬車は、致命的なトラブルに見舞われることなく目的地へと進んでいた。
賽たちの目的地は、地方都市ハルペルイ。早馬の手紙によると、あの空を泳ぐ蛇のようなシェード、通称ウロボロスの襲撃があった場所だった。
エティオの父親の仇を討つという目的がある以上、この旅の終末は決して平穏なものではない。
だが、賽はこの時間が妙に心地いいと思った。
自分の人生の中で、これほどに空白を作ったことなどあっただろうか。
「エティオ、退屈を不満に思えるのは幸せな証拠だと思うよ」
「サイはいいな、そんな余裕があってさ。もう退屈で死にそ」
「余裕がなかったから、いまの退屈がいいのさ……それにしても、エティオはこの人数でよく行く気になったよね」
「ウロボロス討伐? あたしだって人数が多いに越したことはないって思ったわよ。それでも、アンティオスの奏士団を貸してもらうわけにはいかないから」
「それでもさ。たった三人で退治できるほど甘い相手じゃないはずだよ……だって」
相手、ウロボロスは先代の奏士団長であるエティオの父親を殺すほど強力なシェードなのだから。
「大丈夫よ、サイがいるから」
「全然大丈夫じゃないよ。僕一人じゃ」
「まかせて。ちゃんと手筈は整えてるわ」
「……援軍の宛てがあるの?」
「あのウロボロスには賞金をかけているの。目撃情報とかにもね。あたしには味方が何百人もいる。だから、ウロボロスと対決する時には大軍で迎え撃つ形になるわ」
賽はエティオの取った手段に感心しながら、金の力に物をいわせる姿勢にどこか釈然としないものがあった。そうは言っても、賽が考えたところでエティオにとって最善の手段はこれ以外に思い浮かぶことはなかった。
「大軍って、相当なお金がいるんじゃない?」
「ウロボロスの被害に遭っている土地もたくさんあるし、あいつを退治することは一種の公共事業になってるわ」
「ふーん」勝算はあるということか。
「そういえば、エティオのお父さんは城塞都市の外で殺されたの? 先代の奏士団長だったのに」
ベルラベッダが言うには、奏士団長は外遊を許可されていないはずだった。聞いてはいけないような気がしていたが、うっかり口が滑ってしまった。賽は「ごめん! 話したくないならいいよ」と言いざま覆い被せたが、エティオの反応は少し眉を動かしただけだった。
「……そうね。ここまで付き合わせたんだし、賽にも知る権利はあるわね」
「無理ならいいんだ。全然」
止める賽に無理な微笑を返したエティオはぽつりぽつりと、まるで覚えたての言葉を試すように語り始めた。
「あたしのお父様は、先代の城塞都市の奏士団長だった。お父様はこう呼ばれていたわ……アンティオスの壁と」
エティオの父は、名前をデュプレクスといった。
経緯は定かではないが、エティオは父デュプレクスとふたりでこのゲヘナに着のみ着のままで流されてきたのだ。
漂着した当初、司教オリゲネスは今と全く変わることのない姿で父とエティオを受け入れ、名前のない二人に親子関係と名前を授けた。
オリゲネスはエティオとデュプレクスが親子だということを知っていたのだろうか。それとも、年端もゆかぬエティオに対する保護者としての役割をデュプレクスに課したのか。そもそもオリゲネスはいったい何者なのかという疑問が賽の頭の中に浮かんだが、ここはひとまず置いておこう。いきなり話の腰を折るわけにはいかない。
エティオの話は続く。
大半の異邦人と同様に、エティオは元の世界の記憶がなかった。デュプレクスとの血縁を確かめる術はなかったが、一緒にここに辿り着いた縁ということでオリゲネスがデュプレクスに保護者役を任せたらしい。
しかし「記憶がない」という事実を受け入れるにはエティオはまだ幼かった。
異邦人が食っていくには何かしら労働をしなくてはならず、エティオの考える時間を確保するためにデュプレクスは奏士団に入り、日夜シェードとの戦いに明け暮れた。
エティオが奏力を唱者という形で発揮することになったのは、以前にデュプレクスに指導を受けていたからだ。しかし娘を戦いに出したくないデュプレクスはエティオの唱者としての才能を隠し、埋もれさせることを選んだ。
エティオたちがゲヘナに来た当時、城塞都市にはシェードが大量に出没していた。異邦人の漂着との因果関係は定かではないが、命を危険に晒されている以上、降りかかる火の粉は払わねばならない。
奏士団に入ったデュプレクスは目覚ましい働きシェードを撃退し続け、結果城塞都市の人口を大きく引き上げることに成功した。破られることの多かった城壁を補強し、同時に多数の奏士による迎撃態勢を確立したのもデュプレクスの指導によるところが大きかった。
デュプレクスは功績により多くの恩賞と奏士団長の地位を獲得した。同時に異邦人の立場を引き上げ、雇用における一定の地位を確立した。
おかげでエティオには考える時間ができた。考えたところで自分がいったい何者なのか、という答えは見つからなかったが、世界に、社会に溶け込むことはできた。父の帰る屋敷を守ることがエティオの役割であり、それは父、デュプレクスが望んだことでもあった。屋敷にはたまにベルラベッダが訪れたが、それもエティオにとってはいい刺激だった。
あるとき、父の帰りが遅いことにエティオは気が付く。そういったときは奏士団の何らかの任務――外敵、シェードの迎撃――が与えられたときであり、エティオにできることはそんな父を心配することだけだった。
だが、帰宅時間が遅れるときには必ず伝令から連絡が来るはずだ。何かあったのではないか。それも、伝令をまわす余裕もないような事態が。
エティオの予感は当たった。デュプレクスがシェードの奇襲に遭い、負傷したのだ。
事件はなぜか城壁の内側で起きたらしい。シェードはすぐに撃退されたが死体はいつものようにすぐに消滅した。噂では奏士団内でのいざこざという噂も囁かれたが、真相は闇の中だ。
噂から逃れるように父は莫大な財産と屋敷、メイドのレテをエティオに残して、何人かの召使いを連れて城塞都市を去った。
何も言わずに。
なぜ自分も連れて行ってくれなかったのか。エティオは悲しみ、狼狽した。
確かに、父が残してくれた財産はここで一生穏やかに暮らしていけるほどある。
だが、ここで生きてゆくしかない以上、自分は飼い殺し同然ではないか。メイドのレテや、父の部下だった奏士のベルラベッダがなにかと世話をしてくれたが、それすらエティオには鬱陶しかった。
父の残してくれた財産はそれを狙う多くの敵を生み出した。善人の顔をした悪党たちにエティオが騙されるのを周囲の人々が幾度も防いでくれたが、少しずつ財産は「父の残した借金」、「寄付」「投資」といった名目で掠め取られ、気が付いた時にはエティオの財産は人並みの金額と屋敷のみとなっていた。
だが、そう悪いことばかりではなかった。
エティオはそうなって初めて生きる実感がわいてきたのだ。
商人、という生き方は奏力の活用法を知らなかったエティオにとって少ない選択肢の一つだった。幸いに元手はあり、それを使ってエティオは都市を巡る行商人という商売を始めた。
また、エティオの唱者としての才能は一人旅を可能にする戦力をもたらしていた。
幾度と商品を抱えて街を往復し、多大な困難と数少ない成功を収め、挑戦と無謀の区別がつくようになったころ、屋敷に来訪者があった。名をクアイソといい、父の元部下と自称する男だった。
デュプレクスが出奔してから約一年が経過していた。
玄関の柱にもたれかかるクアイソは怪我をしていた。
彼を屋敷に迎えたエティオは全身血まみれのクアイソにとても驚いたが、とりあえず医者の治療と一晩の休養を与えた後、話を聞くことになった。
エティオの父、デュプレクスは巨大な蛇のシェード「ウロボロス」との戦いの末に亡くなったというのが、クアイソの話の内容だった。ウロボロスは各地の城塞都市をいくつも陥落させた強力なシェードで、その戦いに父が巻き込まれたらしいのだ。
テーブル向こうのソファーに座るクアイソは、震える手で鍵のかかった一冊の本をエティオに手渡した。それはいつもデュプレクスの日記で、いわば形見だった。
日記はクアイソたちがウロボロスを撃退した際に、切り落とした身体の中から発見されたものだった。しかしウロボロスは逃走し、いまだに都市を襲い続けている。
エティオはクアイソを信じるべきかどうか迷った。父の知り合いを名乗る人間など両手に余る数を見てきたからだ。
もしかして、クアイソの話は狂言で彼が父を殺したのかもしれない。日記だって、奪ったのならば辻褄が合う。この屋敷を出た当初、父はシェードとの戦いで負った傷がまだ癒えていなかった。男の実力は分からないが、手負いの父を殺すことは十分可能なはずだ。
しかし、クアイソは怪我をしていた。ウロボロスに与えられた傷だという。手当てをしていなかったのは、エティオにこの事実を一刻も早く伝えるため。
エティオは考えた。自分を騙すためとはいえ、ここまで人は自らの命を危険に晒すだろうか。手当てもしないままここまで来るだろうか。
仮にクアイソの目的が金だとしても、父の残した財産はもうほとんど残っていなかった。話を聞くだけ聞いて、疑わしい所があれば奏士団に引き渡せばいい。
次にクアイソはエティオに一枚の紙を差し出した。商業ギルドの間でのみ通用する小切手だった。かなりの額だ。
デュプレクスが自分が死んだ際に、人づてに残していたものだった。
クアイソはエティオの眼を見て問いかけた。
御父上の仇を討ちたいですか。
あなたはどうなの、とエティオは訊き返す。
私は討ちたい。たとえ、あなたが止めたとしても。と、クアイソから喉を絞り上げるような答えが返ってきた。
いいわ、やりましょう。エティオは首を縦に振った。
それから、エティオとクアイソは別々に、各地でウロボロスの消息を探る旅に出ることになった。旅費の一部としてエティオは小切手をクアイソに渡そうとしたが、彼は頑として受け取りを拒んだ。
クアイソにとって日記と小切手をエティオに渡すことが、上司であるデュプレクスに与えられた最後の命令だったからに違いない。
やがて陽は沈み、藍色がカーテンのようにエメラルドグリーンの空を染め上げる。
賽が視界の端に城壁を捉えたのは、それからしばらく経ってのことだった。
「よかった、間に合った」
「もう、頭が割れるように痛い……誰かあたしを殺してちょうだい」
「お嬢の自業自得だ。早く行こう」
三者三様の反応で衛兵たちの受付を済ませた後、荷馬車は簡素な城壁をくぐった。城壁の規模からして、この街の規模はあまり大きくはないようだ。
目的地であるハルペルイはまだ先だった。
「ここで宿を取りましょ」
エティオの提案は決定と言いかえてもおかしくない。主人は彼女なのだから。
小さなこの街は流通路の中継基地として栄えているところらしい。賽が街の入り口で馬車を預かってもらい、預かり屋に手数料を払う。その際、商業ギルド章を見せて疲れた馬の交換を申し出ることも忘れない。
馬車から降りた賽たちは雑踏を抜け、今晩の宿への道筋を辿っていた。
「もちろん、いつも通り部屋はひとつね」
宿屋のロビーでエティオがてきぱきと受付を済ませると、あっという間に賽たちは宿の一室に案内されていた。
「やっぱり屋根のあるところは安心するわー。野営なんて乙女のすることじゃないわ」
ソファーに腰を預けながらエティオが言う。レテは別室で衣服の洗濯をしている。
「……経費節減なんだろうけど、ちょっと無防備すぎないかな。安全のためにお金を払うこともあるよ」
同じくソファーに座る賽はあえて反論した。ここまでの一ヶ月近く、エティオの言うとおりに宿の部屋を同じにしていた。だが、エティオの無防備さは並大抵のものではない。おかげで賽は客室にいる間ずっと壁のシミを数えていたほどだ。
「人数を分散させればそれこそ各個撃破を狙われるわ。みんな一緒なのは戦力の集中になるし」
「エティオの言ってることは正しいけど、それとは違う問題だよ。男女が同じ部屋ってのは、ちょっと。間違いが起こらないとも限らない」
「今さら何言ってるのよ。あたしたち、一つ屋根の下で暮らしてきたじゃない」
「屋敷では部屋が別だったからよかった。でも今は違う」
「ぐだぐだうるさい。ならサイだけ荷馬車で番をしなさい。安全のためにね」
「……わかったよ、そうする」
「ええっ?」
平然と答える賽に対して、エティオがひっくり返った声を上げた。
「だって、荷物だって目を離してたら取られるかもしれないだろ」
「そ、それはない、って言うか無理! 倉庫のなかには他の客の荷馬車もあるんだから、うかつに入ったらこっちが泥棒扱いされるわ!」
「なら、なんでそういうふうに言ったんだよ」
「それは、ぐぐ……サイはあたしと一緒の部屋じゃ嫌なの? そんなにあたしは魅力ない?」
「エティオは綺麗だよ、だから心配なんだ」
「……本当に?」
「なんで嘘つく必要があるのさ」
「だって、部屋に入ったらサイはそっぽを向いて、あたしとまともに話してくれないし……」
「それはエティオが下着姿だったから。いや、下着すら身に着けてなかったこともある」
「あれは勝負下着!」
エティオに逆上気味に言われてしまった。今まで気付かなかった自分も大概だが、キレるほどのことだろうか。どうやら彼女とは価値観に大きな隔たりがあるらしい。
「奴隷は奴隷の分際で何を言っているのだ」
後ろ髪をひっつかまれたので振り向くと、後ろにレテが立っていた。釘のように強硬な視線で、賽は心臓を射抜かれるようだった。身動きができない。
「レテも言ってやってよ。主人のためにさ」
「お嬢は確かに無防備だが、ならばこちらが守りを固めればいいだけのことだ。主導権はお嬢にある」
レテの言っていることは確かに正論だが、そこまで自制心に自信のない賽が守りを固めるとはどのようにすればいいのだろうか。
「簡単だ、こうする」
言い終わるが早いか、レテが賽の座るソファーをひっくり返して床に押し倒し、服を脱がしていく。それと同時に両手両足をひものようなもので縛られた。レテの着る物もいつの間にかなくなっていた。
「ええ? レテ、それはどういう」
「言葉通りの意味だ。やられるまえにやる」
「僕、やられちゃうの?」
「ね、ねえレテ。あたしもご一緒していいかな」なぜエティオも服を脱ぎ始めているのか。
「お嬢は黙って見ていろ。後学のために」
「何を勉強するんだよ!」
手早く脱がされ縛られた賽は陸に上がったばかりの魚のように身体を床で跳ね回らせるが、こんな状態でいったいどこに逃げられるというのだ。一方でレテもバスタオル一枚の状態だった。
「どこを見ている奴隷。お前の相手は私だ」
ぐきっ、と音がして賽の首がおかしな方向に曲がった。賽は薄れゆく意識の中、自分の純潔がどこかへ行ってしまう確かな予感がした。
暗闇のなかで目を覚ました賽は、身動きが取れなかった。
いわゆる簀巻きというのだろうか。シーツを何重もくるまれた状態で縛られ、賽はベッドにくくりつけられていた。
自分の身体から、石鹸のいい香りがした。気絶している間に勝手に洗われたのだろうか。だとすれば、いろいろ恥ずかしい所も見られたのだろう。今になって顔が火照ったように熱くなる。
夜明けの鶏の鳴き声がする。横のベッドには、エティオとレテが寝間着をはだけた格好で寝ていた。
それを見て、賽は自分の目を疑った。
エティオのベッドの下で、黒い何かが蠢いている。白い牙を床下からちらつかせている。それはベッドの上のふたりを狙い、静かに迫る気配があった。
叫び声を上げるべきか。いや、上げるべきだ。意を決して賽が息を吸い込むと、突然声が上がった。
「ふぁーあ……もう朝?」
エティオが上体を伸ばして大あくびをしていた。
「……エティオ」
「ああサイ、おはよ」
ベッドの下のことを言うべきか。しかし、今見てもベッド下には何の気配もなかった。賽の纏う雰囲気に気が付いたのか、エティオの表情が硬くなった。
「……なに、サイ。寝間着は着ろってレテが言ったんだから。本当は下着、いや全裸でもいいわ!」
「いや、気にしないで。ちょっと考え事をしていただけだから。あと、僕はエティオが寝間着だと安心する」
「ふーん。変なサイ」
先の出来事を言うべきか悩んだが、今はやめておこう。これから自分たちは戦いをしに行くのだ、心配の種は少ないほうがいい。
ぽつりとエティオが呟く。
「今度はレテのいない時に普通に旅行に行きたいわね。あたし、これでも結構楽しんでるのよ」
「退屈だって言ってるのに?」
「サイと一緒なら、退屈もいいかなって。それだけじゃないしさ」
「……そうだね。それは、僕も賛成だ」
道を進む。時には雨の中を、時には車輪が泥濘にはまって苦しみ、道行く人に助けてもらったり、逆にこちらが助けたり。川の氾濫で橋が渡れなくなったり、シェードの襲撃に出くわして撃退したり。
それでもおおよその旅路はのどかで、退屈に満ちたものだった。
霧雨が音もなく降り、道をじっとりと湿らせる。御者席に座る賽は薄い油紙で出来た合羽を羽織り、視界の悪さにうんざりしながら馬の手綱を握っていた。
眠りと覚醒をメトロノームのように交互に繰り返して、後ろの荷台でエティオが時折身じろぎする。レテは荷物を枕に、死んだようにひたすら眠っていた。
「ね、サイ。ちょっといい?」雨音に混じってエティオが囁くのが聞こえてきた。
「……眠れないの?」
「うん……そういえば聞いてなかったわね、サイのこと」
「人に聞かせるほど面白い話じゃないよ」
「聞かせてよ。あたしのことも教えてあげたじゃない。元の世界では何してたの?」
エティオのことは自分で言い出したことだろう。そう言いかけたが、自分のことだけ隠すのはアンフェアな気がした。
それに、人に聞かれて困るほど大層な話でもない。
「僕の両親は、離婚したんだ」
「……そうなんだ」
「原因は、僕が事故にあったせいなんだ。車……馬車みたいなもんさ。それにはねられた」
「事故って、それとサイの両親の離婚とどんな関係があるの?」
「壊れた子は要らないって。この手が、動かなくなったんだ」
賽は自分の右手を労わるように、けれど恨めしく抱き抱えた。
賽はたどたどしく、自分の記憶を辿りながら話を始めた。
賽の両親は音楽家だった。父はバイオリニスト、母はピアニストという、絵に描いたような家庭だった。一等地に家を構え、毎日召使いが出入りする賽の家庭は隣近所からは妬みと羨望のまなざしを受けていたが、両親は日夜演奏会や講演会で家を空けることが多かった。
賽は愛情の深さを金銭で補うように、両親ではない他人から下にも置かない扱いで育てられた。当然のように賽は自分も音楽をやるのだろうと予感していた。
賽は自分の扱う楽器として、バイオリンを選んだ。父が使っていた楽器という、単純な理由だ。しかし音楽家の二人の血を受け継ぐには、賽に決定的に欠けているものがあった。
才能だ。
「才能って、奏力のこと?」
「まあ、似たようなモノ。音楽を志す者として必要不可欠の才能、絶対音感がなかったのさ」
「サイの御両親にこんなことを言うのもなんだけどさ……才能のない人に、なんでやらせるのかな」
「血は才能って短絡的に決めつける奴がいるからさ」
きっとエティオが見る自分の顔は醜く歪んでいるのだろうと賽は思った。
それでも賽は弛まぬ練習と努力、そして拷問のように長い時間で修練を積み、無いと言われ続けていた才能を少しずつ開花させていった。先生にもおべっか無しで評価され、バイオリンを持つのにも抵抗がなくなっていった。そんな時に、事故は起った。
ソリストの試験の前日だった。
「事故?」
「自動車との接触事故。相手のわき見運転と、そのころ信号の仕組みが変わっててさ。歩車分離信号ってやつ。あれに気づかなくて、車のドライバーが見切り発車をしたのさ。それに僕は巻き込まれた。同情の余地はあるけど、それでも巻き込まれた僕の右手が治るわけでもなかった」
「うん」
相槌を打ってくれるが、エティオの分かる言葉ではないのだろう。自動車や信号、ましてや歩車分離などゲヘナには存在しない。
それでも賽は強引に毒を吐き出すように話を続ける。
事故の後、賽の右手は動かなくなった。リハビリを続けて日常生活に支障が出ない程度に回復はできたが、バイオリンをやるには致命的だった。
バイオリンは繊細な楽器だ。絃の寝かせ方、弾き方やピッチ、その他複雑な要素を一体に統合してやっとまともな音が出せる。
それからの自分は、親にとっては価値のない人形みたいなものだ。そのころから、賽は無感動な性格になっていたのかもしれない。
「……可哀想、サイ」
「でも僕には少しだけ嬉しいことだった。もうバイオリンをしなくてもいいんだ。そんな僕を見て、父は母に離婚を切り出した。
出来の悪い息子は要らない。そんな言葉を吐いて父さんは僕と母さんを捨てていった。不完全な家庭を持つことに耐え切れなかったんだ」
「……完璧主義だったんだね」
「でもなぜか、父さんは月に一回だけ僕の様子を見ることを母さんに要求した。飛行機の距離で、僕は父さんのところに行ったよ。そしたらさ、笑っちゃうよ。父さんには、別に仲良くしている女の人がいたんだ」
「……ふうん」
「そして父さんは僕を引き取りたいって言ってきた。僕が不出来なのが離婚の原因じゃないのってきいたら、それは違うって。
僕の不出来は、父さんが離婚するための口実だったのさ」
「……ずいぶん、身勝手だね。そのお父様は」
「そうさ。僕が不出来だって言われて父さんが出て行った次の日から、僕には自由が与えられなかった。毎日毎日塾に家庭教師。母さんは、音楽は無理でも僕の頭の出来さえよくなれば父さんが戻ってくるんだとない頭で考えたのさ」
「……それで、サイは大事にされたわけ? 音楽や勉強は、サイが望んでしているわけじゃないんでしょう?」
「うん。でも、将来のためって言われてやってる、損をすることは決してないって言われて。僕の人生は、言われてやることばかりさ。だから、僕はこの世界に来てよかったと思っている。エティオと出会って、はじめて生きている実感がわいたんだ」
「……サイ、それは、本気で言ってるの?」
「もちろんさ」
賽の言葉にエティオは腕組みして考え込んでいた。いうべきか言わざるべきか考え込んでいるのだろうか。そんなに自分はおかしなことを言っただろうか、と賽は不安になった。
やがてエティオが賽の眼を見ながら、口を開いた。
「それなら、サイは元の世界に戻るべきね。自分の人生を生きるべきよ」
「……なんで。僕はこうやってエティオのために動いているじゃないか。それがどうして不満なのさ」
「サイには感謝してるわ、あたしの人生の手助けをしてくれてるんだから。でもそれはあくまであたしの人生であって、サイのじゃない」
「僕の、人生?」
「サイは、向こうの世界に自分の問題を残してる。戻って、解決すべきだと思う」
「解決って……。あっちじゃ僕は何のとりえもない高校生だよ。どうやって自分の人生を生きていけって言うのさ」
「自分の選択肢を測ることよ。こうすればどうなる、どれだけのことをすればどうなる。それさえわかれば、自分のしなくちゃいけないことくらいは分かるはずよ」
エティオはそう言うが、自分の人生がどうあるべきかなんて、わかるはずもない。現状における最善は、親の言うことに従って勉強を続けることだった。
「両親からどうせおまえは物を知らない、とか言われてきたんでしょ」
「何でわかるんだよ」
「それが人の意志を奪うのに、最も有効な手段だからよ」
不意に自分の視界に光が差したような気がした。
確かに、自分は生まれてからの長い時間、親の意思に背いたことはなかった。
しかしそれでは、自分が窒息死してしまうことも、わかっているはずなのだ。
親との対決は、自分の意志が窒息しないために必要なことなのだ。
「そんなこと言ってもさ、この世界からどうやって出て行けるっていうのさ」
賽は自分の言葉が逃げ口上であることを自覚していた。意志を示そうにも、相手と向き合っていなければ話にならない。
「……オリゲネス司教なら分かると思うわ、あいつなら。帰ったら、相談しましょう」
「元の世界に帰って、いいことなんてないよ」
「サイの記憶さえなければ、この世界でもよかったけどね。あたしを幸せにしてくれるって選択もあるのよ? でも、気持ちには折り合いをつけてよね。元の世界に」
折り合いならもうついている。元の世界で自分の置かれていた状況は、卵を羽化させるために親鳥の体温ではなく、電子レンジで加熱するようなものだ。
そんな日常など知ったことか。
親の顔色をうかがって生きるのは、悪いことではない。だが、自分を殺してまで親に付き合う必要はあるのか。
「奴隷は、お嬢のよき友になれると私は思います」
口を挟んできたのは、いつの間にか起きてきたレテだった。
いつものぞんざいな口調ではない、丁寧な言葉づかいだった。
「本人はどう思っているかは知りませんが、奴隷にとってこのゲヘナが安住の土地であってもよいと考えます」
「……レテ、あたしはそうあってほしいけど、サイの人生はサイ自身のものだわ。選択肢はできるだけ提示してあげないと、サイの親御さんとあたしたちは似たようなものになっちゃうわよ」
「奴隷の人生は主人のものです。それに、奴隷は自分の境遇から逃れたいと願っているのです。勇敢な、お嬢が頼りにする奴隷が逃れたいほどの境遇です」
「……一理あるわね」
「奴隷がこのゲヘナにいることは元の世界から目をそむけることになるのでしょうか。お嬢の言っていることは、猛獣から逃れた人間を再びその猛獣に差し出すことになるのではないでしょうか」
「……それは、サイが決めることよ」
「申し訳ありません、出過ぎました」
レテが押し黙った。ひょっとして賽に助け船を出してくれたのだろうか。
エティオの提案はジレンマなのかもしれない。自由意思を求める相手が奴隷というジレンマ。エティオは主人という一段高い所にいないと自分を安心させることができないというジレンマ。
その問題の解決に賽が手助けすることはできない。自分は対等ではない、一段低い所に置かれた奴隷なのだから。
同時に、賽の問題は向き合うことも、解決することも賽自身が決めるしかないのだ。